山南を烈火のごとく怒らせた村上俊五郎

以前から多摩の人たちだけでなく、山南敬助と縁のあった人たちについて書きたいな~と思っていて、例えば、西村兼文、山岡鉄舟、八木為三郎など。
そこで今日は、前回の記事で少し触れた村上俊五郎について。

村上俊五郎は阿波の出身で、天保5年(1834年)の生まれなので、山南より一つ年下、土方近藤と同年齢ということになります(すみません!土方ではなく、近藤でした)
『新選組!』の第13回で、土方歳三が言っていた通り、元は建具師。三谷さん、細かいことまでちゃんと調べているんだね~この記事を書くに当たり、ちょっと調べようと思い、知りました。そう言えば、ドラマの中で土方が言っていたな~と思い出した次第です。
元建具師は剣術に優れており、下総佐原(現在の千葉県佐原市)において、自分で剣術の道場を開いた。阿波の出身で、元々は建具師だった方が、どのような経過で、下総で自分の道場を開くようになったのかはわかりません(汗)
そしてその道場で石坂周造(清河八郎の同志であり、浪士組に参加し、明治を生きた方。また清河との関係や浪士組結成についての語り部)と知り合い、江戸にて清河八郎が開く虎尾の会に参加し、清河とは血盟の同志となる。だから浪士組では、道中目付けと六番組の小頭を兼務するという幹部格だったというわけです。

事件が起きたのは、文久3年(1863年)の京に着く1日前である2月22日のことでした。場所は、草津宿。永倉の記憶によると、
山南が三番組の小頭の役割を担っていた時、草津宿に着いて、村上が

「貴公の組は乱暴をしてはなはだめいわくいたす。取り締まらっしゃい」と注意する。すると山南は、「なにが乱暴だ。拙者をはずかしめんとてさようのことをもうすのだな」と烈火のごとく怒りだした。
                              『新選組顛末記』より


このように一悶着が起こりそうになったそうです。そこで浪士組大幹部の鵜殿鳩翁と山岡鉄太郎が仲裁に入った。そして京に着いてから、山岡が村上に大小刀を取らせて山南に謝らせたというのです。山南も幕臣の山岡がそこまでしてくれたので、和解したらしい。
村上は山岡のことを敬愛していたようです。それが以前からなのか、それともこの事件が起きた後、或いは明治になってからかは分かりませんが、山岡が明治21年に亡くなった時には、殉死するおそれがあるとして、警察に保護されるほどのものだったとのこと。

さてこの山南と村上の事件は、永倉のこの記録にしか残っていません。永倉が70歳代になって語ったことなので、山南の発言をそのまま覚えていることは難しいでしょう。このような感じのことを言ったというところでしょうか?
穏やかで親切者と云われていた山南、しかし物を申す時は申す方というのも、このような記録が残っているからであります。

さて村上俊五郎は、山南だけでなく、試衛館のメンバーにも疎まれていたらしい。清河が江戸に帰ることを決め、そこで京に残留することを決めた近藤派と芹沢派のメンバーは清河の暗殺を計画。彼らが清河の次に命を狙っていたのは、村上だったとのこと。暗殺する方の名前が書かれた書状があり、村上は2番目に書かれていたそうです。
暗殺を免れ、清河らと江戸に帰った村上は、清河が佐々木只三郎らによって暗殺された時、幕府に捕らわれました。慶応4年に解放され、自由の身になってからは、勝海舟に面倒を見てもらっており、勝海舟邸をよく訪れていたとのこと。
その勝海舟邸で、ある因縁があったのです。
慶応4年(1868年)4月4日、勝の日記には、流山の顛末を伝えるため、近藤の助命をお願いしに土方歳三が訪れたと、また同じ日に村上も訪れたことが書かれてあるそうです。
土方と村上が勝邸で遭遇したかはわかりませんが、遭遇していたなら、少なくとも土方の方は覚えていただろう。暗殺しようと思っていた方ですから。

穏やかで親切者であった反面、短気で物を申す人でもあるという山南の性格を伝えるエピソードを作ってくれた村上俊五郎は、明治34年(1901年)に亡くなりました。
墓は、敬愛する山岡や石坂の墓所と同じ谷中の全生庵にあるそうです。
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by eri-seiran | 2006-07-11 01:40 |  縁者 | Comments(0)

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