山南敬助の死について~土方と総司の書簡より~

元治2年(1865年)3月1日付けで、土方歳三は佐藤彦五郎に屯所を西本願寺へ移転することなどについての書簡を送っています。
この書簡においての疑問が、山南敬助の死から間もないのに、山南の死に全く触れていないということです。
だから、山南と土方は仲が悪かったという説が出てくる一つの要因にもなってしまっていると思うのです。

土方が書簡で山南の死に触れなかった理由についてです(あくまでも私的な考え)
其の一:もし脱走・切腹説、或いは自害説(自殺)にしても、多摩の人たちとも懇意にしていた山南のあまりもの突然の死、書簡でこのことを説明することはできなかったのではないでしょうか。
この時点で、土方は近いうちに東下りする予定があったようです。だから、その時に詳しく説明しようと思ったいたのではないでしょか。

其の二:切腹、或いは自害(自殺)にしても、近藤、或いは土方が既に書簡(現代には残っていないもの)にて、山南の死を多摩の人たちに知らせていたのではないでしょうか。

次に土方の東下りが決まり、3月21日付けで、総司が土方の東下りについて、そして文末に山南の死をさりげなく書いた内容の書簡があります。ここでの一番の疑問が山南の死を26日と書いてあることと、死因が書かれていない事です。
そこで総司は、一ヶ月経っても山南の死のショックから立ち直れずに誤記したのか、反対に山南の死は総司にとってそんなに重大なことではなかったのかと、言われています。

まず死因が書かれていない理由についてです
其の一:土方の書簡について述べた其の一・其の二と同じです。やはり書簡にてこのことを説明することはできなかったのではないでしょうか。また近藤、或いは土方が、山南の死とその理由を書いた書簡を既に送っていたので、沖田は敢えて書かなかったということも考えられます。
其の二:佐藤彦五郎は山南の死が近いこと、その理由を知っていたとしたら?だから亡くなった日だけを書いたわけです。そうなると、病気とかなどで長くない命であるということになってくるのですが・・・ずっと静養していたと思うので、考えられない理由でもないと思うのですが・・・(あくまでも私的な考えです)

山南の死亡日を26日と誤記した理由についてです。
これが一番難しい(汗)
ショックから立ち直れないほどなら、死亡日を間違えることはないのでは?山南の死がそんなに重大なことでなかったから間違えるということも考えにくいと思うのです。
山南の死について、他のことについては色々と考え、自分の勝手な解釈を述べることができるのですが、これが一番難しい。私にとって山南の死の一番の謎かもしれません(汗)

葬儀については、子母澤寛により24日に行なわれたと書かれていますが、26日、つまり亡くなって3日後に葬儀とは考えられないのでしょうか?亡くなった日と葬儀の日を間違えたということは考えられるのでは?
それとも、ショックとか、重大なことではなかったとか、また葬儀とか関係なしに、総司の単なる誤記???

本当に謎・謎・謎だらけの山南敬助の死です。

最近、はまっているドラマ『時効警察』を観るたびに思うのです。
山南敬助の謎の死という事件。とっくの昔に時効になっている事件かもしれませんが、ぜひオダギリ@霧山修一朗に調べて頂きたい。資料が必要なら、いくらでも私が集めますので(笑)
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by eri-seiran | 2006-02-27 15:04 |  出来事 | Comments(0)

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