桜田門外の変、その時山南敬助は
2006年 03月 03日
そう、桜田門外の変が起きた日です。大老の井伊直弼が水戸の浪士たち(薩摩の浪士が1人)によって暗殺されたという事件です。
つまり今日は何を語りたいかと申しますと、この事件が起きた時、史実の山南敬助はどこで、どのような状況にいたのか?ということです。
大河ドラマの『新選組!』の山南敬助は、桜田門外の変が起きる前日、つまり
さて史実ですが、「新選組日誌 コンパクト版 上」では、山南敬助の天然理心流の入門は安政年間の前半、或いはそれ以前まで遡って考えてもいいのかもしれないと解説されています。
つまり安政年間前半ということは、安政元年(1854年)から安政3(1856年)くらいということになります。
「新選組銘々伝 第四巻」では、小野派一刀流の大久保九郎兵衛門人であった山南敬助が中山幾之進と立ち合った時期について、嘉永6年(1853年)4月15日であると解釈しています。と言うことは、嘉永は6年までしかないので、山南敬助が試衛館の門人(食客)になった時期を嘉永(1853年)まで遡っては考えにくいということになります。
小野派一刀流の師匠であった大久保九郎兵衛が安政3年3月(1856年)に亡くなります。試衛館の門人(或いは食客)になったのは、この以降と推察することもできると、「新選組銘々伝 第四巻」で解釈されています。
そうなると、「新選組日誌 コンパクト版 上」における解説、安政年間前半という考え方と合います。
つまり結論としては、史実の山南敬助は桜田門外の変が起きた時には、既に試衛館の門人になっていた可能性が大きいというわけです。試衛館で、この事件について議論し合ったんだろうな~他の食客のメンバーがこの時期に試衛館を訪れていたかについては不明です。
この事件についての山南の見解はどうだったんだろう?聞きたいな~
土方は
これについては、私の勝手な解釈でございます
すみません!大きな勘違いをしていました。
桜田門外の変は安政7年(1860年)の3月3日に起きております。土方が土方が正式入門してから、約1年後ということです。正式入門のきっかけではありませんね(汗)