カテゴリ: 山南敬助( 62 )

影響

年末からあちらこちら体調が悪く、ひとつ良くなったと思えば、今度は風邪。風邪の症状が落ち着いてきたと思ったら、昨日、久しぶりにやってきたひどい片頭痛。
月に一度はやって来る片頭痛。市販の薬では効かないので病院で処方してもらっている薬を飲むのだが、飲むタイミングが遅かったり、ひどい時にはこれでも効かず、嘔吐も止まらないというひどい症状が年に1~2回あります。この時は仕事もアウト。眠り、起きては吐くということを続け、24時間経ったらやっとおかゆを食べられる状態になりました。
確か、昨年も2月だったな~ひどい片頭痛。

今日2月23日は山南敬助の命日でございます。
2月に片頭痛が起きるのはこの影響だと思う。
そして今日は富士山の日でもあります。
三谷さん、あんたはすごい。
私も富士山を見に行きたいな。

それから2月というわけではありませんが、寒い時期になると旅に出たくなるのも山南敬助の影響でしょうか。
昨年は3月に湯田温泉と萩へ。
一昨年の2月はニュージーランド(これは冬だからというわけではなく、この時期にしか行けなかったから)
3年前は1月に下関に。
こうして書き上げるとニュージーランドは別にして気持ちは長州か(苦笑)。
さらに湯田温泉と萩に行った4ヶ月前の秋には土佐に行っており、気持ちは倒幕派か。

この冬も今月の末、旅に出る予定です。
ただこの片頭痛で仕事に影響が出ているので、どうなるやら。
この週末の頑張り次第になると思う。
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by eri-seiran | 2012-02-23 21:50 |  山南敬助 | Comments(4)

練兵館との関係

私、前回の記事で寝ぼけたことを書いておりまして、第3回山南忌に共に参陣したろこさんから教えてもらいました。
この時の山南忌にて、伊東成郎氏が『山南敬助-壬生に散った優しい戦士-』というタイトルで講演されたのですが、その中で佐賀藩士の牟田高惇が練兵館にて大久保九郎兵衛門弟が練兵館にて稽古をしていたと書いてある日記に触れており、講演の資料に日記の内容が抜粋されていました。多分にこの時、このことが私の中ですとんと入らなかったようで、スルーしたのかな?
第3回山南忌に共に参陣した方々は何を今さら書いているの?と思われたことでしょう。
すみません(苦笑)。

日記の詳しい内容は、成清小平太という方と土佐藩の大久保九郎兵衛門人の西岡政助が練兵館にて手合わせをしていたとのこと。

と言うことで、大久保九郎兵衛門人については、名前がきちんと出ているので、前回の記事で大久保九郎兵衛門人とは山南敬助の可能性も?ということを書きましたが、それは違いました。

しかしこの日記が嘉永7年(1854)9月26日のこと。
山南敬助が中山幾之進と剣術の試合をして、その時の署名に、大久保九郎兵衛門人 一刀流 山南敬輔と書いているのですが、清水隆氏によると、これが嘉永6年(1853)の4月のことだと。山南敬助が21歳の時です。
それから1年5ヶ月後の嘉永7年9月26日、山南敬助が同じく大久保九郎兵衛門人であった可能性は高い。西岡政助を知っていた可能性。西岡政助と共に練兵館に出入りしていた可能性。練兵館で試衛館の話を聞いた可能性も無きにしも非ず。

そして桂小五郎です。
桂小五郎は嘉永5年(1852)に練兵館に入門して、1年後に塾頭、そして5年ほど塾頭を務めた様子なので、大久保九郎兵衛門人西岡政助が練兵館にて手合わせをした嘉永7年も練兵館の塾頭だったということです。

西岡が桂小五郎に会った可能性はあるし、山南が西岡から桂小五郎の話を聞いたり、会ったりした可能性も無きにしも非ず。
ちなみに山南敬助と桂小五郎は同じ天保4年(1833)生まれでございます。

『組!』では、山南敬助は北辰一刀流説を取り上げていましたが、桂小五郎とは以前からの知り合いの設定で、山南敬助が北辰一刀流の玄武館を辞めて、天然理心流の試衛館にやって来たことに対して「どうして?」と桂が驚くシーンがありました。
山南敬助が小野派一刀流だったという設定であれば、何故に知り合いだったか、また驚くかということも描きやすいな~と。知り合いのはずがないという批判に対しても説得できますね(苦笑)。
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by eri-seiran | 2010-10-31 15:34 |  山南敬助 | Comments(2)

練兵館に大久保九郎衛の門弟

お久しぶりです。
それもとてもとても久しぶりに山南敬助についてです。

10月号の『一個人』が新選組特集であると、当ブログを訪れてくださっている方から教えて頂き、新選組に関する書籍などはよほどの内容でなければ買わないと決めていたのですが(これまで買い過ぎたから)、山南敬助について丁寧に書かれていたこと、内容も濃かったので買いましたが、しばらくほったらかし状態でした。
10日ほど前、時間に余裕があり、やっと山南敬助に関してだけでもじっくりと読んだところ、新しい情報に新しい見解にびっくりでした。前からありました?知らなかったのは私だけですか?

こういうことです。
『組!』で、桂小五郎と近藤勇が知り合いだったのは、試衛館が人手の足りない時に練兵館から手を貸してもらっていたという関係で、桂と近藤は知り合い。蕎麦屋で近藤と土方が桂に会い、先日も道場破りに困っていたから若い連中を貸してあげたと土方に説明する桂。そんな桂が苦手そうな土方というシーンがありました。

試衛館が練兵館から助っ人を呼んだという逸話は知っていたのですが、この『一個人』の山南敬助について書かれているところでも書かれていて、この逸話は練兵館師範代だった大村藩の渡辺昇という方が伝えているそうです。
そして重要なのはこれからです。
その練兵館で、大久保九郎兵衛の門弟が稽古をしていたという記録が佐賀藩士の牟田高惇という方の日記に残されているんだそうです。

山南敬助が小野派一刀流の大久保九郎兵衛の門弟であったことは間違いありません。練兵館で稽古をしていたのが山南敬助で、助っ人で試衛館に行ったとしたら。
助っ人で行っていなかったとしても、練兵館に出入りしていたら、試衛館に助っ人に行った人から試衛館や近藤について話を聞くことができる。
山南と試衛館との繋がりが見えてきます。

以前、大久保九郎兵衛の大久保道場跡から練兵館跡まで歩いたことがあります。近いな~山南敬助は桂小五郎と会っているかもしれないな~なんって思っていたんです。
平成19年(2007)3月4日には大久保道場跡から試衛館跡まで歩いたこともあります。この時のレポはこちらより
現代人の私には少し遠い距離でしたが、車や電車がない時代では遠くはない距離のはず。また練兵館の方が大久保道場よりも少し試衛館には近い場所になります。
再び江戸に行って大久保道場から練兵館、そして試衛館と歩きたくなってきました。

しかし練兵館で大久保九郎兵衛も門弟が稽古をしていたというこんな重要なことが何故に表に出てこなかったの?何故だ?
この門弟が山南敬助とはもちろん限りませんが、練兵館と大久保道場の繋がりは少し見えたわけです。
いつ頃に書かれた日記なんだろう。それによってさらにわかることがあるはずです。
その日記の詳しいことが知りたい。その日記が見たい。見たいです。
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by eri-seiran | 2010-10-24 21:54 |  山南敬助 | Comments(4)

仙北があれば仙南あり

今年の大河ドラマの主人公である直江兼続については無知なので、勉強しようと思いまして、只今、童門冬二氏の『全一冊 小説 直江兼続 北の王国』(集英社)を読んでいるところです。内容的には読みやすいんですけれど、読む時間があまりなく、また600ページ以上あり、なかなか進みません。
このように書くと、大河ドラマで主人公が直江兼続だから勉強するためにこの本を買ったように思われるでしょうが、実は平成21年(2009)の大河ドラマが直江兼続だと発表になるより以前に直江兼続という武将に興味を持ち、この本が良いと薦めがあって、購入したのです。時間がある時に読もうと思っていたのですが、他の本が優先となってしまい、気になりつつも家の本棚で数年、寝ていたんです(汗)。

生まれ育った所は違ったとしても、東北には優れた武将が誕生するのかと思いながら読んでいます。そしてそんな東北生まれの山南敬助です(笑)。
自分、そんな山南に関することで調べていたことがあったんですれど、なかなか決定的なものがなく、その後、ほったらかし状態になっていたことがあります。
仙台において、仙南という言い方はいつ頃からあったのかということ。
何故にこれについて調べているかと言いますと、こちらより
仙南に関する記事はこちら、他にはこちら、それからこちらとか

そしてこの直江兼続の小説を読んでいたら、山南敬助の故郷であると云われている仙台藩の初代藩主である伊達政宗について書かれているところに

騎虎の勢いの政宗は、さらに仙北(宮城県北部)の大崎・葛西という・・・
                       『全一冊 小説 直江兼継 北の王国』より抜粋

とあるではないですか。ここで仙北に出合うとは。
歴史小説家の童門冬二さんが仙北という書き方をしているといことはその時代から仙北と呼ばれていた地域があったのだろうと思うのです。そしてこの時代から仙北という地域があれば、仙南という地域もあっただろう。
小説『新撰組 山南敬助』を書かれた童門冬二さんと言うことで何か縁を感じたり。

だからと言って、山南は偽名で、自分が住んでいたところが仙南であり、その仙南からにんべんをとって山南としたということはならないんですけれどね。
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by eri-seiran | 2009-02-09 17:57 |  山南敬助 | Comments(0)

山南の剣術

山南敬助が学んだ剣術に、小野派一刀流と北辰一刀流と天然理心流が挙げられます。
天然理心流は多摩での新年の稽古などに近藤勇らと参加している記録が残っていることから間違いないだろう。
小野派一刀流は中山幾之進と言う方が剣術試合を申し込んだ相手に名前を書いてもらっており、そこに、

飯田町堀留大久保九郎兵衛門人
         一刀流 山南敬輔
 

                  『新選組銘々伝 第四巻』(新人物往来社)より抜粋
                
と書かれている。大久保九郎兵衛が教えた剣術は小野派一刀流と言うことから、これも間違いないだろう。山南敬助という同姓同名の人がいたということも考えにくいと思う。
そして北辰一刀流。これは明治になってから、永倉新八が、

・・・北辰一刀流千葉周作門人免許新撰組副長山南敬輔

                 『新選組銘々伝 第四巻』(新人物往来社)より抜粋
               
と書き遺した。と言うわけで、山南敬助が学んだ剣術として、これらの剣術が挙げられるわけですが、学んだ順序としては天然理心流が後と言うことは明白。しかし北辰一刀流と小野派一刀流のどちらを先に学んだかということを証明できるもの、或いは北辰一刀流を学んだことを証明できる当時の記録は私が把握しているところではない。

北辰一刀流を学んだか、そうでないか、小野派一刀流とどちらが先だったのか、そのことによって山南敬助という人物についての考察も随分と変わってくると思うんですけれどね。
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by eri-seiran | 2008-11-21 21:33 |  山南敬助 | Comments(0)

仙台出身と記されている史料

先日、歴史の書籍で山南敬助について簡単に紹介してあるのを読んでいました。簡単と言っても山南が学んだ剣術は、小野派一刀流、北辰一刀流、天然理心流が挙げられていて、それを見ると、山南についてきちんと書かれていると思ったのですが、出身地が不詳と書かれてあったのです。山南の出身地が不祥と書かれているのは初めてでした。出身地は仙台と断定するか、或いは仙台と云われているという書き方がほとんどだったと思います。

ちょっとこれは驚いたわけです。それなら私は何故に仙台出身と言っているのか?とすぐに出てこなかったので、山南は仙台出身であることを何に、或いは誰によって記されていたかと改めて確かめたくなりました。

『同志連名記』 永倉新八 試衛館時代からの同志
『異聞録』 小島鹿之助 懇意にしていた小野路村の名主
『尽忠報国勇士姓名録』 早川文太郎 浪士組として共に京へ行った方
『往詣記』 良誉上人 山南が眠る光縁寺の住職
『新撰組始末記』 西村兼文 西本願寺侍臣で山南と面識があった可能性がある方


記されてあったもの、それを記された方、また多分にそれを記した方、そしてその方と山南の関係を挙げました。
これらに仙台の出身と書かれているということは、もし山南が仙台の出身でなかったとしても本人が仙台の出身と言っていたと考えられ、それならば山南は仙台の出身であったと言っていいと思うのです。

あ~仙台に行きたい。行きたいよ。
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by eri-seiran | 2008-06-13 06:26 |  山南敬助 | Comments(2)

死を以て己を消し去る

タイトルは大河ドラマ『篤姫』の第7回でのお幸@樋口可南子の

死を以て己を消し去ったのです

という台詞から頂きました。
これは於一@宮崎あおいの乳母であった菊本@佐々木すみ江の自害の理由でした。菊本の自害を観て、そしてこの言葉を聞いた時、自分が思っている山南の死と重なり、自分の中にストーンと入りました。菊本は自分ごとき身分の低い者が島津本家へ養女にいく於一の乳母としてお仕えして参ったことこそ恐れ多い。これからの於一のことを考え、自分は自害し、島津今和泉家より自分の名を削られることを望みました。
というわけで、その気持ちをわかって、於一の父親で、菊本にとっては主人である島津忠剛@長塚京三も遺骸を不浄門から身内の者に渡しました。

何故に山南が亡くなったのか、現代においては確証となる史料が出てこない限り、真の理由はわかりません。
①云われている通りに、近藤や土方と意見が食い違い、局中法度に背いたために切腹を言い渡されたのか。
②食い違いを見せたのは表面的なもので、何らかの理由で山南自身が死を選んだ、それを近藤も土方もわかったうえで切腹を命じたのか。
最近、この描き方は多く、大河ドラマ『新選組!』もそうだったし、小説では北方謙三氏の『黒龍の柩』、秋山香乃さんの『藤堂平助』もそうだった。
③近藤も土方も知らないところで、山南が自害した。何らかの理由で山南自身が死を選んだ。だから切腹をしたということにしたのか。

何らかの理由の中で一番に考えられると思うのが、長いこと表舞台に立てない状況になっていたということ。
長いこと静養していて、新選組の大幹部として働けず、しかし他の試衛館のメンバーはみんな表舞台で大幹部、幹部として働いていたら、どんな気持ちになるのだろう。
月日は流れ、世の中も変わり、しかしいつまで経っても怪我をした山南の体だけが何も変わらないとしたら。

自らが死を以て己を消し去ったとしたら、山南の死について多くの人が語ってこなかったことも納得できるんだけれど。
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by eri-seiran | 2008-03-17 12:17 |  山南敬助 | Comments(0)

山南の思想

尊王(尊皇)とは、天皇をとうとぶこと。

勤王(勤皇)とは、天子に忠義を尽すこと。

            「広辞苑」より

幕末でちょっとややこしいのが思想。そこがあるから幕末は苦手という人も私の周りにはいます。しかしそこは肝心。

にも関わらず、間違えちゃった。
昨日、尊王攘夷の思想が強かったという説は考えられにくいと書きましたが、完全な間違いであることに気付き、勤王の思想と書き直しました。
元々、新選組に攘夷の思想はありましたから。
しかし攘夷の無意味を悟った時から、近藤の考え、そしてそれは新選組の考えが変わったわけです。近藤勇が元治元年10月に松本良順と会って話をしたのがきっかけと云われています。

そして近藤らは天皇と公方様を守るために京に残ったのです。
尊王と勤王では意味が違ってきます。
ただ永倉新八の『新撰組永倉新八』(新撰組顛末記)にて、山南のことを

激烈な勤王の思想を抱いた一人で・・・

と、書かれているのは事実。

元々は近藤らと同じ考えであったと思いたい。
自分が病にて表舞台に立てない間に、世の中の情勢、新選組の立場も、近藤の考えも変わってきました。その中で山南の考えは京に残ることを決めた時と同じだったのか。それとも近藤らの考えが変わっていく中で同じように変わっていったのか。或いは近藤らとは反対方向に変わっていったのか。

<追記>
京に残留することになった山南を初め近藤、芹沢鴨らが京都守護職に提出した文書に

(残留の願いが叶わず浪々の身となっても)天朝大樹公の御守護攘夷つかまつる決心に御座候
         
       相川司氏の『新選組 知られざる隊士の真影』(新紀元社)より

と、あります。天朝とは天皇家のこと、大樹公とは徳川将軍家のこと。そして攘夷。新選組の始まりはここにありました。
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by eri-seiran | 2008-03-16 21:32 |  山南敬助 | Comments(0)

山南のジグソーパズル

連続テレビ小説『ちりとてちん』をジグソーパズルに例え、ピースが埋め込まれていき、部分的にわかってきて、そして出来上がっていくということに感動した今朝でした。
このドラマは伏線が多くて多くて、なるほどここに結びつくのかということがたくさんあって。このピースはここなんだとわかって一部分が出来上がった瞬間は涙です。もちろん今朝も涙でした。
『ちりとてちん』のジグソーパズルは後2週間で完成するんだわ。

史実の山南敬助をジグソーパズルに例えると、わかっているピースはわずかで、ここかなと思っておいていても確かではない。とりあえず、おいておこうという感じ。そしてちりちりバラバラにおかれているから、ここは山南の顔の部分だとか、佩刀である赤心沖光だということもあまりわからない。つまり一部分だけでも形になってきた、何であるのか見えてきたと言えるものは少ない。

永倉新八の手記『浪士文久報国記事』が見つかって、そこに山南の脱走・切腹について書かれていないから、山南の死について多少なりとも???となったと私は思っていると、前回の記事で書きましたが、この手記が見つかって、山南について新たなことがわかったことをひとつ書き忘れていました。
『新撰組永倉新八』(新撰組顛末記)にて、永倉は元治元年(1864)7月に起きた禁門の変に参加した主な隊士の中に山南の名前を挙げていません。その理由も。しかし『浪士文久報国記事』では、山南は病気のために参加できなかったと書いています。
同じ年の2月に多摩の富沢政恕が壬生の屯所を訪ねたけれど、山南は病にて臥していて逢えなかったと記録に残しています。その頃からこの禁門の変が起きるまで表舞台にて名前が全く出てこないので、山南はずっと病だったのではないかという見方が強くなってきたと私は思っているんですけれど。そうですよね?

『浪士文久報国記事』が見つかるまでは、何故に山南は池田屋事変にも禁門の変にも参加していないのか?尊王攘夷の思想勤王の思想が強かったためではないか?また土方との対立などが考えられてきたわけですが、『浪士文久報国記事』から、また他の記録から考えると、病のためという考え方が自然だと思うんです。また戦えるような体でなかった。だから池田屋事変では、NO.2として、屯所の留守役の責任者の役割を担ったのではないか。
或いは池田屋事変の時も禁門の変の時も壬生屯所におらず、違う所で静養していたことも考えられると思うんですけれど。

池田屋事変に関して、近藤や土方と対立したという当時の記録、後の記録は残っていません。山南の北辰一刀流説、『新撰組永倉新八』(新撰組顛末記)に書かれている山南の脱走の理由などから山南が尊王攘夷の思想勤王の思想の持ち主だったという考え方が出てきて、そのために池田屋事変に参加しなかったという考えが出てくると思うのです。また司馬遼太郎氏の『燃えよ剣』の影響もあるんだろうな~と思います。
でも小野派一刀流説が有力になってきていること、幕府の直轄地(天領)であった多摩で生まれた天然理心流の剣術を学び、多摩の出身地である近藤初め多摩の人たちと親しかったことを考えると、尊王攘夷の思想勤王の思想が強かったという説は私にはちょっと考えにくいんです。しかし全くそうでもなかったと言い切れるものでもありません。

『浪士文久報国記事』が見つかってピースがいくつか埋まったものの、なかなか見えてこない山南敬助のジグソーパズル。フィクションのドラマではないし、140年以上前に生きた人だから、完成することは永遠にない。しかしこのピースはどこかしらと考え、ひとつのピースがわかって埋め込めたかな?という過程が楽しいのです。
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by eri-seiran | 2008-03-15 09:56 |  山南敬助 | Comments(0)

山南の死

私、自分の人生においてずっと山南敬助と新選組に対して、このような状態でモチベーションが高いままで来ているわけではないんですよ。そんな人生だったら、世界が狭くなるだろうし、大変、疲れるだろうと思います。ただ自分の関心があることのベースに日本と海外というものがあって、日本の歴史を初め、伝統芸能などに興味を持っている時期があったかと思うと、洋画や洋楽、海外旅行、そのために語学を学ぶという、かっこ良く言えば世界に目を向ける時期があったり、それらが交互にやってきているような気がします。

平成10年前後と言えば、世界に目を向けていた時期。1年間くらい海外にて暮らしてみたいという夢を持ったり、そのために英語を勉強しなければと思ったり、また洋画にはまったりしていた時でした。
だから永倉新八が明治の早い時期に書いたと云われている手記『浪士文久報国記事』が平成10年(1998)に見つかったことも知らなかったのです。平成16年(2004)になって、新選組に戻ってきたんですけれど、私が新選組からしばらく離れている間に新選組の世界ではすごいことが起きているじゃんとびっくりしましたから(笑)。

その『浪士文久報国記事』を見つけた多田敏捷氏が先日の山南忌で講演をしてくださり、聞いていると、目から鱗状態でした。今まで、ちょっと???だったことが解決できたり。解決できたことによって、新たな???が出てきたり。
例えば、何故に新選組の屯所が壬生の前川邸から西本願寺に移ったのか、西本願寺だったのかということで、そこには前川邸本家の邸宅が禁門の変にて焼け、そのために新選組に貸している壬生の分家を返してほしく。多分に前川邸が次の屯所への話しも進めてくれたのではないかと思うのです。前川邸は幕府とつながりがあり、また本願寺ともつながりがあり、政治の密書の取り次ぎを行うなど、とても力があったようです。そうなると、西本願寺屯所移転に反対して山南が自刃したと云われている説は考えられにくいのではないだろうか。持ち主である前川家が家を返してほしいと言っているのに、そこで山南が自刃するだろうか?と、言うわけです。

新たな史料が見つかり、これまで謎だったことが明らかになることが普通だと思うのですが、返って謎になったりすることもあります。これまで新選組に関する重要な資料となっていた『新撰組永倉新八』(新撰組顛末記)ですが、こちらには山南が何故に脱走して切腹したかということが書かれており、山南の死についてはこれが基本になってきました。しかし『浪士文久報国記事』には山南の脱走・切腹について全く触れていないんです。だからこの記録が見つかり、山南の死について多少なりとも???なったと私は思っています。

近藤勇や土方歳三が山南敬助の死に触れた書簡もなければ、語った記録もありません。もしかしたら、多摩の人たちに山南敬助の死について説明した書簡があったけれど、多摩の人たちによって消されたのかもしれないな~と思ったりしているんですけれど。
沖田総司の佐藤彦五郎宛の書簡に、山南兄が26日に亡くなったとさり気なく書いていますけれど(亡くなった日は23日なのに26日と書いていますけれど)、亡くなった理由などについては一切書かれていないし。
島田魁も手記を残していますが、山南の死について一切触れていません。
また伊東派の生き残りで明治を生きた加納も篠原も阿部も山南の死については語っていません。篠原と阿部は山南が亡くなった時には京にはいなかったようですが、伊東らから話は聞いたはず。近藤や土方を憎んでいたはずの彼らが山南の死について触れないのが疑問なんです。
永倉が『新撰組永倉新八』で語っているように、山南が伊東と意気投合して、また近藤に反して脱走し、そして切腹したなら、伊東派の人たちは山南をかばい、近藤や土方を批判するだろう。しかし語っていない。

これらのことを考えると、新選組の隊士らの中で、山南の死についてはタブーだったのではないだろうか。もしかしたら、幹部だけが山南の死の真実を知っていて、平隊士らには新実は伝わっていなかったのではないだろうか。
そして近藤や土方から山南の死について多摩の人たちに伝えたけれど、口外してはいけないというものがあったのではないだろうか。

そしたら何故に山南の死はタブーだったかと言うと、山南の死については私自身、色々な見方をしているのですが、新選組という組織、また敵対する者たちに山南の死は影響を与えるもの、或いは山南のことを思うがためにだったとしたら、タブーというものもわかります。

山南忌の前から、山南忌の後も、山南敬助の死についてあれこれ考えている日々です。
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by eri-seiran | 2008-03-14 09:49 |  山南敬助 | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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