北辰一刀流説について
2007年 02月 19日
『新選組!』の再鑑賞によって、北辰一刀流の同門であった山岡鉄太郎や清河八朗との山南敬助の関係を観ていて、山南が北辰一刀流を学んでいたかどうかについて、さらに関心が高まり。
それによって、浪士組として上洛するまでの史実の山南敬助について見えてくることもありますから。
山南が学んだ剣術として、小野派一刀流は唯一の真筆によりこれは間違いない。天然理心流も出稽古に行っている事、記録で門人という書き方をしていることから、これも間違いない。問題は、やはり北辰一刀流なんですよね。
飯田町堀留大久保九郎兵衛門人
一刀流 山南敬輔
と、本人が書いたのは、嘉永6年(1853年)の4月のことであると云われています。
山南が数え年で21歳の時です。
殉節両雄之碑に、
北辰一刀流千葉周作門人免許、新撰組副長山南敬輔
とあります。これは、明治37年に永倉新八によって書き遺されました。
山南の師匠となる大久保九郎兵衛が亡くなったのが、安政3年(1856年)3月のこと。
師匠が亡くなるまで山南が大久保道場に居たとすれば、千葉周作がその前の安政2年に亡くなっているので、師匠が亡くなったことから、大久保道場を出て行き、千葉周作の道場であった玄武館に入ったとしても、千葉周作の門人になることはできない。千葉周作ということに拘らなければ、玄武館にて北辰一刀流を学んだことも考えられるし、師匠が亡くなる前までに、故あって大久保道場を辞め、玄武館の門を叩いたかもしれない。そうなると、千葉周作の門人と言える時期があったかもしれない。
山南が大久保道場の門を叩いたのが、大久保道場の残っているある一定期間の起請文帖に山南の名前がないために、山南が大久保道場に入門したのは嘉永3年(1850年)以降になると考えられるらしい。数え年で山南が18歳から21歳の間に入門したということになります。だからそれ以前に、北辰一刀流の玄武館の門を叩いて、一定の期間に学んだというのは年齢的に考えにくい。
山南敬助が、試衛館との関係を示す最初の記録は、万延2年(後の文久元年、1861年)の1月のこと。多摩に新年の稽古に行った記録から、試衛館を訪れてすぐのことではなく、少なくとも半年、1年以上は経ってからのことだろう。
何故、大久保道場を辞めたのか、試衛館に辿り着くまで何があったのか、謎。
そして北辰一刀流についても謎。しかし、いつのことかはわかりませんが、どれくらいの期間かもわかりませんが、北辰一刀流も学んだのではないだろうか?と、私的には思っています。
ちょっと気になることは、小野派一刀流から中西派一刀流が生まれ、中西派一刀流の門人であった千葉周作によって北辰一刀流が生まれたということです。千葉周作が生んだ北辰一刀流と小野派一刀流が全く無関係でないのです。山南が試衛館を訪ねるまでに学んだ剣術として、北辰一刀流説があるのは、何かここに理由がありそうな気がしてならないのですけれど。
後、同じ奥州の盛岡藩出身であった吉村貫一郎は北辰一刀流だったと云われています。そして山南の父親は仙台半にて剣術を教えていたと云われていますが、父親の流派はなんだったのだろう?と思ったり。その辺りもとても気になるところです。