依田学海の日記

第13代将軍徳川家定の時に老中だった堀田正睦が、禄高200石の佐倉藩士の次男として生まれた依田学海(よだがつかい)を三十人俵三人扶持を給して中小姓として召し出したのは、安政5年(1858)の12月のことで、依田学海は26歳でした。
この依田学海は安政3年(1856)から明治34年(1901)までの45年間の日記を残しています。
明治21年(1888)10月14日に中村座に芝居見物に行ったら、そこで偶然にも元幕府医師であった松本良順と出会い、松本から山南敬助の切腹の様子を聞き、そのことも日記に残しています。これについては以前に記事にしています。
その山南敬助は依田学海とは同じ天保4年の生まれと云われているので、山南敬助もこの時は26歳になります。
ちなみに松本良順の父親が佐倉藩の藩医だったそうです。だから幕末時代からの知り合いだったんでしょうね。

さて山南が試衛館のメンバーと共に過ごし、浪士組として京に行き、新選組を作り、でも京に行ってからわずか2年で亡くなりますが、依田学海はその間、佐倉藩のために勤め、その結果、慶応3年(1867)の初めに江戸留守居役に任命されました。
佐倉藩の江戸留守居役として、幕末・明治維新を生きた慶応3年と明治元年の2年間の依田学海の日記をわかりやすく解釈している白石良夫氏の『幕末インテリジェンス 江戸留守居役日記を読む』(新潮文庫)はとても興味深かったです。

留守居役というものがどのようなことをしていたのかはもちろん、佐倉藩というひとつの藩が江戸幕府の終わり、明治という新しい時代の始まりをどのように受け止めたのかが描かれています。幕末と言えば、われらが新選組に将軍徳川家や会津藩や彰義隊、また長州や薩摩や土佐などについてはよく描かれていてわかっていいるけれど、表舞台にはあまり出てこない藩がどのように幕末・明治を迎えたのか、また伏見・鳥羽の戦の時に江戸に居た人たちがどれだけの情報を得ていたのか、また官軍が京から江戸へ向かう中、他の藩はどのような状態だったのかということを知ることができます。

徳川慶喜が京から江戸に帰ってきて、その慶喜の助命嘆願のために佐倉藩は他藩と共に動きます。佐倉藩を代表して依田学海も京に向かいます。しかし京にては戦争が終り、すでに新しい時代になっていて、また他藩もそれぞれお家の事情で脱落していくなか、依田は京にて足踏み状態。そんな中、当時の佐倉藩主堀田正倫(まさとも)が上京して、藩主自らが慶喜助命嘆願に乗り出そうとしたところ、京にて正倫が官軍から謹慎を命じられます。佐倉藩も依田も慶喜助命嘆願を進めていけるような状況でなくなり、藩主の謹慎が解かれるように、また自らの藩を守るために奔走せざる終えなくなります。そして国元での勤皇の実績が認められ、藩主の謹慎が解かれました。
最初は徳川家への義を通しながらも、このように新しい時代の中で藩と言う自分の家族を守るために官軍に恭順するしかなかった藩も少なくなかった。それも致しかたないこと。
そう思いながらも、最後まで義を通し続けた新選組や会津藩、彰義隊たちのことを考えると涙でした。
依田にとって守らなければならないものは佐倉藩であったわけですが、新選組にとっては、徳川幕府であり、会津藩だった。だから官軍とどのような戦になろうと、最後まで戦い続けたんだよね。最後まで義を通し続けた。義を通して最後まで戦うということが新選組を守ることだったんだろうな。

この依田学海、鳥羽・伏見の戦いに負けて江戸に帰ってきていた近藤勇と土方歳三に江戸城にて会っています。

極めて壮士なり。敬すべく重んずべし。

と、日記に残しています。
また京の三条河原にて近藤勇の首を見ています。

余これをすぎ見て慨嘆に絶えず。

と書いています。
自分も徳川家のために義を通したかった人なので、近藤の首については思うところが色々とあったんだろうな。
そして依田学海が56歳の時(明治21年)、松本良順から山南敬助の切腹の様子について聞かされ、日記に残しています。
松本良順が見たという隊士の切腹、それが本当に山南敬助だったかというと私的には疑問もあるのですが、この方、直接的なものではないけれど、新選組の大幹部3人となにかと縁のあった人だったんですね。
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by eri-seiran | 2008-08-04 10:18 | 歴史 | Comments(0)

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