岩城升屋事件と鴻池事件 其のニ

前回の記事の続きです。
まず山南敬助が元気であった日はいつ頃までだったのかということについて、残っている記録から探ってみます。
確かなのは、文久3年(1863)の8月18日の禁門の政変です。ここまでは表舞台に立っていたことになります。
明治の初期に永倉新八によって書かれた『浪士文久報国記事』に山南敬助が副長として参加したことが記されています。また出典不明の隊士名簿があり、書かれてある52人の名前は禁門の政変に出動したメンバーではないかとも考えられ、その中に山南の名前もあります。
そこで山南は禁門の政変までは元気だったということが証明されるわけです。

禁門の政変の次に起こった大きな事件が芹澤派暗殺です。
暗殺者には色々な説があり、もちろん、山南敬助が暗殺者の一人であったという説もあります。そうなると、ここまでは元気だったということになるのですが、試衛館のメンバーの一人である永倉は、『浪士文久報国記事』にて、暗殺者に土方、総司、平助、御倉伊勢武の4人を挙げています。永倉は暗殺の計画は知らなかったとも云われていますが、幹部故に、後で土方や総司などから暗殺の様子を聞いたのでしょう。だからこそ、加わっていないのに、生々しく書けたのではないだろうか。私的にはこの事件の直後に、長州の間者だということが分かる御倉伊勢武が入っていることが疑問に思ったりもしたのですが、長州の間者だとわかっていたうえで、わざと加え、芹澤派暗殺は長州によるものということもできるな~と思ったり。
話が山南からずれましたが、芹澤派暗殺の時、山南が元気だったかどうかはなんとも言えないと言ったところでしょうか(汗)。

それならば、岩城升屋、また鴻池は大坂にあったことから、下坂した時期を探ってみます。禁門の政変後に下坂している時期を記録に残っている中から挙げると、禁門の政変後の8月後半から9月の終りにかけて大坂に居た時期があるというのです。近藤の書簡から、御倉伊勢武ら長州間者を殺害した時に、自分は大坂にいたと書いてあるのです。山南も一緒に下坂したことは考えられます。その後は、11月16日に、一橋慶喜に随従して下坂しています。そして19日には、近藤が京にいたことがわかります。そして21日に入隊を断られた松本捨助が多摩に帰ることになったようなので、この日までに、折れ、血糊の付着した山南敬助の佩刀である赤心沖光が捨助に託されたことになります。それならば、8月の終りから9月の終りにかけての一ヶ月の間か、11月16日からの下坂の時に、岩城升屋事件は起きたのか?ということになります。

しかしもう一つ気になることがあるのです。話は遡り、7月に壬生浪士組は下坂しています。その下坂中、芹澤鴨と近藤勇の名前で鴻池の主人の善右衛門から230両を領収しているのです。これには借用に類する文字がないために、鴻池から進呈されたものではないかと考えられないわけでもないようです。
そこで、鴻池事件が出てくるわけです。不逞浪士に襲われたところを助けて頂いたお礼にと、進呈したのではないかということです。
岩城升屋の升屋と鴻池の屋号の升市という類似、また2つの場所が近かったことなどから、混乱して、本当は鴻池で起きた事件が岩城桝屋として書かれてしまったのではないかということも考えられないわけではないようです。
そうなると、山南は7月に入ってすぐに怪我をしたことになるわけで、そして8月18日の禁門の政変への参加も難しくなってくるわけですが・・・参加しています。また血糊の刀を11月までそのまま置いてあったのだろうか?
しかしまたそれをほのめかす書簡があるのです。

山南敬助の折れた佩刀のことをこれは指しているのかという近藤から多摩の人たち宛てに、9月から11月にかけて記された3通の書簡。1通目が9月20日付、10月20日付、11月29日付け。
折れた刀を送るのでご覧下さいというような内容のことが、3通には書かれています。そして10月20日付には、

・・・剣は摂州者決して御用い成されまじく候。
            (『新選組銘々伝第4巻』の山南敬助の称から抜粋)

という内容のことが、漢文で書かれているのです。
摂州者は、山南敬助の折れた佩刀である赤心沖光を指しているとも考えられます。

つまり9月から折れた刀を送るから、見てくれと書きながら、送れていなかった。そこに呼ばれもしないのに松本捨助が現われたから、託したというわけです。

長々と書きましたが、この事件が起きた時期については、ちょっと断定できません。ごめんなさい。断定したくないという私的な気持があるのも事実です。また大事なことなので安易に断定してはいけないとも思うので。ただ7月から11月にかけて起きたのは間違いないでしょう。

もう一つ検証しなければならないこと、それは岩城升屋事件と鴻池事件は同一事件で、名前が入れ替わったのか、或いはそれぞれ別々の事件なのかということ。
先に鴻池で起きた事件が岩城升屋事件に替わってしまったのでは?と、書きましたが、一方で、岩城升屋で起きた事件が大坂随一の豪商であった鴻池で起きたということになったということも考えられます。これも当然ながら、断定はできません。
そしてそれぞれ同じ日に起きた事件だったのでは?ということも。常宿にしていた京屋跡から岩城升屋跡、そして鴻池跡まで実際に歩いてみたのですが、本当に近い。不逞浪士に襲われた鴻池から使いの者が京屋にいた新選組に助けを求めに行った。その間に不逞浪士は、鴻池から金を奪い、今度は岩城升屋に向かった。そこで山南は岩城升屋で戦い、負傷した。だからこそ、鴻池で起きた、岩城升屋で起きたという情報が流れて、それは決して間違いではない。鴻池には山南と土方が最初に行った、様子を見るために少し遅れて近藤も行き、岩城升屋で近藤も立ち合った。こう考えると、話が合うんですけれどね。ちょっと無理がありますかね(苦笑)。
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by eri-seiran | 2007-01-17 00:11 |  出来事 | Comments(0)

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