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桜田門外の変、その時山南敬助は

昨日は山南敬助忌、つまり現代についての記事でしたが、今日は上洛した文久3年(1863年)より更に4年3年遡り安政6年(1859年)安政7年(1860年)の3月3日のお話しです。

そう、桜田門外の変が起きた日です。大老の井伊直弼が水戸の浪士たち(薩摩の浪士が1人)によって暗殺されたという事件です。
つまり今日は何を語りたいかと申しますと、この事件が起きた時、史実の山南敬助はどこで、どのような状況にいたのか?ということです。
大河ドラマの『新選組!』の山南敬助は、桜田門外の変が起きる前日、つまり安政6年(1859年)安政7年(1860年)3月2日に試衛館を訪れ、土方や近藤らとの運命の出会いがあったわけですよ。そして近藤から広岡や芹沢鴨の話しを聞いて、事件を予測するんですよね。凄いな~さすがだな~(笑)

さて史実ですが、「新選組日誌 コンパクト版 上」では、山南敬助の天然理心流の入門は安政年間の前半、或いはそれ以前まで遡って考えてもいいのかもしれないと解説されています。
つまり安政年間前半ということは、安政元年(1854年)から安政3(1856年)くらいということになります。
「新選組銘々伝 第四巻」では、小野派一刀流の大久保九郎兵衛門人であった山南敬助が中山幾之進と立ち合った時期について、嘉永6年(1853年)4月15日であると解釈しています。と言うことは、嘉永は6年までしかないので、山南敬助が試衛館の門人(食客)になった時期を嘉永(1853年)まで遡っては考えにくいということになります。
小野派一刀流の師匠であった大久保九郎兵衛が安政3年3月(1856年)に亡くなります。試衛館の門人(或いは食客)になったのは、この以降と推察することもできると、「新選組銘々伝 第四巻」で解釈されています。
そうなると、「新選組日誌 コンパクト版 上」における解説、安政年間前半という考え方と合います。

つまり結論としては、史実の山南敬助は桜田門外の変が起きた時には、既に試衛館の門人になっていた可能性が大きいというわけです。試衛館で、この事件について議論し合ったんだろうな~他の食客のメンバーがこの時期に試衛館を訪れていたかについては不明です。
この事件についての山南の見解はどうだったんだろう?聞きたいな~

土方はこの事件が起きた6日後安政6年(1859年)の3月9日に、正式に天然理心流近藤周助の門人となったという記録が「天然理心流神文帳」に残っています。嘉永4年(1851年)に入門したと「両雄士伝」には書かれてありますが、薬の行商しながら、剣術の練習もしていたという感じだったのでしょうか?この間の土方の行動はよく分からないようです。
とにかく、この桜田門外の変の事件、またそれについての山南や近藤らとの議論が土方に何かしらの影響を与え、天然理心流に正式入門するきっかけになったのかもしれない。
これについては、私の勝手な解釈でございます


すみません!大きな勘違いをしていました。
桜田門外の変は安政7年(1860年)の3月3日に起きております。土方が土方が正式入門してから、約1年後ということです。正式入門のきっかけではありませんね(汗)

by eri-seiran | 2006-03-03 19:50 |  山南敬助

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