関門海峡に歴史あり~高杉晋作編~

幕末の風雲児である高杉晋作ゆかりの地は2日目の午後から3日目の午前中にかけて回りました。
まずは下関駅からバスで10分弱の所にある了円寺です。
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元治元年(1864)12月、奇兵隊の解散を余儀なくされた高杉晋作が長府の功山寺で決起し、萩藩新地開所を襲撃した後に立てこもった所です。
本堂の柱に当時の刀傷があるということでそれが見たかったのですが、本堂にて講和がなにか行われているようで、入れるような状況ではありませんでした。残念。

ここから徒歩で10分くらいの所にある桜山神社です。
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歴史を感じる大きな木。高杉晋作はこの木を見ているはず。
そしてこの神社の名前、山南ファンである私としては神社の名前だけに惹かれたり(苦笑)。
文久3年(1863)に高杉晋作らの発議によって日本初めての招魂場が築かれることになり、慶応元年(1865)に落成されました。
元治元年(1864)の七卿落にて、七卿のうち五卿がここに立ち寄ったということで、七卿史の碑がありました。
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京からここまでやってきたんだ。遠いな。
そして境内の裏には明治維新に散った志士たち約400柱が祀られています。一番前の真ん中に吉田松陰のものがあり、向って右隣に高杉晋作、左隣に久坂玄瑞。松下村塾の双璧と云われた二人が師である吉田松陰の両隣に。

桜山神社から歩いて約10分。
元治元年の12月に高杉晋作が襲撃したという萩藩新地開所跡です。
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最初にここが襲撃され、その後に藩の施設が次々に占拠され、この事件によって、長州の藩論は倒幕の道へと進んでいったそうです。山南敬助が亡くなる約2ヶ月前のこと。あまり関係ないと思うけれど。
以前、この辺りは入り江になっていたそうで、1760年代に埋められ、新しい地と言うことで新地と言う名がついたようです。

そして萩藩新地開所跡のすぐ近くにあるのが厳島神社です。
神社の名前からわかるように、平家ゆかりの地であり。
この神社が建立されたのが、1185年。それから約700年後の慶応2年(1866)に高杉晋作が必勝祈願をし、また勝利のお礼に小倉口の戦いで勝ち、持ち帰った小倉城の太鼓を奉納したそうです。

ここから歩いて約5分の所にある高杉晋作終焉の地です。
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結核でした。27歳8ヶ月の人生だったと云われています。幕末という時代を疾風のごとく駆け抜けた風雲児。
悔しかっただろう。無念だっただろう。
享年が同じ27であり、同じように結核で亡くなった総司と重なります。

そしてこの時点でまだ回れる時間はありました。回るつもりでした。例えば、久坂玄瑞が寄宿したという光明寺、源義経ゆかりの地でもある大歳神社、高杉晋作の陶像がある日和山公園など、しかしこの終焉の地に辿り着いたら、すべてここにありという感じになり、体力的なものもあって、もういいやという気持ちになって、この日の高杉晋作ゆかりの地は終了し、この後は地元の本屋さんに入って歴史コーナーのチェックをしたり、また体力の回復のためにお茶したりして、夕暮れ時になるのを待ち、海峡夢タワーから下関と門司の夜景を見ました。

それからチェックした本屋さんの歴史コーナー、さすがです。吉田松陰や高杉晋作などに関する書物が多い。東京や関西のそれなりの本屋さんではある佐幕派(例えば会津とか、新選組とか)に関する本が少ないというか、タイトルでわかるものとしては一冊だけでした。

さて高杉晋作の墓がある東行庵は同じ下関でも離れていて、JRか、バスで小月駅と言うところまで行って、そこで再びバスに乗り換えなければならないので、スルーしようかと思っていたのですが、私が幕末の志士の中で一番最初に関心を持った方なんだから、せっかくここまで来たのだから、やっぱり行こうと思い、3日目の朝一番に行くことにしました。下関駅から電車で小月駅まで約20分。ここまでは電車の本数もあり、問題ないんです。ここから東行庵まで行くバスがうまいことなくて、仕方なくタクシーで。思ったより遠かった。でもそれだけ払って行った価値はあるかな~という所でした。
タクシーを降りてからは、帰りのバスをチェック。小月駅に行くバスは約1時間後。と言うことで、それに乗れなかったら、またタクシーのお世話にならなければならないようだったので、急ぎ足で見て回りました。

東行庵は高杉晋作を弔うために、山県有朋や伊藤博文らによって建てられ、初代庵主が高杉の愛人であったおのうだったとのこと。
まずは資料館である東行記念館へ。高杉晋作が着けていた鎧兜とか、書簡とかがありました。
外に出て、高台に上がると、高杉晋作の陶像がありました。
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そして高杉晋作の墓へ。離れたところにはおうのの墓も。おのうは明治42年(1909)に亡くなられ、享年67だったそうです。また少し離れた所には奇兵隊墓地もあり、多くの墓がずらりと並んでいました。
これは三代目庵主が各地を回り、墓を移し、供養したそうです。そこには会津出身の方もいらっしゃいました。

東行庵の近くには奇兵隊陣屋跡もありましたが、時間がなく、ここはスルー。

自分、山南敬助&新選組ファンと言っておりますが、幕末ファンでもあります。しかし倒幕派の地元を回ったのは薩摩くらいで、長州は今回が初めてでした。
そして官軍と賊軍ではこんなに違うのかと改めて感じました。
きちんと残っているなとか、高杉晋作を弔う庵にしても、奇兵隊の墓にしても官軍だったからできたんだよな。また明治維新に散った志士たち約400柱にしても、高杉の終焉の地がはっきり分かって碑があることも。
総司なんか、二つの説がありますから。
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by eri-seiran | 2009-01-17 22:54 | 歴史 | Comments(0)

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