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山南敬助についての疑問 其の一

山南敬助が好きで、色々な書籍を読んだり、調べたりしているわけですが、どうしてもわからないことがあります。それも初歩的なこと。
其の一として、山南の姓について、誰がやまなみという読み方で伝えたのかということです。最初にやまなみと誰かが読んだから、現代にそう伝わっているわけですよね?
最近では、さんなんという読み方の説が有力になってきているように思います。それはやはり、多摩の人、島田魁、西村兼文などが、山南のことを『三男』『三南』という漢字で記録に残しており、これは山南の当て字であり、さんなんと読む方が有力視されてきたわけです。しかし何故早い段階で、さんなんと読むんだという解釈が有力にならなかったのか、不思議で仕方ないのです。

西村兼文が明治の初年に書いた『近世野史』において、芹沢鴨暗殺者の一人に三南三治郎という方を挙げており、これは山南のことであるわけです。また明治22年の『新撰組始末記』でも、山南のことは三南と書いております。新選組の語り部の一人である西村兼文が、山南のことを『三南』と書いてあるわけですよ。何故それが早い段階で取り上げられなかったのだろう?

明治44年、小樽の新聞記者が永倉新八に新選組について取材をして、それが2年後に『永倉新八』というタイトルで「小樽新聞」に連載され、また新八の13回忌の時、編集して非売品として有志に配られたのが『新撰組永倉新八』であり、そして現代になって書籍となって発行されたのが『新撰組顛末記』です。
そこでです。小樽の新聞記者が永倉新八に取材した時に、新八は『山南』のことをやまなみと言ったのか、さんなんと言ったのか、どちらだったのだろうか?疑問に思うわけです。
明治44年、新八は72歳です。出来事とか、それについての詳しい中身は、年月が経ち、記憶も定かではなくなるだろう。だから、明治の早い段階で書いた『浪士文久報国記事』との多少の違いが出てくる。それは仕方ないことです。しかし同じ釜の飯を食った同志の姓の読み名を忘れるということは考えにくいと思うのです。『浪士文久報国記事』は、『新選組日記 永倉新八・島田魁日記を読む』(著者:木村幸比古 PHP新書)において、書籍として出版されていますが、原文も載っています。但し、原文の山南のところに振り仮名はありません。

もうひとつは、子母澤寛氏の書籍においてです。『新選組始末記』や『新選組遺聞』はこの『新撰組永倉新八』がベースにあるとも言われていますが、八木為三郎に話を聞いたのも史実。八木為三郎は、山南のことをやまなみと言ったのか、さんなんと言ったのか、どちらだったのだろうか?子母澤が為三郎に話しを聞いた時、為三郎も高齢になっています。しかし間違えるだろうか?原本については分かりませんが、現代になって書籍として出版されたものには、やまなみと振り仮名がつけてあります。

新選組研究の第一人者であると言われている平尾道雄氏の『新撰組史録 新装版』(新人物往来社)には、振り仮名はつけてありません。これも昭和3年(1928年)に出版された原本には振り仮名があったかについては、分かりません。この方は、近藤勇五郎(近藤勇の甥で、娘タマのお婿さん)を訪ねて、話しを聞いていらっしゃるようです。

どちらにしても、読み方がさんなんだったという100パーセントの確証もなければ、やまなみだったという100パーセントの確証もないわけです。
しかし最初に書いたように、『三男』『三南』という記録が残っていることを考えると、さんなんの方が有力になるよな~と私的にも思います。
土方、沖田、永倉、原田など試衛館派のメンバーの姓名にも当て字が使われている記録が残っていますが、読み方まで悩むものではない。
例えば土方の場合、土方年蔵とか、永倉の場合、長倉新八とか、悩まなくて良いですものね~その通りに読めますから。
何故、この方の姓の読み方は、ここまで悩むことになってしまったのだろう?
山南という姓自体、珍しいことが原因にもなっているのだろう。試衛館派の他の方の姓は素直に読んだら良いですから。

どのような経過で、やまなみという読み方が伝わってしまったのか?
誰が伝えたとか、残っていないですよね?
という訳で、疑問に思っている今日この頃です。
by eri-seiran | 2006-07-30 17:35 |  山南敬助

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