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江戸時代ゆかりの地めぐり@島原編

長崎の旅は3日目。Mちゃんのお家に2泊させてもらいました。3日目の5月1日、Mちゃんは仕事へ。私はMちゃんを見送り、1日目に空港まで迎えに来てくれたKさん夫婦の迎えを再び待っていました。Kさんたち、1時間も掛けて、迎えに来てくれたのです。本当に遠いところからすみません。
Kさんたちが来た道を半分以上戻り、島原へ。
こちらが島原城です。
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これは昭和39年(1964年)に復元され、中はキリシタン資料館となっております。長崎市の長崎文化歴史博物館で初めて見た時にすごいと思ったのが、キリシタン鍔がこちらでも展示されておりました。これは平戸でも見ました。隠れキリシタンの方々がキリシタンのデザインを刀の鍔にしてあるのです。わからないようにしてはあったのでしょうが、見つかったら大変なこと。

この島原の最後の藩主はあの15代将軍徳川慶喜の弟である徳川忠和です。またひとつ勉強になりました。

予約してくれたおいしいランチを食べるために来た道を少し戻り、ランチの後は再び南に下り原城跡へ。
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寛永14年(1637年)に、年貢が増えたり、キリシタンへの取り締まりが厳しいことなどへの不満が募り、領民による一揆が起こりました。これが島原の乱の始まり。島原の乱の総大将となったのが、天草四郎(本名:益田時貞)。16歳~17歳だったと云われています。2万、また3万とも云われる仲間たちと原城に立てこもりました。激戦となり、最後は老中松平信綱が指揮した九州の諸大名の攻めに合い、敗れました。

観光地化されていない分、悲しい戦いを色々と感じさせてくれるところです。そういう面では、会津若松の如来堂の戦いの跡と重なります。まあ~あそこよりは整備されております。
これが天草四郎の像です。
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ここに来て、同じように若くして命を落とした白虎隊とちょっと重ねていました。四郎は幕府と戦い、白虎隊は幕府のために戦ったなど、状況は違いますけれど。それぞれの信じる道と義あり。
学校の日本史で天草四郎のことを知った時には若いな~とは思いましたが、今更ながら、若いよね、その方が2~3万の人々のトップに立ったわけですから。どんな人だったんだろうと改めて思った次第です。

帰り、島原と普賢岳噴火について紹介している観光復興記念館に寄り、夜は3人でおいしいお酒を呑みました。
長時間の運転と観光案内においしいお食事、ありがとうございました。
今回の旅にてお世話になったMちゃん、Kさんたちには本当に感謝です。改めてお礼申し上げます。

これにて長崎の旅のレポは終わりです。他にもたくさん訪れたのですが、記事の方は歴史中心にさせて頂きました。
最後に、今回、2007長崎帆船まつりと重なり、出島ワーフにて色々な帆船を見ることができたので、その写真にて終わりとします。
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日本のあこがれです。
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中国の飛帆です。
by eri-seiran | 2007-05-07 22:57 | 歴史

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