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山南敬助の中山道の旅~近江へ~

昨夜、2月19日の大河ドラマ『功名が辻』のオープニングで、岐阜から京都までの距離が120キロ、馬であれば1日、徒歩で丸3日、掛かると言っていましたが、偶然にも、文久3年(1863年)2月19日、山南敬助らは、今の岐阜県岐阜市である加納宿にて一夜を過ごしました。

そして2月20日、加納宿を出立して、関ヶ原宿を通り、柏原宿まで歩きます。柏原宿は現在の滋賀県米原市です。以前は坂田郡山東町と言われていましたが、市町村合併で米原市となった次第です。
加納宿から柏原宿までの距離は、約38キロです。天下分け目の関ヶ原を通る時には、きっと話しも弾んだでしょう。色々な思いもあったでしょう。

いよいよ今で言う近畿に入るというわけです。滋賀県は勘違いされることもあるのですが、近畿地方になります。

山南敬助らが浪士組として上洛するために、伝通院を出立してからの行程をこれまで時々、記事にしてきました。しかしそれぞれの宿場の風土はどんなものだったのだろうか?今日の道程はアップダウンがきついのだろうか?など、なかなか想像つきにくいものがありました。
私が関西住人ということで、この辺りから想像しやすくなってきました。岐阜から柏原宿に行くまでに伊吹山が見えただろう。柏原宿から京に向かって歩く途中、桜田門外の変で非業の死を遂げた井伊直弼の居城であった彦根城が見えただろう。史実の山南敬助らもこの事件については色々と思うところがあったことでしょう。だから彦根城を見て何か感じたはずです。また琵琶湖の向こうにある比良山、比叡山も見えてきたでしょう。あの比叡山の向こうに京の町があるということを思いながら、歩いただろう。道は割と平坦で歩きやすかっただろうなど・・・
そして長い旅もやっと先が見えてきたと、私自身感じています。きっと彼らも近江の国に入り、京はもうすぐだと感じたことでしょう。
明日の21日は柏原宿から武佐宿(現在の滋賀県近江八幡市)までの約37キロ、明後日の22日は武佐宿からあの草津宿を通って大津宿まで34キロを歩き、23日に大津宿から京都に入り、壬生に向かいます。大津宿から三条大橋までが約12キロなので、壬生までの距離を考えると、15キロ前後でしょうか?
武佐宿では、旅も終わりに近づき、滞りなくきているということなどから、祝い酒が振舞われたらしい。

ところで、私は彼らが1日に40キロも歩くことがあるということに驚いていたのですが、先にも述べたように、『功名が辻』で岐阜から京都までの距離120キロ、昔では丸3日掛かったそです。と言うことは1日40キロ歩くことになります。1日40キロ歩くということは、昔では当たり前のことなんだと教えられました。

ちなみに日本橋から京都の三条大橋までの中山道の距離は約533キロと言われています。彼らは伝通院を出立して中山道に入っており、また壬生まで歩いたので、実際に彼らが歩いた正確な距離はわかりませんが、日本橋から三条大橋の中山道(草津で東海道と合流します)の距離で考え、彼らが16日間掛けて歩いているので、それで計算してみると、1日平均が33キロ強になります。20キロ弱しか歩いていない日もあるようなので、その日によって歩く距離にはかなり差があったようです。
昨日の話しでは、岐阜から京までは3日で行ける距離のようですが、山南敬助らは4日掛けて歩いています。長旅の終わり、ちょっと余裕を持ってという感じでしょうか。
by eri-seiran | 2006-02-20 16:57 |  出来事

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