新見錦(田中伊織)

今日は新見錦の旧暦での命日。文久3年(1863)9月13日。新暦では10月25日になるそうです。
しかし壬生寺や光縁寺の墓石に新見錦の名前が彫られたものはなく、壬生寺にある阿比留鋭三郎や野口健司、また葛山武八郎の共同墓碑に田中伊織という名前があり、この人が初期の新選組の記録に名前がないこと、新見錦が芹澤鴨より幾日か早く亡くなっていることから、この田中伊織が新見錦であろうと云われているのです。

享年28

私、新見は山南敬助より年上というイメージが消えなくて、多分に山南や土方を差し置いて、局長級であった時期があるとかが原因かと思うのですが・・・
生まれは山南より3歳年下、天保7年(1836)生まれだそうです。

新見錦の新見は一般的にはにいみと読まれていますが、しんみという読み方もあるようです。山南についてはこういう理由からさんなんという読み方の説があると説明できますが、しんみについては説明できません。にいみにしきと読めば、ローマ字で書くと、すべてⅰ音であり、響きがいいなと思うのです。山南のやまなみさんなんも響きがいいですけれどね(笑)。出身は水戸で、剣術は神道無念流だそうです。
そして局長であったとか、後に副長になったとか云われています。

山南敬助が確かに表舞台に立っていたという当時の記録は、文久3年(1863)6月2日に下坂した時のものです。ただ同じ年の8月18日の禁門の政変には出動したのではないかと思われます。またその後に起きた芹澤鴨の暗殺者の一人だという説もありますが、確かではない。
新見錦の場合、同じ文久3年4月2日に多摩の井上松五郎が大坂の八軒屋で会ったメンバーの一人に新見錦を上げており、また同日、大坂の平野屋への借用書に新見錦の名前がありますが、それ以後については定かではない。8月18日の禁門の政変については、永倉新八は『新撰組顛末記』では新見錦も幹部の一人として参加したと語っていますが、『浪士文久報国記事』では、新見錦の名前を挙げていません。

そして突然の死。
在京中であった水戸人の旅宿で狼藉を働いたので、同じく水戸人の介錯で切腹したとか、近藤らによって祗園の山緒で切腹したとか。

理由、誰がその場にいたかということはともあれ、切腹であったのは間違いないんでしょうね。切腹ですって。突然の切腹。同じですよ。
そして同じように、いや山南以上に謎の方ですわ。
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by eri-seiran | 2008-09-13 16:55 |  同志たち | Comments(0)

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