カテゴリ: 出来事( 89 )

命日

本日、2月23日は山南敬助の命日でございます。

現代の暦で考えると3月20日となります。
146回忌です。

ニュージーランドという国は1769年以降に多くのヨーロッパ人が移住するようになり、1840年に先住民であるマリオがイギリスの植民地となることを認めたそうです。
1840年と言えば、山南敬助が8歳の時ではないですか。
新しい国なんだな。

そんなことを考えながらニュージーランドで山南敬助を想う。
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by eri-seiran | 2010-02-23 09:12 |  出来事 | Comments(0)

嘉永6年の山南と龍馬

ー昨日の『龍馬伝』のタイトルのクエスチョンマークは6年前の『新選組!』の第12回の「西へ!」のビックリマークを思い出しました。今までの大河ではなかったこと。『新選組!』のビックリマーク自体、それまでには考えられなかったことですけれどね。『組!』は新しい近藤勇や新選組を作り出しました。そこには新しいことへの挑戦があったわけですが、『龍馬伝』もこれまでの枠にははまらない新しい大河、新しい坂本龍馬、新しい幕末の志士たちを作り上げようとしているのかな~と。それが受け入れられるか、受け入れられないか、意見の分かれるところだろうと思います。

さて昨日の『龍馬伝』は龍馬が自分たち下士や武士階級だけでなく農民など国全体のことを考えるていたこと、人と人とのつながり(by 山南先生)を築けるものを持っていたこと、また龍馬が秘めた何かを持っていたということに気付いていた人たちが土佐に居たこと、そして岩崎弥太郎、武市半平太から見た龍馬、龍馬対自分ということが描かれていて良かったと思います。

ところで次回は江戸に向かうということですが、龍馬についてはいつ江戸に行って、いつ土佐に帰って、また再び江戸に行ってとか、京や長崎などにはいつにどれだけ居たのか?など私はよくわかっていません。だって龍馬はあちらこちらに行っているから。今回、ドラマを見ながらそのあたりを勉強したいと思っています。山南絡みで。

龍馬が剣術修行のために初めて江戸に行ったのが嘉永6年(1853)3月で、江戸に着き、北辰一刀流の千葉定吉の道場に入門したのが4月とのこと。龍馬が19歳の時。
同じ頃、後の新選組の副長&総長となる2歳年上の山南敬助も龍馬と同じように江戸で剣術修行をしていました。
『新選組銘々伝 第四巻』(新人物往来社)にて山南敬助について書かれた清水隆氏によると、中山幾之進という方が剣術試合をした相手に署名をしてもらったものが現代に残っているそうです。そこには、

飯田町掘留大久保九郎兵衛門人
        一刀流 山南敬輔


と書かれております。現代に残る唯一の山南の真筆です。
これだけでは一刀流が小野派とはわかりませんが、大久保九郎兵衛が教えた一刀流が小野派であることを明記されたものがあるそうで、山南が書いた一刀流とは小野派一刀流のことになるのです。そして山南が中山幾之進と剣術試合をしたのがいつかということなのですが、清水隆氏によると嘉永6年(1853)4月15日とのこと。と言うことから、坂本龍馬が江戸に来た頃、山南も江戸に居て小野派一刀流を学んでいたことになります。どこかですれ違っていたかもしれないし、後に北辰一刀流つながりで二人は出逢うかもしれないし。
後に歴史に名を残す人たちの中にはまだまだお互いに知らないまま、このようにして江戸で学問や剣術を学んでいた人たち多いだろう。もちろん江戸に行って学びたいけれど行けずに、故郷で過ごした人も居て。幕末のそれぞれの青春だな。この時に得たものが後にパワーとなって幕末を動かすんだよな~と、昨夜の『龍馬』を見ながら思いました。
そして彼らに大きな影響を与えたのがペリーの来航だろう。龍馬が江戸に来て、山南が中山幾之進と剣術の試合をした約2ヶ月後にペリーは浦賀にやって来たのです。そう考えると、龍馬はすごいタイミングで江戸に行ったことになりますね。

幕末を動かす多くの人たちが山南や龍馬と同じようにこの時は20代、10代なんです。
以前に天保は優れた人材の宝庫?というタイトルで記事を挙げたことがあります。これの記事で挙げた幕末の志士たちのペリーが来航した嘉永6年の時の年齢を考えると、
勝海舟が33歳、芹沢鴨が27歳、武市半平太が25歳、吉田松陰が24歳、桂小五郎が山南と同じ21歳、近藤勇が20歳、土方歳三が龍馬と同じ19歳、岡田以蔵と中岡慎太郎が16歳、高杉晋作が15歳、私が挙げた一番若い斎藤一と藤堂平助と伊庭八郎は10歳です。もし年齢に間違いがあったらごめんなさい。
あの岡田以蔵@佐藤健は16歳だったんですか。中岡慎太郎はこの時は何をしていたのだろうか。

そんな彼らですが、歴史の表舞台に登場するのはこれから約10年後。この10年間をそれぞれがどのように過ごしたかにとても関心があります。龍馬についてはわかる部分があっていいですよね。山南についてはここから長いこと空白なんです。現代に残る記録に登場するのは万延二年(1861)の1月ですから。ペリー来航から約8年後ですから。
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by eri-seiran | 2010-01-11 11:26 |  出来事 | Comments(2)

京に辿り着いた日

山南敬助たち試衛館のメンバーが浪士組として江戸を出立したのが、文久3年(1863)2月8日。これを現代の暦で考えると3月26日。
私が江戸にて山南と共に試衛館から傳通院、そして傳通院から板橋まで歩くを実行した2日後のこと。

山南敬助たち試衛館のメンバーが京に辿り着いたのが文久3年(1863)2月23日。これを現代の暦で考えると4月10日。つまり今日です。

私が江戸に行ったのはだいぶ前のことのように感じています。
江戸から帰って来て今日まで色々なことがあり過ぎました。
この間、彼らは歩いていたんだ。
歩いている途中で桜の花も見たかもしれない。
京も桜が咲き始めていたのかな。それともだいぶ咲いていたのかな。
こんな時季に彼らは江戸からやってきたんですね。
今日みたいに初夏のような気温だったとは考えにくいけれど。
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by eri-seiran | 2009-04-10 22:41 |  出来事 | Comments(0)

命日

平成21年(2009)3月20日の今日は春分の日ですが、現代の暦で考えた場合、今日が山南敬助の亡くなった日になります。

144年前の冬が今年のような暖冬だったり、ここ2~3日の初夏を思わせる気候だったら山南の死にも影響したのだろうか。
春の陽気であれば気持ち的に前向きに考えられたり、暖かければ怪我の後遺症も軽かったり。
死と言う選択を防ぐことはできなかったのだろうか。

元治2年(1865)の冬はどんな気候だったんだろう。
しかし今年の冬のような暖冬でも京の一般的な桜は咲かないんだな。

<追記>
島田魁の命日も今日でした。
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by eri-seiran | 2009-03-20 06:42 |  出来事 | Comments(0)

145回忌の日に

2月23日は、旧暦で考えた場合、山南敬助の命日であり、今年は145回忌になります。
そして山南敬助や近藤勇、土方歳三ら試衛館のメンバーが江戸から京にやってきたのも、山南が亡くなる2年前の2月23日。

文久3年(1863)2月23日、大津宿から壬生入りした山南敬助ら試衛館のメンバー
元治2年(1865)2月23日、大津宿から沖田総司と一緒に壬生に帰って来たと云われている山南敬助

元治2年の2月23日はその2年前と同じように大津宿にいたのか、山南と総司。
そんな2月23日なんですけれど、実は、昨日の2月22日から24日まで2泊3日でちょっとお出かけするつもりだったんです私。宿も取っていたんです。
でも先週の半ばに急な仕事が入ってきて、これは無理だということになり、宿をキャンセルして一度は諦めたんです。でもキャンセルしてから1日後に頑張ったらなんとかなりそうということがわかり、23日からの1泊2日にしようということになり、再び同じ所で宿を取りました。

一度、ここに泊まろうと思っていたんですけれど、東京と違っていつでも泊まれるということで、なかなか実現に至りませんでした。
だから145回忌という日に実行してきます。
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by eri-seiran | 2009-02-23 11:38 |  出来事 | Comments(2)

山南も鑑賞した壬生狂言

壬生狂言を観たかった目的はそこかい。
はい、そこです(笑)。

文久3年(1863)3月25日、会津藩士の本多四郎という方が壬生を訪れて、浪士らと共に壬生狂言を観たという記録を残しているのです。鑑賞したメンバーとして、山南敬助ら試衛館の9人、芹澤派の5人、他に粕谷新五郎、佐伯又三郎、阿比留鋭三郎の計17人の名前が挙がっています。

大河ドラマ『新選組!』での第17回『はじまりの死』にて、壬生狂言を会津藩士たちと鑑賞するシーンが描かれていました。ドラマでは『橋弁慶』が上演されましたが、史実での演目はわからず。何だったのだろうか。
ドラマでは緊張して会津藩士らとの会話に参加できなかった山南でしたが、史実では会話に参加できたのだろうか(笑)。
またこの回の『新選組を行く』では、壬生寺と壬生狂言が紹介されています。

さて山南敬助が鑑賞してから146年後に鑑賞した壬生狂言は『節分』です。
また早速ニュースにもなっていまして、こちらより

女主人と人間に変装した鬼とのやり取りが面白く、またわかりやすく、吹きさらしでの鑑賞は寒かったのですが、約45分の上演時間は長く感じませんでした。

壬生狂言を観ながら感じたことは、伝承という重み。
だって146年前に山南たちの前で壬生狂言を披露した方々から今日まで受け継がれ、守ってきたことによって、今でも観られるわけです。それは歌舞伎や映画『Beauty うつくしいもの』で描かれている村歌舞伎、また能など伝統芸能にとっては同じ。
146年前にこの壬生で山南が壬生狂言を観たのはほぼ間違いなく、それから146年が経って、同じ壬生で私も壬生狂言を観られるということは思っていた以上にすごいことでした。
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by eri-seiran | 2009-02-03 20:56 |  出来事 | Comments(0)

新聞の広告で、『歴史読本』2009年1月号(新人物往来社)が紹介されていて、特集が日本の暦であり、旧暦の見方、楽しみ方ということで、面白そうだな~と思い、書店にてゲットしてきました。

歴史読本には大河ドラマコーナーもありました。歴史読本は久しぶりにゲットしたというか、これまで1~2度くらいしかゲットしたことがないのですが、大河ドラマコーナーがあることをすっかり忘れていました。1月号には2ページ分の4分の3に今度の日曜日放映分の『篤姫』第48回から最終回までのあらすじといくつかのシーンの写真が小さくカラーで載っていました。第48回ではあの方とのツーショットの写真もあり。残りの4分の1にはクランクアップの記事。夫の家定公こと堺雅人さんのサプライズ登場に、泣き崩れてしゃがみこんで両手で顔を覆っている天璋院ことあおいちゃん。堺さんも同じようにしゃがみ込み、優しい表情で声をかけている写真もあり。
新聞の広告を見なければ、また日本の暦の特集でなければ買わなかったであろう歴史読本1月号。ちょっと得した気分になりました。

さて日本の暦についてですが、読んでいて、旧暦(太陰太陽歴)ってとても大切だよな~と改めて思いました。例えば自然とか、色々な視点からそうだと思えるのですが、歴史の出来事についても言えます。自分が大切にしたきた部分です。
本にも書かれていたのですが、赤穂浪士の討ち入りは12月14日。しかし現代の新暦(太陽暦)で考えると、1月30日になるそうです。討ち入りの日は雪だったと。12月中旬、江戸にて雪か・・・となりますが、1月30日と考えると、雪の降る時季だと納得できる。
関ヶ原の戦いは9月15日だそうです。これは10月21日になるそうで、9月15日だと戦うにはまだ暑そうという感じですが、10月21日だと戦っている時だと暑いかもしれないけれど、生活するうえでは暑さはない時季だ。

山南敬助の死は元治2年(1865)2月23日、これは3月20日になります。
2月23日だと寒いですが、3月20日だとだいぶ暖かくなってきているはず。そこまで春が来ていたのです。
でも桜が咲くには早いんですよ、伊東先生。

そこで山南敬助に関する主な出来事の年月日、新暦で考えた場合の月日を挙げてみたくなりました。

万延2年(1861)1月14日 (2月23日)
新年の稽古のために近藤勇らと共に佐藤彦五郎宅を訪れる。

文久元年(1861)8月27日 (10月1日)
近藤勇の4代目襲名披露の野試合に参加。

文久2年(1862)1月19日 (2月17日)
近藤と総司と共に小野路村を訪れる。

文久3年(1863)1月17日 (3月6日)
総司と共に浪士組参加の挨拶のために小野路村の小島鹿之助宅を訪れる。

文久3年(1863)2月8日 (3月26日)
浪士組として江戸を出立。

文久3年(1863)2月23日 (4月10日)
京に着。

文久3年(1863)8月18日 (9月30日)
禁門の政変のために出動する。

文久3年(1863)9月18日 (10月30日)
芹沢鴨の暗殺。

文久4年(1864)1月27日 (3月5日)
小島鹿之助に年賀状を書く。

文久4年(1864)2月2日 (3月9日)
日野の富沢政恕が壬生の屯所を訪ねたが、山南は病に臥していて逢えず。

元治元年(1864)6月5日 (7月9日)
池田屋事件が起こる。(山南は参加していないけれど)

元治元年(1864)7月19日 (8月20日) 
禁門の変が起こる。(山南は参加していないけれど)

元治2年(1865)2月23日 (3月20日)
死去。享年33。

*( )の月日が新暦で考えた場合です。
*改元のあった年は改元のあった月日まで使われていた年号にしています。
*参考文献:菊地明・伊東成郎・山村竜也編『新選組日誌 コンパクト版 上』(新人物往来社)、釣洋一『江戸幕末和洋暦換算辞典』(新人物往来社)


近藤勇の襲名披露の野試合は8月27日と言えば、暑かっただろうという感じがしますが、10月1日なら、涼しくなっていただろう。
浪士組参加の挨拶に訪れたのは、今で考えると冬から春への時季。京に向けて江戸を出立したのは春。将軍のために働ける、京に行けるという喜びと共に、春という気候が気持ちをさらに高めただろう。そして京に着けば桜。
芹沢鴨の暗殺は秋もだいぶ深まった時季。
池田屋事変は夏。
山南が亡くなったのはそこまで春が来ていた時季。

このようにして考えると、出来事への思いも新たに色々と出てくるのです。
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by eri-seiran | 2008-11-28 18:56 |  出来事 | Comments(2)

家茂公が上洛した時

大河ドラマ『篤姫』は、いよいよ文久3年(1863)2月となりました。
『新選組!』で言えば、第13回まで来ました。
第14代将軍家茂公が上洛することになり、それに伴い、浪士組が結成され、将軍より一足早く京に行くことになり。それに参加した山南敬助や土方歳三初め試衛館のメンバー。そして後に新選組を結成。
家茂公が上洛することがなかったら、山南敬助らの人生も違ったものになっただろう。

京で沸き起こった大きな渦は山南敬助も巻き込んでいくことになるのです。
                       
これは、大河ドラマ『篤姫』の第38回での冒頭でのナレーションの一部を頂きました。そして山南だけでなく、近藤や土方ら試衛館のメンバーもそうだった。

さて、家茂公が江戸を御発ちになったのが、2月13日らしいです。家茂公が天璋院と和宮にお別れしていた頃、山南敬助は中山道の追分宿から碓氷峠を越え、中久保宿まで歩いています。現在の群馬県安中市から長野県北佐久郡軽井沢町までの約30kmのようです。峠もあったし、大変だっただろう。しかし幕府のために国のために働ける嬉しさで気持ちが高揚して歩いていただろうな。家茂公の上洛によって、大奥では姑と嫁の戦いが起きているとも知らず。史実については知りませんけれど(苦笑)。

家茂公が上洛した時、天璋院は29歳。家茂公は18歳。若いですね。
一方あのお方たちは

山南敬助 31歳(天保7年説の場合28歳)
近藤勇   30歳
土方歳三 29歳
沖田総司 22歳


です。
将軍上洛警護のため京に行ったはずの浪士組が、一部の人たちを残して江戸に帰って来たことを天璋院が知ったら激怒するだろう。京に残った山南敬助らを褒め称えるだろう。
そんなシーンが観たいです。
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by eri-seiran | 2008-09-21 23:41 |  出来事 | Comments(6)

145年後の9月18日は雨

芹沢鴨と平山五郎の暗殺日は文久3年(1863)9月のこと。
芹沢鴨と平山五郎の二人の墓石には9月18日と刻まれています。しかし元会津藩士は9月16日と記しており、また西本願寺の寺侍の西村兼文は芹沢らの暗殺は8月16日と記していて、一方、永倉新八は『浪士文久報国記事』にて9月6日と記しています。8月は誤記、9月6日は6日が誤記で16日の勘違いなのではないかと考えられたりします。
そして八木為三郎が芹沢鴨の暗殺の夜は雨が降っていたと語っているらしいけれど、9月18日は晴天で、9月16日が雨だったという記録が残っています。
ということで、墓石には18日と刻まれているけれど、16日説が浮上してくるわけで。
これは非常に難しい。

しかし16日説が有力になってくると、他にも影響があったりします。
と言うのは、西村兼文がこの事件に関わった人物に山南敬助も挙げていますが、それについても信憑性が高くなってくるのではないだろうか。

芹沢鴨らが暗殺されてから145年後の平成20年(2008)9月18日の京は雨だそうです。
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by eri-seiran | 2008-09-18 07:43 |  出来事 | Comments(0)

家茂公と和宮の婚儀が行われた時

大河ドラマ『篤姫』の第34回は、皇女和宮が京を出立するいくらか前から、将軍家茂公と和宮の婚儀が行なわれた時までの話だったので、これを年月日で言えば、文久元年(1861)10月20日のいくらか前から文久2年(1862)2月11日までとなります。山南敬助らが浪士組として江戸を出立する約1年前です。大河ドラマ『新選組!』では、第6回の後から第8回に入るまでの話し。第7回は文久元年(1861)8月27日の話しで微妙ですが、この回に入ることにしておきましょう。斎藤一を除いた試衛館派のメンバーが集結する『祝四代目襲名』です。この回も好きだな。土方歳三@山本耕史の策に対して自信たっぷりに自分の策を言う山南敬助@堺雅人。そして山南と沖田総司@藤原竜也との立ち合い。この頃は楽しかったな~楽しかった(笑)。

14代将軍家茂公と和宮の婚儀が行なわれた時、天璋院は28歳。
天璋院も28歳かとちょっと驚いたりするわけですけれど。確かに落ち着いてきました。貫禄がでてきました。
一方あのお方たちは

山南敬助 30歳(天保7年説の場合27歳)
近藤勇   29歳
土方歳三 28歳
沖田総司 21歳


です。あら、山南も30代に突入じゃん(笑)。
前回のこのシリーズの記事で述べていますけれど、万延2年(1861)1月14日に、山南敬助は近藤勇と沖田総司ともう一人(名前が不明)の計4人で、日野の佐藤彦五郎宅に泊まりました。これが山南と近藤たちとの関係がわかる最初の記録です。また婚儀が行なわれる約1ヶ月前、詳しくは文久2年(1862)1月19日には、山南は近藤と総司と3人で小野路村の橋本家(土方の親戚)を訪れています。と言うことで、家茂公と和宮との婚儀があった時、山南は、試衛館、また多摩の人たちとすでに付き合いがありました。
だから近藤や土方、小島鹿之助たちは、和宮の降嫁について、また老中の安藤信正を襲った坂下門外の変についての山南の意見が聞けたというわけですよ。議論し合えたというわけですよ。山南がどのような考えだったかはわかりませんけれど。

それから文久元年(1861)8月27日に行なわれた4代目襲名披露。
史実では、襲名披露の野試合に、試衛館派で元々の天然理心流でない山南・永倉・原田・藤堂・斎藤の中では、唯一山南だけが参加しています。と言うことで、他のメンバーは、まだ近藤との出会いがなかったか、参加できるほどの関係ではなかった。
と言うことは、山南は他のメンバーより早く近藤と出会っていた、また近藤と濃い関係だったと言えるわけです。
そして今、気付いたんですけれど、今日は8月27日。これは偶然のなにものでもありません。なんか嬉しい。ちょっとしたくじが当たったような気分。
新暦で考えると10月1日だったので、だいぶ涼しくなって、野試合には良い季候だったはず。
現代の8月27日も8月にしては涼しいですけれど。
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by eri-seiran | 2008-08-27 20:20 |  出来事 | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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