島田魁

山南敬助 赤心記のゆかりの人々をアップしました。
今までの近藤に土方に総司に源三郎の試衛館のコーナーもリニューアルし、新選組のコーナーとして、河合耆三郎、島田魁、新見錦、松原忠司をアップしました。
新見とまっちゃんこと松原を今月になって記事で挙げましたので、それを編集してこちらでもアップしておこうと思い、しかし二人では寂しいな~と言うことで、まっちゃんを書いたら、河合について書きたくなり、もう一人だれかと思ったら、島田魁になりました。

でもこんなにして書いていたら、いつになったら全員書けるんだろう。新選組のメンバーについては山南敬助が生存していた時までに居た主な隊士にしようと思っているんですけれど、それでも芹沢鴨・平山五郎・平間重助・野口健司・尾形俊太郎・尾関雅次郎・山崎烝・浅野薫・大石鍬次郎・伊東甲子太郎・武田観柳斎・谷三兄弟などなど。それから阿比鋭三郎や佐伯又三郎など壬生浪士組結成当時のメンバーも入るし。
それよりも先に、永倉新八・原田左之介・斎藤一・藤堂平助という残りの試衛館のメンバーについて書きなさいよ(汗)。

島田魁を書くにあたり、書籍を読んでいたら、私、勘違いをしていまして、島田は箱館戦争が終わった後に結婚したと思っていたら、結婚したのは新選組で京に居た時ではないですか。正式には慶応元年(1865)8月15日とか。山南敬助が亡くなって、約半年後のこと。長男(魁次郎)が生まれたのが慶応2年(1866)3月。ということは8月15日以前より一緒に暮らしていたということ。
そうだったのか(汗)。
そして長男が生まれた翌月に島田は隠居し、長男に家督を相続させたとのこと。そうだったのか(汗)。
『新選組銘々伝(一)』(新人物往来社編)にて島田魁について書かれている菊池明氏は、

これは魁が新選組隊士として命を的に働いたことを示す一方、自分の死後に魁次郎が隊士としての地位を、問題なく引き継ぐための措置でもあった。

と、書かれています。
なるほど、なるほど、そうだったのか。

箱館戦争後、謹慎生活を数年間送り、解かれた後、京で暮らし、そんな時、明治政府に仕えていた友人から、「東京に出てきて、新政府で働かないか?」と言われ、「地下で眠っている友人たちはどうするんだ」と断り続けた。
また京に来た榎本武揚が「会いたいので、宿までお越し願いたい」と宿より使いをよこした時には断り、そして「会いに行ったらどうですか」と言った息子に、「会いたければ、先方より出向くのが礼儀。行く必要はない。」と。
このような島田の逸話には涙です。

近藤や土方たち、また散っていった隊士たちを弔うために念仏は欠かさなかったという話しもあります。早々と隠居した理由と思われることなどから、近藤や土方、そして新選組がとても好きだったんだよねということが感じられます。
散っていた隊士たちの中に山南敬助も入りますよね。また地下で眠っている友人たちの中に山南敬助も入りますよね。
そして新選組における山南敬助の最期についてのすべてを知っていたんだよね。
謹慎中に書いた『島田魁日記』に山南敬助の最期は書くほどのものでなかったのか、それとも書けなかったのか。
ともあれ、只今、島田魁に対するラヴ度が上昇中でございます(笑)。
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by eri-seiran | 2008-09-16 22:48 |  同志たち | Comments(0)

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