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小島鹿之助宅に残した山南の漢詩より考察

牢落天涯志不空 尽忠唯在一刀中
何辞萬里艱難路 早向皇州好奏功


これを解釈すると、

牢落の天涯、志空しからず 尽忠、唯一刀の中にあり
何ぞ辞せん、萬里艱難の路 早く皇州に向かい、好き功を奏さん


と、なるそうです。
漢詩と解釈は「新選組銘々伝第四巻」(新人物往来社)の山南敬助(執筆:清水隆)より抜粋させて頂きました。

これは、文久3年(1863)1月17日に、山南敬助が沖田総司と二人で、小野路村の小島鹿之助宅を訪れて、一泊した時に山南が詠んだ漢詩と云われています。
この時、懇意にしていた小島鹿之助宅に浪士組として京に行くことの報告と挨拶に来たわけです。その前日には近藤勇、その前々日には土方歳三が訪れています。
近藤も土方も多摩の出身でありますから、報告と挨拶に回らなければならない身内が多摩にはたくさんいたことでしょう。
と言うことで、元々多摩の出身でない山南と総司は二人で親しい多摩の人たちのところに訪れることになったんだろうと思うんですけれどね。

小島鹿之助は漢学を学んでおり、近藤勇に漢学を教えたと云われています。山南敬助も小島から教わった可能性もあり、また元々、漢学について知識があり、それもあって小島鹿之助とも懇意になったのかもしれません。

そんな小島鹿之助宅を訪れ、こんな漢詩を残すなんって、なんって粋な方なんでしょう。
1年半ほど前の記事で、この漢詩について書き、また山南のそれまでの人生について私的な考えをちょっと述べておりました。
昨日に書いた記事と同じようなことを思っていたようですけれど、1年半前は、試衛館と出逢うまでについてはネガティブに考えていたようです。その時その時で、考えは変わりますから(汗)。

牢落の天涯ということは、山南の謙遜だったのか、それとも実際にそうだったのか?
清水隆氏は素直な感慨ではなかったかと、仰っています。確かに何らかの理由があって、浪人となったわけですし、今は天然理心流の門人と言う立場であり、その立場に満足はしていなかったでしょう。浪人になってから、志はずっと持っていたはず。
そしてやっと尽忠報国の時がやってきた。自分の志を遂げる時がやってきた。

本当に嬉しかったと思う。その晩、小島鹿之助と色々と語り合ったことだろう。
小島鹿之助は山南敬助より3~5歳年上。山南敬助と一緒に京に行った井上源三郎より1歳年下。小島鹿之助も山南や近藤らと共に行きたかったはず。しかし小野路村寄場の名主という立場などから、行けなかったわけです。だから小島は彼らに託したのです。それは近藤勇や土方歳三など元々の多摩の出身者、また元々の天然理心流のメンバーだけでなく、託す思いは山南敬助に対しても同じだったはず。
と、思いたいし、このように山南が総司と二人で小島鹿之助宅を訪れたことを日記に書いていること、山南が詠んだ漢詩が残っていることが何よりも、その時の小島鹿之助の気持ちを表していると思うんです。

そして託された山南のことを思うと、試衛館や多摩の人たちに出逢ってからの彼は幸せだったんだろうと思うのです。
by eri-seiran | 2007-08-11 22:32 |  山南敬助

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