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文久3年と元治元年の桜

山南敬助が浪士組として京に着いた文久3年(1863)2月23日は、新暦で考えると4月だけれども、桜の終わった時季だと思っていました。
山南敬助が亡くなった元治2年(1865)2月23日は、新暦で考えると3月20日。桜の時期にはちょっと早い。
と言うことで、山南は上方の桜を元治元年(1864)の春の一度しか見ていない。それも表舞台に立たなくなった時期。
山南敬助&新選組ラヴにとって、桜と言えば山南敬助が定着しつつある中(私はそう思っている)、上方で桜を一度しか見ていないということに寂しいものがありました。

しかしちょっと勘違いをしていたことに気付きました。
文久3年2月23日は新暦で考えると4月10日。つまり今日です。
本日、大坂まで行って、第五回浪花花形歌舞伎の第一部と第二部を観て参りました。実は月曜日に第三部を観て来ております。今日の分は新年度のシフトがわかってから、慌ててチケットを取りました。杉酒屋娘お三輪@孝太郎がとても可愛らしく、いじらしく、健気であり。シフトがわかる前から確保していた千穐楽の第一部と第二部のチケットがあり。今日よりも舞台に近い席。と言うことで、こちらの感想は千穐楽が終えてから。
話しがそれましたが、今日、大坂に向かう電車の中から見える桜が、先週の金曜日は満開だったのに、だいぶ散っていました。
こちら上方では、ただ今、満開から散り始め、そして終りの時期に入っています。しかし場所によって、また桜の種類によっては咲き始め、五分咲きなどこれからのところも。
そうなんです。文久3年の2月23日が新暦で考えると4月10日ということは、桜の時季には間に合ったわけであり。
江戸時代のことについて書かれている書籍で調べてみたら、3月が桜の時季だったそうです。

そして元治元年、多摩の富沢政恕が14代将軍徳川家茂公の上洛に伴って上方に来て、新選組のメンバーと花見をしたことを日記に書いています。

3月3日(4月8日)
祇園にて、土方と井上源三郎。
桃の花が盛りで、桜の花は咲き初め。

3月5日(4月10日)
島原木津屋にて桃花の宴を開く。
近藤に土方に源三郎に沖田に藤堂など。

3月11日(4月16日)
島原の千紅萬紫楼にて花見会を開く。
近藤に土方に源三郎に沖田に藤堂に武田観柳斎など。

        (参考文献:新選組日誌 コンパクト版(上) 新人物往来社)

3月3日が咲き初めだったそうだから、3月11日にはだいぶ咲いていただろう。
富沢政恕は2月2日に壬生屯所を訪ねて、山南は病に臥せていて逢えなかったと書いています。山南に逢えなかったこと、その理由をわざわざ日記に書いている人なんです。
山南が元気であれば、この花見に参加していただろう。そして山南が参加していれば、富沢は日記に山南の名前を書いただろう。もしかしたら、近藤の次に山南の名前が来るかもしれない。土方の次かもしれない。少なくとも沖田と藤堂の間には書くだろう。
この時、山南はどこにいて、どんな状況で、桜を見ていたのだろう。
この元治元年の桜が山南の人生において最期に見た桜となり。
それは上方の桜だよね。

上方では桜を元治元年の春の一度しか見てないと思っていたので、文久3年の春にも見ていることがわかり、ちょっと嬉しかったりしているわけですが、元治元年の桜の時季に上方にいたという確かな証拠はないわけで。
by eri-seiran | 2008-04-10 22:21 |  出来事

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