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元治元年(1864年)6月の山南敬助らの経過と状況

毎月、恒例にしている『山南敬助らの経過と状況』の記事です。
とは言っても、残っている当時の記録に山南敬助の名前が全く出てこないから、モチベーションが低かったため、なかなか書こうという気持ちにならなかったんです。この記事を書くようになって1年以上が経つのですが、こんな月末ギリギリまで引っ張ったのは初めてのこと。それに『山南敬助らの経過と状況』とは言っても、山南敬助については想像するしかない。

江戸に行く前にこの記事を書いておかないと、一層書けない状況になっちゃうよとは思っていたのですが、案の定、その通りになってしまいました(汗)。でもこの記事はどんなことがあっても来年の2月までは続けたい。山南に、そして新選組にどのようなことがあったのか、改めて確認しておきたいし、2年続けて書くことで、山南が京で過ごした2年という年月の長さを感じたいから。

ということで、簡単になっちゃいますが、書きます。大きな出来事と気になる出来事のみにしときますね。

6月5日 池田屋事変が起きる。山南敬助は不参加。

新選組の名を有名にした池田屋事件です。早朝に桝屋喜右衛門こと古高俊太郎が捕縛され、桝屋の蔵から具足や火薬などの武具や書状が見つかりました。そして古高は屯所で尋問を受けました。
過激な浪士らが襲撃事件を計画していることが判明し、新選組は事件を未然に防ぐために、その過激な浪士らが集まると思われる宿を探ったところ、池田屋にて会合が行われおり、そこに近藤勇の率いる永倉新八、藤堂平助らなどわずかな人数で突入したのでございます。
その後、土方歳三や井上源三郎が率いる隊が到着したそうです。
残党狩りなどが行われ、新選組が屯所に帰ったのは翌日のお昼だったと云われています。
そして新選組の主な隊士で参加しなかったのは、山南敬助、尾形俊太郎、山崎烝などがいます。

6月7日 会津藩より池田屋事変のご褒美として、金五百両を頂く。
      祇園祭が行われる。

6月8日 近藤勇、近藤周斎ら宛に書簡を記す。


池田屋事変のこと、会津藩から500両頂いたこと、またその喜びを書いています。山南のことには触れていません。

6月10日 明保野亭事件が起きる。

東山にある料亭明保野亭に不逞浪士が集合しているという情報が流れてきたために、武田観柳斎や浅野藤太郎(薫)ら新選組の隊士と会津藩が向かいましたが、不逞浪士はいないことが判明。しかしその時、会津藩の柴司が誤って、土佐藩の麻田時太郎に対して槍で傷を負わせてしまったのです。
会津藩と土佐藩の関係に影響を与えるということで、柴司も麻田時太郎も自刃しました。土方歳三は享年21だった柴司の死をとても悲しんだと云われています。

6月13日 柴司の葬儀に土方、武田、浅野らが参列する。

武田と浅野は弔歌を詠んでいます。文学師範だったと云われる武田の唯一残っている歌であります。

我もおなし 台やとはんゆくすえは
  同し御国に あふよしもかな


山南敬助が亡くなった後、伊東甲子太郎が弔歌を詠っていますが、武田は山南に対しては詠まなかったのだろうか。

6月20日 土方歳三、佐藤彦五郎宛に書簡を記す。

山南のことには触れていません。

6月24日 勝海舟、池田屋事変の報せを聞いて、新選組を批判。

勝海舟にとって、門弟であった土佐脱藩の望月亀弥太を失った悲しみは大きかったようです。
大河ドラマ『新選組!』では、坂本竜馬@江口洋介が望月亀弥太@三宅弘城の死をとてもとても悲しんでいたシーンがありましたね。

ということで、以上が元治元年(1864)6月の状況と経過です。

あ~山南敬助よ、幕末を揺るがす大きな事件が起きた時、そしてその事件によって新選組の名を世間に知らしめた時、あなたはどこにいたの?

大坂で不逞浪士と戦い、重傷を負ったと思われる山南敬助。その事件が彼の人生に大きな影響を与えた、そしてその怪我の後遺症で池田屋事変には参加できなかったと私はみています。
そんな彼に再び大きく影響を与えたものがあるとしたなら、この池田屋事変だったのではないだろうか?この記事を書きながらそう思いました。
彼が池田屋事変をどのように受け止めたかはわからない。しかし試衛館派のメンバーの中で一人だけ、池田屋事変に参加できなかったのは事実。
そしてこの時、彼は京に居なかった、少なくとも屯所にはいなかった、それについては以前からそう思っていたのですが、やっぱり居なかったのではないだろうかと改めて思った次第です。
by eri-seiran | 2007-06-30 22:24 |  出来事

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