山南敬助の出身地である仙台への旅 其のニ

今回、仙台を訪れた目的のひとつに、自分自身で山南敬助が仙台藩出身であるか、ないかの謎について調べてみたいと思ったからです。
1については、NTT東日本宮城支店にて調べました。2以降については、仙台市博物館の中にある情報資料センターの書籍にて調べました。ここには本当に貴重な書籍がおいてありましたよ。
と言うわけで、調べた内容と結論については下記の通りです。

1.山南(やまなみ・さんなん)という姓が宮城県に存在するか、しないか。

これは山南の仙台藩出身を謎として語る時、山南の姓が現代の宮城にないということを書籍などでよく触れています。今回、NTT東日本宮城支店で電話帳を見せてもらい、山南でやまなみというよみ方、さんなんというよみ方、そして仙南(せんなん)についても調べてみました。何故、仙南についても調べたのか、理由はこちらの記事より
はい、山南という姓は、やまなみでもさんなんでも宮城県の電話帳には載っておりませんでした。言われている通りです。隣の県についても調べてみたかったのですが、時間的に難しく、東北方面にはないと云われているし、宮城県の電話帳にないんだからないだろうということで、スルーしました。仙南については個人の姓としてはありませんでしたが、インターネットで検索すると出てくるように、団体名などでは色々とありました。

結論:現代の宮城において、山南、仙南という姓は存在しない。

2.宮城県の南の方を仙南、北の方を仙北という呼び方があるが、仙南という言葉がいつ頃から存在したのか。

仙南という言葉に拘っている理由は同じように、上記のこちらの記事よりに書いております。
仙南という言葉の説明が書かれた書籍はいくつかありました。仙南は、旧刈田・伊具・亘理・柴田・名取諸郡、また仙北は、黒川・加美・玉造、志田、遠田・栗原・登米・牡鹿・桃生・本吉諸郡をさすと、書かれていました。しかし肝心のいつ頃からかということは書かれておりませんでした。地元の歴史に詳しいと言われる方に尋ねてみましたが、わからないとのことでした。ただそれぞれ挙げた地名は、仙台藩の領地名であり、そういう書き方をされているということは、あったのかな?と思ったり。

結論:幕末に仙南という言い方があったのかは、不明。

3.山南の父は仙台藩士だったのか?

これも山南のプロフィールを語る時によく触れていますが、父親は仙台藩にて剣道師範だった、しかし仙台の藩士名簿に山南という姓はないと云われています。今回、この藩士名簿を見ることができました。はい、云われている通り、ありませんでした。
仙台藩にあった姓氏について書かれた本もありましたが、山南という姓はありません。元々、仙台藩の出身であれば、山南という姓が山南の父親に限らず、載っていてもおかしくないと思うのです。

結論:山南の父は仙台藩士であったが、姓が山南ではなかった、または仙台藩の出身ではなかった、或いは他藩から来た浪人であったなど様々な場合が考えられる。

そんなこんなで色々と書籍にて調べているうちにやはり謎だ!謎すぎる!と叫びたい気分だったのですが、家紋と姓について書かれた書籍を見つけ、ちょっと違う角度から調べてみることにしました。
山南の家紋は、光縁寺と同じ丸に右離れ立葵と云われています。しかし正直言って私自身、100%信じているわけではありません。当時の記録がそのまま残っているわけではありませんから。しかし今回、この家紋から調べてみることにしました。そしたら、この家紋の一つが、現代の仙台に多く見られる家紋のひとつであることがわかりました。そしてその家紋の使用家の姓が四つ挙げられていて、そのうちの二つの姓が仙台藩士の中にもいらっしゃったのです。さらにその一つの本姓が藤原であり、伊達政宗の時から仕えていたと言うのです。山南の本姓も藤原と云われています。同じ藤原です。まあ~本姓が藤原というのは多いですけれどね。とにかく山南はその子孫だったということも考えられるのでは・・・
無理やり結びつけたという感もありますが(汗)。

とにかく、山南が仙台藩の出身であったならば、山南敬助が偽名を使ったという説が強くなるわけです。
天明2年(1782)に仙台を訪れ、俳句の指導にあたったり、句集をまとめたり、芭蕉の句碑を建てた駿河国出身の俳人・山南官鼠(やまなみかんそ)と何か関係があるのか、それとも仙南となんか関係かあるのかといったところですが、只今、山南官鼠と何かありそうな気がしてなりません。仙台藩において山南という姓がない、唯一、山南官鼠という方が仙台を訪れており、俳号ではありますが、仙台の地にその名を残しているわけです。
山南が俳句を好む人だったと云われていたら、もうこれだ!と言いたくなるんですけれど、そんなことは云われていませんし、漢詩は残していても俳句は残しておりませんし。本当は俳句を詠む人だったけれど、土方に遠慮して隠していたとか(苦笑)。

仙台において調べた結果はこの程度のものです。
今回、記事にしながら、調べ忘れがあったり、行けばよかったと思う場所も出てきたり、宿題をたくさん残していることに気付きました。名産の中で食べ損なったものもあります(苦笑)。
今度は違う季節に行きたい、そして新選組ゆかりの地がある石巻市にも足を運びたいと思っています。

仙台藩出身ということは、当時の浪士組の名簿や小島鹿之助、永倉新八、西村兼文など様々な方々により記録に残っています。と言うことは、本人が一貫として、自分は仙台藩出身だと言っていたということです。本人が言っていたなら、それを信じようとこれまでも思ってきました。もし違う藩であったとしても、そこには何らかの事情があったからであり、山南が仙台藩出身と言っていたなら、仙台藩出身なんだと。

特に理由はない、当てにならない自分の直感でありますが、自分が仙台の地を歩きながら、ここはやはり山南敬助の出身地だと思え、それだけでもなんか嬉しくなってしまいました。
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Commented by 久雪 at 2007-02-12 23:38 x
こんばんはエリさん。いろいろ調査されて来たんですね! そして山南姓はやはり宮城には無いのですか。

「山南官鼠」ですが、嘉定庵についても資料が欲しいところですよね。いつ頃まで存続していたのか?
「山南敬助と山南官鼠の関係性」、孫である説、続いていた嘉定庵の一員だった説、官鼠の句集を愛読していてファン(!?)だったから名乗ってみた説…色々考えられますよね。因みに官鼠は富士山を大変好んでいたようで辞世の句では見慣れていた富士が自分の死後の枕となるであろうとしています。若くて青い山南敬助が官鼠に傾倒して富士山への憧れも強め、江戸や駿河あたりに遊学したら結果的に江戸に居着く事になってしまった…なんて有りですかね(笑)
Commented by eri-seiran at 2007-02-13 21:17
>久雪さん
こんばんは。久雪さんが山南官鼠のことを教えてくださり、仙台に行きたいという気持ちは強まった次第です。また仙台市博物館にも行けましたし、改めて御礼申し上げます。
嘉定庵について詳しく知りたいですよね。今回、山南官鼠が建てた芭蕉の句碑に行けず。次回、行きたいと思っています。
官鼠が富士山を大変好んでいたというのを知って、『新選組!』の山南敬助を思い出しました。明里が富士山を見たいと言って、連れて行こうとした山南敬助@堺雅人。なんか、ちょっと不思議な縁を感じずにはいられません。
昔であれば、場所によっては江戸でも富士山が見えたのではないでしょうか?史実の山南敬助も富士山を見ていたのではないかな?と、思ったり。
山南が偽名であれば、山南官鼠がどうしても関係しているような気がしてならないですよね。後、母親の旧姓を名乗ったということも考えたのですが、そうなると母親は他所から来た方でなければならないんですけれど。
Commented by 久雪 at 2007-02-15 00:05 x
再び失礼いたします。どうも富士山が気になって調べたら大津からも富士山が見える場所があるみたいです。例えば京急大津駅から富士山の頭の部分がひょっこりと。昔だったら結構どこからでも見えていたのかもしれませんけれど。そういえば大津の義仲寺に松尾芭蕉の墓があるのですが…うーん、偶然なんでしょうか。官鼠と関連して考える場合は偶然では無いのかなぁとも思えます。果たして山南敬助は漢詩意外に俳句も詠んでいたのか否か。謎ですねぇ…
Commented by eri-seiran at 2007-02-15 22:59
>久雪さん
先日、コメントを書くとき、義仲寺のことを思い出していました。昨年の秋、義仲寺に行って来たんです。旧東海道を京の方に向かってちょっと歩き、
そして寄りました。
昔に読んだ新選組の小説で、京に向かう途中でこの義仲寺の前を通る時、山南が総司に木曽義仲のことを教えてあげるのです。そして約2年後、山南が脱走した時、義仲寺にいたという内容です。そんなわけで、いつか行きたいと思っており、やっと行けました。その時は、木曽義仲絡みだったのですが、今は、松尾芭蕉絡みで山南官鼠が義仲寺とリンクしております。芭蕉のお墓がありますから、山南官鼠が訪れた可能性もありますよね。
山南敬助について言えることは、この義仲寺の前を通って、京に向かったこと。それだけは確かですよね。
後、以前から疑問に思っていたのですが、山南の辞世の句があってもよさそうなものだけれどな~と。
Commented by なみ1 at 2010-01-04 13:42 x
はじめまして
最近、山南敬助にはまったモノです。
私も仙台藩出身をずっと疑っていました。
でも、出身藩を長年偽るのは難しいと思います。
特に玄武館の門弟だとすると、出身藩を偽っていたというのはあり得ないと思います。在籍していたのは動乱期以前だったわけだし、偽る理由もない。さらに玄武館の月謝は決して安くないので、一介の素浪人では払えない、藩の援助もしくは家がある程度裕福、もしくは何かで読みましたが敬助の父と千葉周作が懇意であったとかなかったとか。
となるとやはり仙台藩出身はまちがいない。しかし、山南姓は現存しない。
そこで、私も家紋に注目しました。
山南が『我が家の家紋』と言ったという丸に右離れ立葵ですが、
エリさんの調査だと4家ということですが、私の調べではまだ2家しか出てきません。本多家と藤田家です。


Commented by なみ2 at 2010-01-04 13:44 x
はじめは本多家を調べましたが、これといって資料が手に入らず断念。つぎに藤田家ですが、在所は伊具郡です。
そうです。仙南です。
私は藤田家にしぼっていたのですが、ではなぜ『山南』という偽名もしくは変名をつけたのか、ずっと考えていました。
それこそ動乱前に既に山南を名乗っていたわけですから、なにか思い入れというか、自分で山南と名乗って違和感のない理由があったのではと考えていたのです。出身地の名称であれば信憑性があります。
例えば同時期に玄武館に藤田姓の門弟がいてまぎらわしいので仙南→山南にしたとか。さらに藤田家は改易になっています。時期がはっきりしませんが。家族の脱藩で断絶になることも少なくなかったという時代。特に佐幕の仙台藩において,尊王の志で脱藩した息子を出した家がオトガメなしであるはずはありません。藤田家の改易の時期がわかればいいのですが。
Commented by なみ3 at 2010-01-04 13:45 x
現在,伊具郡には藤田さんというお宅も残っているようです。できることなら、現地へ飛んで調べたいのですが、私はアメリカ在住なのでそうもいきません。
山南は筆の立つ男だったと言います。
その彼が家族に文を送っていないとは考えられません。
伊具郡の藤田家の蔵にでも残っていないかしらと考えてしまいます。
長々書いてしまいました。
お時間のある時にご意見を聞かせていただければ嬉しいです。
なみ
Commented by eri-seiran at 2010-01-05 23:19
>なみさん
ご訪問、コメント、ありがとうございました。

自分の考えもあ~だこうだと日々変わってしまっています。
この昔の記事を読みながらこの時はこんなに考えていたんだとか、仙台に行ったな~と懐かしかったです。

以前、新選組研究家の方が藩士名簿には全員がすべて載るわけでもなく、漏れもある。だから山南の姓が載っていなくても山南が仙台藩ではなかったと言えないと仰っていました。確かにそうだと思います。しかしそれならば現代の仙台藩に山南という姓があっておかしくないと思うのです。それがないことは偽名、或いは改名だったのでは?また仙台藩出身はそうなんだろうと思っています。
後、そうじゃなかったかも、光縁寺の住職と親しくなって、そんな逸話ができたのかもしれないとも思ったり。
Commented by eri-seiran at 2010-01-05 23:24
>なみさん
字数が多くて、一度に送信できませんでした。先ほどの続きです。

後、敬助の父親が千葉周作と懇意だったのというのは仙台藩の桜田敬助の父親の桜田良佐のことだと思います。そしてこの人は清川八郎とも懇意なんですよ。
この方については記事でも何回か触れています。玄武館に山南が入門したならば、この人の紹介説も考えたこともありました。
ただ個人的には玄武館よりは大久保道場で小野派一刀流を学んだ山南の方に興味があったりします。また良佐の甥で桜田敬助のいとこの春三郎に興味があったり。
それから文は送っているでしょう。仙台や江戸、また多摩のどこかに埋もれていると信じている私です。

なみさんの聞きたかったことにお答えできていないかもしれませんが、時間に余裕が持てるようになったら、記事で山南について久しぶりに色々と書きたいと思っていますので、その時はまた読んでくださいね。
Commented by なみ at 2010-01-06 16:38 x
ありがとうございました。
確かに千葉周作と親しかったのは桜田敬助の父でした。
ココ数ヶ月で色々読んだものですからごちゃ混ぜになってしまいました
とはいえ、私はやはり山南は仙南から来ている通称のように思えてなりません。読んだところによると、武士の姓はよくかわり、地名からとるものが多いとのこと。『仙南の敬助』→『山南敬助』というのが、私の推測です。ちなみにコレは関係ないのですが現在山南という姓は全国で
175世帯というデータと見つけました。そのうち何軒かは当時の長州、今の山口にあるということです。関係ありませんが。
次の記事楽しみにしています。

Commented by eri-seiran at 2010-01-07 23:27
>なみさん
仙南説を挙げてくださってありがとうございます。仙南についてかなり熱心に調べていた時期があったのですが、確信がなく、ほったらかし状態だったのですが、なみさんの『仙南の敬助』→『山南敬助』はあり得るな~と思いました。

実は以前、幕末ファンではない知人に山南敬助の出身地や名前などの謎について熱く語って一息ついていたら、その知人が自分の友人に山南姓の人がいるということを言うものですから、びっくりしました。その知人と自分はこれまで不思議な縁がありまして、これも縁なんだな~と思った次第です。
Commented by なみ at 2010-01-08 16:47 x
またまた、感想ありがとうございます。
それと、私は本当に去年の後半から新撰組&山南敬助にはまったもので,以前の記事とか完読してなくてごめんなさい。
そんなビギナーな私ですが、これからもよろしくお願いします。
ところで、エリさんは仙南という名称がいつ頃から使われたか解明されたのでしょうか?


Commented by eri-seiran at 2010-01-08 23:05
>なみさん
こちらこそよろしくお願いします。
私的な考察であったり、熱すぎたりする記事で、恥ずかしい限りです。

仙南については結局、確かな資料を見つけられないままなのですが、幕末にはあったと思っています。
Commented by なみ at 2010-01-09 05:18 x
こんなのを見つけてしまいました。地理マニアの人のサイトです。

宮城県の「仙南」「仙北」という地域呼称には,どうも県が設定した行政上の地域区分,という匂いがするような気がします。
近世,藩政時代には「伊達領」「南部領」という呼び方の方が自然であったように思われるし,「伊達領」内には「大崎」なり「葛西」などといった伝統的な地域呼称があるわけですから。
「仙南」「仙北」が登場するのは,早くても「宮城県」の領域が固定する1876(明治9)年以降のことではないか,と思っています(「宮城県」の領域と「伊達領」のそれとは一致しませんよね)。

でも、この少し前に中山道と中仙道の話題があって、当時、山と仙は交換可能な、いわゆるどっちでもいいよ的な文字だったそうです。
ますます、仙南の敬助に確信を深めてしまう私です。
Commented by eri-seiran at 2010-01-09 09:58
>なみさん
色々な考え方がありますよね。地元の歴史の詳しい人に聞いたらわかるんでしょうけれどね。
しかし残っている資料を参考にしながら、また実際にその地を歩きながら、あ~だこうだと考えられるのも歴史の面白さだと思います。
自分が歴史が好きなのも山南が好きなのもそこにある気がします。
Commented by なみ at 2010-01-10 15:45 x
できることなら、宮城に行って色々調べたいです。
山南さんが目にした風景もまだ残っているんでしょうねぇ。
仙台弁を話していたのでしょうね。
仙台弁は福島弁に近いというから西田敏行的な喋りだったのか。
それとも、永倉のように父親が江戸詰めで江戸で生まれた可能性もあるのでしょうか?
Commented by eri-seiran at 2010-01-10 21:08
>なみさん
変わらない景色もありますものね。
父親が江戸詰めで江戸で生まれたということもあり得ると思います。
Commented by 大平 和宏 at 2010-09-12 17:03 x
春三郎は良佐の兄、桜麿は春三郎の子、桜田の直系は桜麿・富士麿・勝麿・文麿。桜田の祖は伊達正宗の直臣、伊達の京都屋敷留守職、秀吉の聚楽第に出入りし・書家・文人として有名、仙台市宮千代に聚勝園を築く。良佐は江戸にて北辰一刀流免許皆伝・清河八郎は同僚・仙台にて斉美館を開く。桜麿は斉美館にて免許皆伝・印の周作の位牌・聚勝園桜田道場の看板は富谷町に現存。(これより私見)桜田家に三男がいたのでは?清河の誘いに浪士組に参加?偽名は三男と良佐の子の敬助・桜田を隠した?新撰組は京都守備隊・勤皇の山南に当初は違和感はなかったが徐々に攘夷粛清部隊に嫌気?維新後は新撰組だったので桜田より抹消?(雑記)養賢堂の末裔を称する仙台一高の剣道部・柔道部・ラクビー部etc.
オービー会を斉美会と称する、その由来知る者なし。
Commented by eri-seiran at 2010-09-13 07:00
>大平 和宏さん
コメント、ありがとうございます。桜田家については他の記事で詳しく触れています。
一時、新選組ファンの一部の間で、桜田敬助が山南敬助だったのでは?というのもありましたが、年齢が違いすぎるということでちょっと違う。桜麿(春三郎)が亡くなった年と享年を考えると山南と同じ年の頃に生まれており、また京で山南のことを三郎と呼んでいた人が居ること、そして山南と言えば桜ということで、桜麿(春三郎)という説を挙げています。
生きていたというそんなロマンもあっていいかな~と思っています。
Commented by 大平和宏 at 2010-10-17 21:32 x
桜田敬助の甥・いとこ・として春三郎が掲載されていますが、春三郎は敬助の伯父・良佐は春三郎の弟、ただし春三郎は明治の戸籍登録で桜麿が届けた内容、いちど阿弥陀寺の過去帳を調べてみたい。桜田の直系は麿を使っており本当に春三郎か?、私見では山南敬助を戸籍上で抹消したのでは?、三男であれば桜麿と同年代で斉美館で北辰一刀流を習っていてもおかしくない。清河のもくろみを知っていれば、桜田をかくし偽名を使ってもおかしくない。清河のもくろみを知って参加していれば山南は勤皇、新撰組に嫌悪感をいだいていってもおかしくない。
Commented by 大平 和宏 at 2010-10-22 21:23 x
追伸:玄武官では桜田良佐・清河八郎・坂本竜馬、お互いに北辰一刀流を習っている。清河八郎が仙台で良佐にかくまわたれ時・坂本竜馬の話を聞いてもおかしくない。春三郎が斉美館で桜麿と聞いても聞いてもおかしくない。これは大平私見、春三郎が桜麿の同い歳の叔父、明治の戸籍登録のとき桜麿が同じ歳の叔父がいたことを後世に残した。春三郎=山南敬助に関するすべての証拠を焼却した、山南=桜田は桜田家の存亡に関わる。良佐と春三郎の間に女が3~4人いれば三男(春三郎)と桜麿が同年齢でもおかしくない。
Commented by eri-seiran at 2010-10-24 18:03
>大平 和宏さん
私は『仙台藩の歴史伊達政宗・戊辰戦争』(著者:平重道・発行:宝文堂)と『仙台市史 通史編5 近世3』(編集:仙台市史編さん委員会・発行:仙台市)を主に参考にして桜田家について書いています。
伊達政宗に仕えた三右衛文景光から約150年後に三弥景明が生まれ、この人の息子が景雄と仲文(桜田欽斎)、景雄の長男が景行、次男が良佐。景雄の子が春三郎(後に桜麿と改名)、良佐の子が敬助。春三郎は後に北辰一刀流の剣士として東北剣道会の第一人者になったそうです。
幕末の桜田一族について、私はこのように理解しております。なので、敬助と春三郎(桜麿)はいとこ同士、良佐は春三郎(桜麿)にとって伯父であると。

北辰一刀流絡みで挙げると、山南が小野派一刀流は学んでいたというのは間違いないのですが、北辰一刀流を学んでいたという説には疑問視もあり。小野派一刀流での師匠は将軍に仕えていた方なので、それを考えると山南が勤皇というのも疑問なんです。
残っている史料が少ない方なので本当に謎だらけですね。
Commented by 大平 和宏 at 2010-10-29 18:24 x
以前の投稿を修正します。
桜田タンサイと聚楽第の関係・秀吉の聚楽第とは関係なし・聚勝園と京都留守居役で自分で思ってしまった。時代が違う。
桜田家は(景明)-(景行)-(桜麿)
景行は桜田権太夫景行(タンサイ)で1825年「家譜代書出」に上記あり。
この景行が1857年・桜麿(幼名・春三郎)に家督をゆずるまでの経歴書(桜田タンサイ年譜)あり。
山南敬助の没年1865年以前であり景行が隠す必要なし。よって春三郎・山南説は取り消します。
桜田家の家督は富士麿(四男)・勝麿(三男)どうも剣の関係みたい?、長子相続と考えた小生の早とちり。
Commented by eri-seiran at 2010-10-31 14:39
>大平 和宏さん
ご丁寧にありがとうございます。
山南敬助は残っている史料が少ないだけに謎だらけで、だからわずかな史料からあ~だこうだと考えられるのも楽しく、この人の魅力のひとつだと思っています。
by eri-seiran | 2007-02-11 14:03 |  山南敬助 | Comments(24)

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