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プロフィール第三章 副長か、それとも総長か?

山南敬助のプロフィールで、剣術と新選組のおける役職についてはまだ詳しく述べていませんでしたね。
私は、プロフィールで新選組での役職を副長と総長の両方を挙げましたが、あえてこのブログの説明においては、 「新選組で大幹部であった山南敬助のすべてについて」と書いたように、総長とはしませんでした。なぜなら私的には、総長説に疑問を持っているからです。

ご存知のとおり、大河ドラマ「新選組!」では芹沢を暗殺した後、総長に就きました。また殆どの小説においても、副長から総長になる設定になっています。もちろん、ドラマ等、小説等での総長は大歓迎です。何故なら、山南が総長になったという設定の仕方によって、山南と土方の関係が好ましくても、そうでない関係であっても、物語として面白しろくなるからです。また二人共、副長のままであると、二人のそれぞれの呼び方を考えなければなりません。「新選組!」ファンの間では、「総長」「副長」で、誰のことを言っているのか、通じますから(笑)

しかし史実を考えた場合は別です。 
当時の新選組の編成表などにおいて、山南が総長をしたという記録は残っていないのです。ちなみに山南が亡くなった後の1965年5月下旬頃の組織表では、近藤が局長でなく総長という役職にありました。とにかく私はここ最近、「山南の総長説を出した人は誰?」と、疑問に思っていたのです。 
永倉の「浪士文久報国記事」「新選組顛末記」にも、山南が総長であったということは書かれていません。それで色々と調べたり、新選組ファンの方に尋ねたりしたところ、一部判明しました。
子母澤寛の「新選組始末記」と「新選組物語」に載っています。そして西村兼文の「新撰組始末記」に、芹沢派を一掃したあと山南を総長としたと書いてあるらしい。しかし、山南が亡くなった時、西村兼文は、「副長三南三郎ハ・・・自刃ス」と書いているのです。もちろん三南三郎とは山南のことです。これがまたもや不思議。総長から副長に格下げになったのかしら・・・とにかく子母澤寛はこの西村兼文の記録を参考にして、総長としたのだろうと思われます。しかし生き証人の永倉の記録にはないので、かなり疑問です。

新選組研究家の間でも、副長から総長になったという説を取り上げている方、亡くなるまで副長であったとする方、様々です。

永倉の「浪士文久報国記事」に興味深い記録があります。
1864年の夏に起きた禁門の変について書かれています。現代語に直された文を抜粋しますと、
「新選組局長近藤勇、病気のために引き込んでいた山南敬助に代わり副長土方歳三、副長助勤では病気のために引き込んでいた沖田総司に代わり副長助勤永倉新八・藤堂平助・斉藤一馬(一)・井上源三郎・・・・」

これは色々な捉え方ができると思うのです。
他のメンバーについては役職が書かれているのに山南については書かれていない。藤堂や斉藤、井上については永倉と同じ副長助勤という捉え方ができますよね?
しかし山南はどう捉えるといいのか?
これは療養のために役職がなかったのか?
それとも土方と同じ副長と捉えるのか?
山南敬助に代わりという書き方は、山南の方が土方より上という捉え方もできますよね?そうなると筆頭副長という感じになるわけで・・・

また永倉の「新撰組顛末記」の「伊東兄弟優遇さる、山南法にふれ切腹」の項には、山南は副長のままであったと思われる記録があります。その一部を抜粋します。
「すなわち隊長、副長は従来のとおりであるが、副長助勤をさらに組長とよび・・・」
これは、伊東甲子太郎が新選組に加わった元治元年(1864年)の10月のことです。
隊長とは近藤のことです。副長は従来のとおりとは、山南と土方の両方を指すと考えるのがごく自然だと思うのです。あるいは療養している山南のことは、永倉の頭の中になかったのではないだろうかという感じも私的にはします。

とにかく表舞台に立てなくなり、元治2年(1865年)2月23日を迎えるまで、山南は副長のままだったのか、総長に格上げになったのか、或は役職から外されたのかは、謎という訳です。謎だらけの人なので、すみません。
総長説において私の知っている記録は、西村兼文、子母澤寛のみです。
総長・副長説について、何か他に残っている記録をご存知の方がいらっしゃいましたら、教えて頂きたいと切に願っています。
by eri-seiran | 2005-10-27 17:12 |  山南敬助

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