大石鍬次郎

もいいな~と思って、勝手にストーリーを考えているんですけれどね(苦笑)。
何のことかと言いますと、加藤虎ノ介さんに演じてほしい幕末の志士。
すみません、岡田以蔵にしても河上彦斎にしても大石鍬次郎にしても幕末の人斬りと云われている人ばかりで。
蟹をさばくと言うより叩き切っているあの姿を見て、また冷徹で殺気めいたものを感じさせるところ、良いと思うんですけれどね。

岡田以蔵と河上彦斎はどんな人物かということについては、省略させて頂きます。
大石鍬次郎は新選組の隊士です。
天保9年(1838)の生まれです。と言うことは、山南敬助より5歳、或いは2歳年下となります。永倉新八よりひとつ年上となります。大河ドラマ『新選組!』の大石鍬次郎は、周平をいじめたりするなどガキ大将という感じがあり、永倉より1歳年上には見えませんでしたが(苦笑)。
大石鍬次郎は一橋家に仕える大石捨次郎の長男として生まれましたが、女性問題を起こしたのがきっかけで出奔したと云われています。武士を辞めて、大工職人になり、武州日野に住む棟梁のところで仕事をしていたとか。その時に土方歳三の姉であるのぶの嫁ぎ先であり、また近藤勇とも義兄弟の契りを交わしたと云われており、そして山南敬助も懇意にしていたと思われる佐藤彦五郎の屋敷、つまり日野宿本陣の普請の仕事に携わりました。日野宿本陣を訪ねると、奥の8畳の間に鍬次郎が張ったと云われる天井があり。この本陣が出来上がったのは山南敬助らが浪士組として京に行った後なので、山南はこの家が出来上がったのを見ておりません(涙)。

さて鍬次郎は佐藤彦五郎邸で仕事をしている時、同じ敷地内にあった道場から剣術の稽古を音が聞こえてきて、それから道場に通うようになり、佐藤彦五郎が稽古をつけるようになったとのこと。まあ~そんなつながりから、元治元年(1864)の秋の新入隊士募集に応募したというわけです。
鍬次郎が元々学んだ剣術は小野派一刀流。そうなんですよ。山南敬助と同じなんです。そして佐藤彦五郎の道場に通って稽古をつけてもらっていたわけですから、天然理心流も学んだわけです。
新選組に入るまでの学んだ剣術と言い、多摩の人たちと知り合いという点については山南敬助と同じなんです。

と言うわけで、物語の始まりでございます。

元治元年(1864)10月27日、大石鍬次郎@加藤虎ノ介が新選組の新人隊士として壬生屯所に着く。
静養中の山南敬助は、総司より、元々は小野派一刀流で佐藤彦五郎の紹介で入隊したと隊士がいると聞いて、逢ってみたいと思っていた。そんなある日、佐藤彦五郎から頼まれた山南敬助宛の書簡を持って、山南を訪ねる鍬次郎。
山南が小野派一刀流の大久保道場を去った後に鍬次郎が入門したことがわかる。実は、鍬次郎は山南の噂を聞いており、もちろん佐藤彦五郎からも。鍬次郎はこのようにして出逢えたことを嬉しく思い。
「かねがねあなたのことはうかがっておりました。このようにして一緒に働けることを嬉しく思います。」
と、言う鍬次郎。しかし山南は、
「もう自分は新選組の中で働けるような体ではない。」
と、否定的なことを言う。そんな山南に鍬次郎は佐藤彦五郎からの書簡を置いて出て行く。
書簡には体を気使う内容と、多摩に帰って来て、子どもたちに学問や剣術を教えないかという、もはや戦える体ではないことを知って、今後のことについて書かれたものでありました。
山南は自分のこれからのことを気遣う彦五郎の気持ちが嬉しかったが、志を持って京にやってきた山南にそんなことはできず。
そして山南死後、大石鍬次郎@虎ノ介は感情を表に出さず、山南の分まで黙々と働くのであった(涙)。


ごめんなさい。すごい妄想で。配役は大石鍬次郎以外は未定。

さて史実の大石鍬次郎のその後ですが、三条制札事件・油小路の変・天満屋事件など大きな事件には参加し、伊東甲子太郎に致命傷を与えたと云われています。
ただ伊東派の加納鷲雄の遺談で「人斬り鍬次郎」と呼んだとか云われていますが、フィクションの可能性も十分にあり。それ以外にはそのように呼ばれていたという記録は残っていませんし、そんなに人も斬ってはいないようです。
最後は甲州勝沼の戦いに参加したものの、その後脱走。あれ?最後も山南敬助が云われている逸話と同じじゃん。
その後、新政府に捕縛され、坂本龍馬や伊東甲子太郎暗殺について尋問を受けたとのこと。そして明治3年10月10日(1870)に斬首となる。享年33。
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by eri-seiran | 2007-12-04 13:09 |  同志たち | Comments(0)

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