岩城升屋事件と鴻池事件 其の一

今まで何度も記事で触れながら、深くは触れないようにしてきました。何故ならば、壁にぶつかるから(苦笑)。いつに起きたかも分からない事件。どちらの事件が山南の致命傷になったのかもわからない。

でも昨日の記事において年譜を書いていたら、やはりこれから逃げていたらいけないと、改めて思いました。山南敬助が好きなら、避けては通れぬ事件というわけで、ちょっと探ってみたいと思います。

岩城升屋事件
 大坂の高麗橋にある豪商・呉服店の岩城升屋にて起きた事件。

小島家に伝わる『異聞録』に、三振りの血刀、そして真中の折れた刀には血糊がおびただしく付着している様子が載っている。その刀の銘は、摂州住人赤心沖光作である。そして

新撰組局長助山南敬助、岩木升屋江乱入ノ浪士ヲ討取、打折候、刀此時会津公ヨリ御褒美として金八両拝領いたし候

ということが、その刀の横に書かれています。これには、局長という役職名も疑問なんですけれどね。
*すみません。私のミスです。正しくは、局長助で、助を付け足しました。はい、これなら納得です。

鴻池事件
 大坂の今橋にある大名貸しなどを営む大坂随一の豪商・鴻池で起きた事件

同じく小島家の鹿之助が記した『両雄士伝』に載っています。長いので、『新選組銘々伝第四巻』の山南敬助の章に書かれてあるものをまとめてみますと、

不逞浪士数人が鴻池を訪れて金をゆすった。鴻池は人を走らせて、新選組に助けを求めた。それを聞いた近藤は、土方歳三と山南敬助を派遣し、二人は身を挺して戦い、数人を斬り、残った浪士は逃げた。鴻池は感謝して、近藤らに名刀一各一振りを贈った。

ということ。
ここで共通しているのは、どちらも山南が戦った、どちらも場所は大坂であるということです。

そしてその他にも同じような事件の記録があるのです。それが「剣俠實傳・近藤勇」に書かれています。これも『新選組銘々伝第四巻』の山南敬助の章に書かれてあるものをまとめてみますと、

元治元年元旦の夜に、鴻池の京の別邸で近藤と山南が賊と戦い、山南の佩刀から鍔元が折れて、左腕に微傷を負ったが、賊を仕留めた。年賀のために京に居合わせた鴻池の主人が二人にお礼を述べ、山南の佩刀が折れたのを気の毒に思い、一抱えの名刀からお気に召すものをどうぞと言ったところ、近藤が一振りを選び、山南には自分の差料を譲ることにして、その一刀を貰った。そしてそれが虎徹だったと云う。

また『維新史蹟図説』においても、

鴻池で起きた事件、その夜にお礼として刀を贈ったが近藤一人だった。そこに山南はいなかった。

という話もあります。
またまた佐藤昱氏の『聞きがき新選組』にも類似の事件が書かれています。ちなみに佐藤昱氏は佐藤彦五郎の孫にあたる方です。これも『新選組銘々伝第四巻』の山南敬助の章に書かれているものをまとめてみますと、

事件の後日に、鴻池から近藤が招待を受け、山南の佩刀が折れたことが話題になり、鴻池から刀の進呈の話があった。

ということ。
この後半の二つの話から、山南が出席していないために、山南の負傷が重かったのではないかという説が出てくるわけです。

さて『異聞録』と『両雄士伝』には、事件が起きた年月日が記されていないのですが、「剣俠實傳・近藤勇」においては、元治元年(1864)元旦の夜とされています。場所は、鴻池の京の別邸。元治元年、つまり文久4年の元旦、近藤たちは京に居たということになります。翌日の2日に、将軍家茂公の警護のために、新選組は大坂に向かったという記録が残っているので、元治元年元旦に山南や近藤が京にいたことはほぼ間違いありません。そして山南の佩刀が折れた事件は、この記録から文久3年に起きたのではないかと考えられるわけです。また『異聞録』での岩城升屋で起きた事件、『両雄士伝』での鴻池で起きた事件、どちらも大坂にあることから、この元治元年(1864)1月2日から15日まで、新選組は将軍の護衛のために大坂に在中していた時に起きたのではないかとも考えられるわけです。
しかしある記録から、それは考えにくいことが判明。ある記録とは、小島鹿之助の父親である佐藤角左衛門が文久3年(1863)12月13日に記した『聴書』に

陣中ニて用い候刀三振り、折れ候また刃こぼれ候まま、生き血染め候姿ニて下シ申し候、市谷加賀屋敷まで送り候間、捨五郎日野宿エ持参
              (『新選組銘々伝第四巻』の山南敬助の章より抜粋)

と、あるのです。
正しくこれらの刀が、『異聞録』の載っている刀と同じだと考えて間違いないということになります。
捨五郎とは、松本捨助のことであり、文久3年の11月、新選組に入隊したいと言って壬生の屯所を訪れましたが、土方らに家を継ぐようにと言われ、入隊を断られ、12月に多摩に帰って来た記録が残っています。その時に、刀三振りを託されたわけです。
と言うことで、山南の佩刀が折れた事件は、捨助が文久3年の11月下旬に京を出立しているので、11月中旬までに起きた事件になるというわけです。

事件が起きた時期をさらに絞ることと、岩城升屋事件と鴻池事件は、全く別々の事件なのか、それとも一つの事件が岩城升屋、或いは鴻池に入れ替わったのかということを検証しなければならないのですが、頭が混乱してきましたので、それらについては次回に。
[PR]
Commented by 久雪 at 2007-01-20 21:50 x
エリさんこんばんは。寒中お見舞い申し上げます。
私も山南さんは岩城升屋事件、鴻池事件で大怪我をしたのかなと考えてしまいます。もしくはその後まもなく、大病を患のかと。昔は病に犯されて死ぬ人も断然多かったでしょうし。近藤土方との思想の違いによる対立だけでなく病魔とも戦っていたのかもと考えると胸が締め付けらる思いです。。
ところで赤心沖光の押形の「新撰組局長〜」と書かれている件で差し出がましいかとも思いましたが見直すと「局長助山南敬助」となっておりました。なので局長助=副長でよろしいかと。そういえば近藤を総長とする文献があったような?? 映画だと「御法度」の近藤はたしか総長だったと記憶しています。
Commented by eri-seiran at 2007-01-21 16:48
>久雪さん
ご指摘ありがとうございます。自分で、局長?なんでこんなとこに自分は今まで疑問を感じなかったんだろう?と思いながら、記事を書いていました。今まで疑問を感じなかったはずです。早速、訂正させて頂きました。
山南の総長説も疑問があり、研究家の方の中でも最後まで副長と挙げる方も多いんですよ。他の方々も含め、役職名もなんかややこしいですよね?

そして山南の死。近藤や土方との考えの違いが本当にあったのだろうか?と、私的には疑問を持っているのですが、もしあったとしたら、この怪我がそこにも影響しているのだろうと思っています。長い間、新選組において働けなかったら、身体的な不憫さに加え、精神的な面もかなりつらく、その一方で功績をあげていく近藤や土方ら。そんな彼らと溝ができてもおかしくないな~と思ったりもします。
by eri-seiran | 2007-01-16 13:16 |  出来事 | Comments(2)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


by eri-seiran
プロフィールを見る
画像一覧