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壬生に着いてからの山南敬助は?

ここしばらく、元治2年(1865年)の2月23日の出来事、つまり山南敬助の死についての記事を中心に書いてきましたが、その2年前の文久三年(1863年)の2月23日に山南らは壬生に着いた以後、どうしたか?

着いた日に、清河八郎は主立った浪士を新徳寺に集合させ、朝廷への献言を提案したと言われています。この主立った浪士に近藤や芹沢が入っていたかは不明。もちろん山南も不明です。

24日に清河八郎が、学習院に上表文を提出して、受理された。
この上表文に、『新選組!』の堺@山南敬助が指摘した、「幕府御世話にて上京仕候得共、禄位等は相受不申」が書かれてあったわけですよ。

29日 浪士組一統に新徳寺への集合が通知されて、この時に、近藤・芹沢のグループが「幕府御世話にて上京仕候得共、禄位等は相受不申」という、幕府をないがしろにした点に反論を述べ、浪士組からの脱退を考え始めたのではないかと言われています。

大河ドラマ『新選組!』では、山南敬助と新見錦がいち早く、清河らの不審な行動に気付くのですが、史実はどうだったのだろう?

この記事を書きながら、改めて『新選組!』におけるあのあたりの回を思い出していたのですが、堺@山南敬助はすごく辛い立場だよな~
昔からの馴染みで、夢を掛け、信用していた清河・山岡に裏切られたわけですから~そして土方からは責められるし(汗)

もし史実の山南の北辰一刀流説が本当であれば、清河や山岡と知り合いだった可能性もあるよな~史実では以前から知っていたのだろうか???
とにかくこの時、史実の山南はどう思ったのだろう?
何を考えていたのだろうか?
もしこの時に清河について帰っていたら、山南は歴史に名前を残すことはなかっただろうな~
そうなれば私も山南に出会うことはなかったんだよな~
それは土方や近藤らにも言えることであり
ここで彼らが残留しなかったら、歴史も変わっていただろう。
そう考えると、彼らのこの時の行動は凄いよな~って改めて思うわけです。
by eri-seiran | 2006-03-01 23:28 |  出来事

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