大久保九郎兵衛の門人になった理由

何故に山南敬助は徳川将軍にお目見えできる、将軍に仕える大久保九郎兵衛の門人となったんだろう?
そこには必ず理由がある。試衛館と出合ったように、立ち合いを申し込んで負けたからというわけではないだろう。突然、門を叩いたわけでもないだろう。
身内の知り合い、誰かの紹介というものがあったのだろう。
どういういきさつで、この人の門人となったのか、探りたいと思っているのですが、それがなかなか難しい。

これが小野派一刀流の大久保道場ではなく、北辰一刀流の玄武館にて千葉周作の門人だったということになると、全くの憶測ですが、考えられないわけでもない。

仙台藩に桜田良佐(りょうすけ)と云う人がいまして、この方は仙台藩においての尊王攘夷派のリーダー。
寛政9年(1797)の生まれということなので、大久保九郎兵衛より1歳年上。山南と36歳違い。
江戸に遊学して、千葉周作の門人となり北辰一刀流を学びました。帰藩後、天保7年(1836)に大番士となり、出入司という民政担当の役職に就きました。しかし1年で辞職。その後、済美館という私塾を開いて、文武の教授を行い、門弟の育成に当たります。
また安政3年(1856)には、藩校である養賢堂の剣術指南に復しております。そしてこの頃、あの清河八郎がこの済美館に入門して学んだことがありました。清川八郎も北辰一刀流の千葉周作の門人であります。と言うことは、千葉周作、或いは玄武館で桜田良佐を知っている人が紹介したとも考えられます。また文久元年(1861)、江戸にて人を斬って逃亡していた時、清河は桜田の保護を受けたと云われています。

ここからは山南敬助が玄武館にて北辰一刀流を学んでいたとしたらの場合です。
山南敬助が済美館で桜田良佐から学び、桜田の紹介で玄武館の門人となり、また桜田の紹介で清河と知り合い、その後、清河から浪士組の誘いがあって参加した。しかし京に着いてから清河の裏切りがあり、山南は京に残ることを決め、壬生浪士組から新選組となり、大幹部として文武両道において力を発揮していたものの、大坂にて不逞浪士を討ち取ろうとして怪我をし、それが原因で病に伏せ、表舞台に立てなくなる。そんな中、同じ北辰一刀流の伊東甲子太郎が新選組に入隊し、何らかの影響を山南に与えた。
同じ北辰一刀流の伊東と意気投合したのか、或いは同じように文武両道の伊東によって自分の居場所を無くしたのか。
そうしたことによって、近藤勇や土方歳三とすれ違いが生じるようになり、仲違いするようなことが起きたのか、そんな関係になっていってしまったのか、そのために切腹を言い渡されたのか、それとも自ら死を望んだのか。
まあ~疑問も色々とありますが、流れ的にはまとまるんです。
ちなみにこの桜田良佐の息子が桜田敬助という人であり、甥に桜田春三郎という人がいます。

この桜田一族については、当ブログを訪問してくださっており、山南敬助を私的に調べていらっしゃる方々から、情報や書籍などを教えて頂き、私自身がここまで書ける状況になった次第です。この場をお借りして、改めてお礼申し上げます。
息子の名前が敬助、甥の名前が春三郎。なんだかね~これも全く無視できないんですよね。
しかし今回はスルーさせて頂きます(汗)。

ただ山南も済美館で桜田良佐から学んだ可能性はあると思うんです。桜田の考え方とは相反したのか、或いは桜田の紹介で江戸にて最初に玄武館にて千葉周作から北辰一刀流を短い間でも学んだ。しかし故あって辞め、そこから大久保九郎兵衛の門人となる。
考えられないことでもないと思うんです。

と言うことで、どちらにしてもどのような理由で大久保九郎兵衛の門人になったのか。やはりここを探っていきたいと思っており、それにはまず大久保九郎兵衛、また父親の大久保信濃守忠行について調べるしかないかないかな~と思っているんですけれど、果てしなく続く戦いになることでしょう(汗)。
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Commented by あべ at 2012-03-18 14:14 x
仙台藩幕末マンガ描いてます
覗いてみてください
http://ampiyampi.web.fc2.com/index.htm
Commented by eri-seiran at 2012-03-30 21:49
>あべさん
年度末でバタバタ状態で家のパソコンを立ちあげる余裕がなく、コメントが大変遅くなってごめんなさい。
幕末の仙台藩において、関心の高い人物である遠藤文七郎に桜田良佐、そして桜田春三郎など登場していて興味津々です。
by eri-seiran | 2008-01-13 17:54 |  山南敬助 | Comments(2)

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