カテゴリ: ゆかりの地( 78 )

山南敬助ゆかりの地@江戸編~2016年~

先週の9日(火)10(水)、江戸に行って参りました。歌舞伎を鑑賞するなど特にこれだ!という目的はなく、あるとすれば、久しぶりに伝通院に行きたい!NHKスタジオパークの真田丸展を見に行きたい!
1月26日のこちらの記事で、平成16年(2004年)の9月に放映された土曜スタジオパークにおいて、伝通院にて山本耕史と堺雅人が『組!』について語る映像(保存版)を観たと書き、それから2日後に江戸に行こうと決めました。それにNHKスタジオパークでの真田丸展が4月3日までなので、それまでには江戸に行きたいと思っていたので。

まずは10時頃に江戸に着き、荷物を宿に預けてまずは伝通院へ。
伝通院へこれまで行ったのは3回かな?そしてこれまでは丸の内線の後楽園駅で降りていましたが、今回はホテルの最寄りの駅の関係で都営三田線の方が便利良く、春日駅で降りて歩きました。後楽園駅で降りて歩いても同じ10分くらいかな。
久しぶりだったのですが、驚いたのは新しい山門が出来ていたこと。
以前の方が昔を感じられて好きだったのですが、これは仕方ないですね。
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『組!』について語っていた山本耕史と堺雅人が座っていた本堂の階段。初めて伝通院に行ったのはその二人の撮影から約2ヶ月後で、自分に付き合ってくれた同志と共に彼らが座っていた辺りに座って写真撮影したものでした(笑)。
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『組!』にて芹沢鴨@佐藤浩市が大梵鐘を鳴らすシーンがありましたよね。この大梵鐘は天保10年に鋳造されたものだということなので、この大梵鐘は伝通院に集まった山南や土方たちを見ているんですよ。
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次に試衛館跡へ。
大江戸線牛込柳町下車。
こちらも周辺には高層マンションや新しい建物が建っていて、唯一試衛館跡と感じられる正一位稲荷神社は周辺の近代化に押されて小さくなって遠慮しているような感じがしました。元々そんな場所だったのですが。
でもこの辺りが試衛館跡であり、山南や土方、近藤、総司がここで生きていたのは確かなのです。
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そして試衛館の食客となる前に山南が居た大久保道場跡へ。
ここには大久保道場跡を示す石碑も何もないです。
近代的なビルが初めて訪れた12年前にはすでにありました。試衛館跡周辺に比べて、ここはビジネス街でモダン。江戸時代の地図を見ても大久保道場跡は外堀から中にあり、試衛館跡は外堀から外にあります。そんなことから大久保道場と試衛館の差が感じられるのですが、だからこそ山南は何故に大久保道場から試衛館に移ったのが謎なんですよね。

そして今回、大久保道場と伝通院は近かったということに改めて気付きました。あまり関係ないですけれどね。

これらの地の詳しいことについては、『山南敬助 赤心記』のゆかりの地江戸編を参照にして頂ければ幸いです。
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by eri-seiran | 2016-02-15 15:28 |  ゆかりの地 | Comments(2)

いざ池田屋へ!

副長こと耕史君のロックミュージカルの大阪公演が昨夜にあり、観に来られたふみさんが一緒に来られたお友だちと本日は京を巡るということで私も途中から合流し、ランチまでの時間をご一緒させて頂きました。
ふみさんのお友だちはmonoさん。もちろん耕史君ファンで、そのきっかけが『組!』であるということで、放映から5年も経つけれど、今でもある『組!』ファンの方との新たな出逢いでした。

今朝、ふみさんたちは大阪から京に入り、まずは四条大宮にある龍馬とおりょうのゆかりの地である武信稲荷神社へ。そして壬生の新選組ゆかりの地を巡るとのことだったので、私は壬生のどこかで合流しようと思っていたのですが、山南敬助が上手く導いてくれたのか、殆んど同じ時間に光縁寺の門前に着きました。
光縁寺は今年の山南忌以来。南天の赤い実が鮮やかで、それを見て、この時季には以前にも来た事があるなと思い出しました。確かなのは3年前、南座での歌舞伎鑑賞をする前に訪れたのです。と言うことは、孝太郎姉さんに恋に落ちてから3年なんだわ。もっと経っているような気がしたんだけれど。それはきっと孝太郎姉さんへの恋は濃いからだと思う。エネルギーもお金も費やし方はすごいもん。もちろん山南に対しても同じです。

光縁寺を後にしていつもの通りを西に向かうと旧前川邸。本日は土曜日だったのでお店ががオープン。色々と品が増えておりチェック。そして『組!』での山南敬助@堺雅人をはじめ訪れた役者さんたちの色紙、副長のポスターなどを見ると今でも胸が熱くなりました。そして壬生寺へ足を運び、壬生寺からは

いざ池田屋へ!

今回、とても楽しみにしていたんです。
三条河原町の池田屋跡にできた海鮮茶屋 池田屋 はなの舞にてランチ。
こんなものが今年の7月にオープンしたと聞いてから、山南ファンですが、行きたいな~と思っていて、でも新選組ファンとか、幕末ファンとかの友だちじゃないと付き合ってくれないよな~と思っていたので、ふみさんからランチはここでするつもりと聞いて私もお願いしますということになりました。
三条河原町のバス停で降り、目指すは池田屋。あそこが池田屋だ!という感じ。中に入って御用改めてござるという感じ。8メートルの大階段に新選組の羽織りを着たお店の人。階段の壁には新選組隊士。色々とチェックしたり、写真を撮ったり、ワイワイ騒いでいるものですから、席が用意できても私たちに声を掛けられなかったみたい。自分達が落ち着いて、自分達から席を聞きました(苦笑)。
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ランチのメニューは本日のランチ、沖田総司、龍馬とお竜、近藤勇、土方歳三、池田屋弁当でした。自分が食べたかったのは龍馬とお竜か、池田屋弁当ということで、せっかくだし池田屋弁当にしました。値段的には池田屋弁当が一番高く、土方歳三が沖田総司と近藤勇より100円安いことに土方ファンのお二人は納得できなかったようです。
新選組ファンとしては何故副長が総司より安いんだとか突っ込みも入れながら、ここでならば話のネタは尽きないかと思います。
そして『組!』ファン同士が出逢った時、『組!』ファン、または『組!』がきっかけで耕史君や堺さんのファンになった場合、必ずと言っていいほどどのようにしてファンになっていったかという経過を聞いたり、話したりしますが、初対面のmonoさんとは食べながらそんな話も。それから平成17年(2005)の会津まつり、また同じ年の京都駅での副長のトークショーの話しなど懐かしかったです。

池田屋跡、以前は池田屋跡をわざわざ訪れた人とか、ここにあるということを分かっている人ならばスルーはしませんが、それ以外の人ならばスルーしてしまいそうな感じだったと思います。しかし池田屋という名の食べ物屋さんになってかなり目立つし、インパクトがあり、やはり立ち止まる人が多く、知らない人に知ってもらうことができるな~と思いました。
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by eri-seiran | 2009-11-28 21:46 |  ゆかりの地 | Comments(2)

大坂のゆかりの地巡り~距離感~

今日は大阪にての舞台鑑賞の前に、再び山南敬助&新選組が大坂での常宿にしていた京屋跡、山南敬助が不逞浪士と戦った岩木升屋跡、新選組が金銭面で助けてもらい、また山南敬助が不逞浪士と戦ったという説がある鴻池跡、そして山南ゆかりの地ではないけれど、緒方洪庵先生の適塾を巡ってきました。これで何度目だろうか(苦笑)。

先日、小説『竜馬がゆく』で竜馬が岡田以蔵と高麗橋で逢うところを読んで、岩木升屋跡があり、山南敬助も土方歳三も多分に渡った高麗橋に行きたくなって。小説で竜馬と以蔵が逢うのはフィクションでしょうが、でも八軒家船着場に近いから、龍馬を初め多くの志士たちが歩いたんだろうと改めて思ったのです。

それぞれのゆかりの地についてはこれまでも何回も書いているので省きます。八軒家船着場、京屋、岩木升屋、鴻池、適塾についてはこちらとか、こちらより

家を8時に出たら余裕を持って巡れるかな?と思ったのですが、家を出たのが8時40分。JRに乗り、地下鉄に乗り、京阪電車に乗って、八軒家船場跡がある京阪天満橋駅に着いたのが10時半。舞台が始まる時間、梅田まで戻る時間などを考えると1時間ほどで巡らないと間に合わないという状況でした。
まずは八軒家船場跡です。
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そしてここから50m弱、西に歩き、左に曲がると石段があります。ここには何回も来ていますが、初めて蔦がいいな~と気付きました。
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季節もあるのでしょうが、今までは山南も石段を歩いたんだとか、石段を見ながらそんなことばかり考えて歩いていたから。その石段を登れば、北大江公園があり、その辺りが京屋跡です。
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奥のイチョウの木は黄色に色づいてきていますが、手前のイチョウはまだでした。同じ敷地にあってもそれぞれが受けた影響によって違うんだな。
さて北大江公園を通り抜けた所にある一本道を西に向かって10分弱(歩きの早い人であれば5分で行けそうな距離)で高麗橋です。
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山南敬助も土方歳三も確かに歩いたはず、また坂本龍馬も歩いたかもしれない橋です。江戸時代、この橋は幕府管理の十二公儀橋の中でも格式が高かったそうです。それから明治3年(1870)、大阪最初の鉄橋にかけかえられています。明治になってすぐに山南も土方も渡った橋は取り去られ、新しく変えられたのね。
この川が東横堀川で、10月に大阪城・道頓堀コースの川巡りをした時に通った川です。

そして橋を渡って西へ数十メートル歩いた所が岩木升屋跡辺りです。
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ここからさらに西に歩き、堺筋に出て、北へ数十メートル行き、今橋一の筋を再び西へ数十メートル歩いて最初に出合う筋の所に鴻池跡があります。岩木升屋跡から5分くらい。
しかしです。私は鴻池跡に辿り着くまでに洒落たお店を発見。GOKAN北浜本館。お昼御飯はどこかでパンでも買ってお腹に入れなければ舞台に間に合わないと思っていたのに、美味しそうなキッシュの誘惑に負けて入ってしまいました。
ランチセットAを注文し、ゆっくりしちゃいました。キッシュもサラダもケーキも珈琲も美味しかった。満足。また食べ終わった後はお菓子を見て回っていくつか買い、と言うわけでここで30分ほどロス。舞台の開演まで後40分ほどになっていました。慌ててここから1分ほど歩いて鴻池跡へ。
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そしてそこから2~3分で適塾です。
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どちらももう写真だけ。緒方先生、江戸にて仁に逢いましたか?なんって言っている場合じゃない(苦笑)。それから車が停まっていたり、急いでいたために良い角度から写真が撮れず。適塾には以前に来た時よりも人の出入りが多かったような。仁の影響だろうか。
急いで地下鉄御堂筋線の淀屋橋駅に行き、梅田駅で降り、いつもと違う出口から出てしまい、こんな時に限って遠回りに。梅田芸術劇場に無事に辿り着き。ギリギリセーフでした。

今回は山南敬助の大坂におけるゆかりの地の距離感を改めて感じたかったのですが、自分が急ぎ足だったこともあるのですが、前回歩いた時よりもとても近いな~と感じました。そしてこの辺りにおいては山南敬助や新選組だけでなく、私が知る多くの志士たちも歩いたんだろうな~と思った次第です。
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by eri-seiran | 2009-11-22 22:04 |  ゆかりの地 | Comments(4)

大坂の川を下る山崎烝

先日に予約録画したBS熱中夜話関ヶ原ナイト(前編)を夕食を取りながら見ました。いや~勉強させて頂きました、面白かったです。私は戦国も好きで戦国ブームと幕末ブーム、時々赤穂浪士ブームがあるのですが、ここ数年長いこと幕末ブームが続いていて、でもやっぱり戦国も面白いなと思いました。
昨年の12月に放映された新選組ナイトではテーマは大河ドラマ『新選組!』なのか、史実の新選組なのかよくわからなかったのですが、今回の関ヶ原ナイトは良かった。
見終わって戦国も面白いな~近いうちに関ヶ原に行こうかな~なんって思いながら、再生を終え、チャンネルをNHK総合にすると、新選組の監察方の山崎烝の声がするではないですか。私が幕末から戦国に浮気をしようとしていたことがばれた?
ということでドキッとしました。

山崎烝とは桂吉弥さんのこと。金曜日の20時から放映のかんさい特集の番組に出ていたのでした。
そしてその番組は『大にぎわい!淀川舟くだり~再発見・水都大阪~』というもの。
淀川の始点である桂川・宇治川・木津川の合流点から三十石船風の船で淀川、大川、道頓堀まで下って川の偉大さや川から見た大阪、また現在行われている水都2009大阪の模様を紹介するものでした。
山崎烝も京から三十石船に乗って大坂に下ったはず。
船からはライトアップされた大坂城が見えました。今でこんなに見えるのだから、当時はもっと見えたであろう。

BS熱中夜話の関ヶ原ナイトでファンの多くの人が関ヶ原に行ったレポの後に、歴史専門家の方が歴史の舞台を歩くことは大事なことであり、本を読んでも理解できないことも、現地に行って理解できること、解釈できることがあると仰っていたのを聞いてその通りですと思ったのですが、この川下りを見て、再びそうだよねと思いました。京から大坂に船に乗って来た時、新選組のメンバーは船から遠くに大坂城が見えたのです。
大川巡りは私も2回していて大坂城が見えるということは分かっているんですけれどね。1回目は3年前の秋でこちら
2回目はそれから半年後の春でこちら

と言うことで、やっぱり関ヶ原より先に大坂に行って水都大阪2009に参戦して来ようと思います。
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by eri-seiran | 2009-09-18 23:01 |  ゆかりの地 | Comments(2)

山南敬助&新選組ゆかりの地めぐり@四条通編

9月4日の金曜日、夜に友人と京の四条烏丸で飲もうと言うことになりました。せっかく京に行くんだったら、霊山歴史博物館で9月1日より始った2009年秋の常設展~龍馬、新選組、篤姫・・・~よみがえる幕末維新を見に行こう思ったりもしたのですが、1週間前によみがえる幕末維新~新選組 その光と影を追う~を見に行ったばかりだったし、お昼過ぎまで用事があって時間があまりなかったし、あの坂を再び歩くのもしんどかったし、10月18日まででまだ余裕もあったのでパスしました。

そこで少し時間があったので四条通り新選組ゆかりの地めぐりをしてきました。
スタートは祗園から。八坂神社です。
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歴史的な史実としては残らないけれど、山南敬助も八坂神社の階段は上っただろうと思う。
そして山南敬助は関係ないけれど、祗園会所跡です。
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東大路通を挟んで、八坂神社の向かい側にあります。
元治元年(1864)6月5日、過激派浪士の取り締まるために集合した場所でございます。つまり池田屋事変ね。現在はコンビニストアになっております。

そこから西、つまり壬生の方に向ってしばらく歩くと、花見小路通と四条通の南側の角にある一力亭です。
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文久3年(1863)10月10日、一力亭にて行われた佐幕派の会合に近藤勇が出席しています。
そして今、知りました。仮名手本忠臣蔵の七段目一力茶屋の場の一力茶屋はここのことだったのか。
その仮名手本忠臣蔵七段目も上演されたであろう南座が一力亭から西へ少し歩けばあります。元治元年(1864)11月、顔見世興行中、新選組隊士が悶着を起こしたとか。

そして鴨川を渡り、四条河原町通を越えていきます。
四条河原町通と四条烏丸通の間であった出来事があるものの、場所の名前を覚えておらず、チェックできませんでした。帰ってから確認すると、四条通御幸町辺りなので、この辺りになります。

出来事とは文久3年(1863)6月1日、山南敬助と永倉新八がこの辺りを歩いていたということ。井上源三郎のお兄ちゃんの井上松五郎がこの辺りで山南敬助と永倉新八に逢ったと言うんです。歴史には残らないけれど、井上松五郎日記には残っている出来事なんです(笑)。

四条烏丸通に辿り着き。
今回一番確認したかった場所はこの四条烏丸の交差点の北西のコーナー辺りにあった鴻池京都店。この辺りね。

しかしこのコーナーは現在は建築中で囲いがしてありました。

この辺りは金融機関の会社が建ち並んでおり、京のウォール街って感じ。そんな所に鴻池京都店はあり、改めて鴻池はすごい、また壬生からも近いということに気付きました。
鴻池は大名貸しなどを営む豪商であり、本店は大坂にありました。鴻池は新選組に多額の献金をして支えています。反対に鴻池も新選組に助けてもらっていました。それは押し入る賊から鴻池を守ってもらうこと。
鴻池の京都別邸で押し入った賊を山南と近藤が闘ったと云う記録が残っています。これは同じような事件として岩木升屋が有名であります。当時は岩木升屋より鴻池が有名であったために名前が入れ替わったのではないかとも言われております。

祇園から四条烏丸と四条烏丸から壬生までの距離は同じくらいか、壬生までの方が近いのではないかと思い、時間さえあれば壬生まで歩きたい気分だったのですが、待ち合わせの時間が近づいていたので今回は断念。次回はここからスタートです。
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by eri-seiran | 2009-09-06 07:42 |  ゆかりの地 | Comments(0)

呼びましたか。

今年の3月の第三回山南忌に参加し、壬生寺からアークホテルに向かって参加された方々といつもの道(綾小路通)を歩いていたら、SANNAMIJIという文字を発見。山南(SANNAN)忌に参加したばかりのメンバーがこれを見て騒いだのは言うまでもない。そしてこれはカフェの名前でした。
今まで何回も通っている道なんだけれど、いつできたんだろう。気になる。入りたい。

と言うことで、18日、壬生寺に行く前に寄りたかったカフェとはここのこと。
CAFE SANNAMIJI.
です。

普通の家をカフェに改修した感じで、とてもおしゃれで落ち着いた雰囲気。1階にテーブル席が4、そして2階もありました。
その日、私は遅い朝食を取り、昼食はまだだったし、夕食も兼ねて食べようと思い、特製ハヤシライスを注文しました。
ハヤシライス、しっかりと煮込んであって美味しかったです。ハヤシライスって普段はあまり食べないんですが、こんなに美味しいのか。ちょっと癖になりそうです。
食後にはコーヒーを注文。コーヒーにはうるさい私ですが、これもまた美味しかったです。とても満足。
次回はメープルシフォンケーキやクロックにしよう。

さてお店の人に名前の由来について聞いてみました。
いくつかの言葉による造語だとか。
SANNAは山南の・・・
と私が聞いたところ、この名前を付けた後に山南のことを知ったそうです。
そうなんですか。
知っていて付けたことより、すごいな~と思うこの縁。
山南敬助が眠る光縁寺から200メートルも離れていない所にあるCAFE SANNAMIJI.

山南さん、あなたがこのカフェを呼びましたか?
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by eri-seiran | 2009-07-20 09:17 |  ゆかりの地 | Comments(4)

続・山南と共に歩く鳥羽伏見の戦いの地

5月15日にこちらの宿題を片付けようと思い、再び伏見に行って参りました。前回は近鉄京都線の竹田駅で降りて鳥羽街道を南へと下って行きましたが、今回は前回の時に辿り着く予定であった京阪本線の淀駅で降りて巡った後に、再びこの駅に舞い戻って来ることにしました。

まずは千両松激戦の地に向かって歩いていると、淀小橋旧址の碑を発見。
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いい加減ですが、この辺りです。

こんな所にあると思っていませんでしたので、ラッキーと言う感じでした。
宇治川に架かっていた淀城下と京都を結ぶ橋でしたが、鳥羽伏見の戦いで、激戦であった千両松から退却する旧幕府軍に焼き払われたらしい。

そして旧幕府軍が退却してきたと思われる道をさらに進むとだんだん本当にあるんだろうかとかなり心配になり、戻ろうかな~とか、左に曲がった方がいいのかな~と不安になっていた時に見つけました。鳥羽伏見の戦いの中でも激戦であった千両松の戦闘の地、そして井上源三郎の最期の地です。
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いい加減ですが、この辺りです。

戊辰役東軍西軍激戦之址と書かれてあります。
慶応4年(1868)1月5日、新選組と会津兵は千両松に布陣し、薩摩軍や長州軍を相手に白兵戦で展開したそうですが、最新式の大砲や銃、そして旧幕府軍の寝返りもあり、最後まで踏み止まって戦ったものの、多くの命を失い、撤退しました。
この時に井上源三郎の甥である井上泰助が源三郎の首と刀を持って撤退したものの、重たくて、途中の寺の門前に首と刀を埋めたそうです。また山崎烝もこの地で重傷を思ったと云われていて
江戸に向かう船の中で亡くなった、船に乗る前に大坂で亡くなったという説があります。京都競馬場関係の建物があったり、道沿いに京阪電鉄があるものの、昔は何にもないところだったんだろうなという所でした。

来た道を少し戻って、右に曲がりました。団地の中を通って府道13号線に出ると、五輪塔型の鳥羽伏見之戦跡地碑が歩道にあったりもしました。
そしてしばらく南の方に向かって歩くと辨慶うどん淀店があり、ここにて遅いお昼ご飯にしました。おうどん、美味しかったです。
詳しいことは井上源三郎資料館の井上源三郎埋葬地を訪ねてのレポより
そして鳥羽伏見の戦いに巻き込まれ、戊辰之役東軍戦死者之碑がある妙教寺があるはずのあたりを歩き回りましたが、見つかりませんでした。それならば、誰かに聞きなさいよ。

O型自分説明書(Jamais Jamais/文芸社)によると、
初めての場所に行くとき、「地図を見ない」という無謀なチャレンジをする。

で、安の定迷った。

迷っても、「人に聞かない」という無謀なチャレンジをする。聞けば一発なのに。

それでもなんとか辿り着く。

だそうで、その通りなんです。
ただ今回、地図はありました。しかし詳しくは載っていない。それなのに事前にきちんと調べようとしない。なんとかなるだろうと思っていた。いつもなんとかなるから。しかし今回はなんとかなりませんでした。辿り着けませんでした。それならば聞けよ!
と思いながらも帰って来ちゃいました(苦笑)。
ここだったそうです。

私、近くまで行っていたわ。と言うか、お寺らしき所があると思った所だったんだわ。しかしそこに辿り着く道が見つからなかったのよ(涙)。

伏見に関しては他にもあちらこちらに宿題がまだ残っているので、再びまとめて実行します。
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by eri-seiran | 2009-05-24 22:27 |  ゆかりの地 | Comments(0)

山南と共に歩く鳥羽伏見の戦いの地

雨が上がった5月8日の金曜日は自分にとって連休最後の日、前回の山南と共に歩く伏見の続き(こちらとか、こちら)をしてきました。
近鉄の京都駅から四つ目にある竹田駅を11時半前後にスタート。まずは竹田駅から鳥羽街道に向かって歩く途中にあり、最初に出合う鳥羽伏見の戦いのゆかりの地である安楽寿院です。
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ここは保延3年(1137)に鳥羽離宮の東殿を寺に改めたことに始まります。それから約730年後の鳥羽伏見の戦いの時に官軍の本営となりました。この辺りには近衛天皇陵や鳥羽天皇陵などが点在しています。そしてあの油小路の変が起きたところからつながっている油小路通を越えて鳥羽街道に向かって歩くと薩摩軍が布陣した城南宮があります。
ここです。
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大坂に退いた旧幕府軍が兵を京に進めようとしたところ、1月3日にこの付近で激突。鳥羽伏見の戦い、戊辰戦争の始まりでした。
広くてきれいで静かなところでした。

ここからすぐに1号線に出て、そしたら今回、絶対に食べようと思っていたおせき餅のお店を発見。 「新選組」土方歳三を歩くに載っている地図には鳥羽街道にあることになっているんだけれど。ここのはずではないんだけれどな~と思いながら、その前に薩摩兵の主力部隊と旧幕府軍が衝突したと云われる小枝橋まで行ってからここに戻ってくることにしました。
近年に架けられた新しい小枝橋から撮影した鴨川です。
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この先で桂川と宇治川に合流し、大坂へと流れています。
近くに鳥羽伏見の戦いの後を示す石碑などがありました。
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そして鳥羽街道を横断して先ほどの1号線沿いにあるおせき餅のお店へ。ここにあるはずがないと疑問に思いながらも、あるならば入って食べなければということに。
近藤勇も食べたと云われているおせき餅。
お店で頂いたおせき餅の栞によると、この地に心の美しい「せき女」と言う娘がいて、茶屋にて編笠の形をした餅を真心を込めて作って旅人に食べさ、旅人を慰め、いたわったために大評判になり、それで「おせき餅」と名をとどめたそうです。
さてこの時点で13時を過ぎていたのですが、まだお昼ご飯を食べていなくて、お腹が空いていました。これをお昼ご飯にするわけにはいかないし、取りあえず、おせき餅1個と抹茶のセットにしました。結構小さいんだ。そしてなんとおいしいんだ。あっさりした粒餡に弾力のある餅。これならおせき餅2個か、3個のセットにすればよかったです。と言うことで4個入りを持ち帰りとして買いました。
このお店を出てから近くのお店で昼食をしっかりと頂きながら、これからどのようにして歩くか、改めて確認。

お店を出た後は鳥羽離宮跡公園にある鳥羽伏見戦跡碑へ。
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そしてこの後は鳥羽街道を下って行きましたが、この時にわかったんです。先ほどのおせき餅のお店は1号線沿いでしたが、鳥羽街道沿いにもあったんです。ガイドブックに載っていたのは鳥羽街道沿いのお店。
鳥羽離宮跡公園を少し下った所の右側にあります。
鳥羽街道を歩くのだから、遠回りになる1号線に戻らなくても良かったんです(苦笑)。

鳥羽街道をしばらく歩くと、幕末ゆかりの地とは関係ありませんが、恋塚寺があります。
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そしてこの辺りから鳥羽街道と並行してあるサイクリングロードを歩きました。
右側に鴨川から引き上げられたという鳥羽の大石
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を見ながら歩いたところで、左折した住宅街にある悲願寺墓地には戊辰戦東軍戦死者埋骨地の碑があります。

再び鳥羽街道に戻って、しばらく歩くと、今度は鳥羽街道沿いに法伝寺があります。
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そしてこちらが戊辰東軍戦死之碑です。
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ここまではちょっと歩けば、次の目的地に辿りつけたのですが、ここから次の目的地である激しい攻防戦が繰り広げられたと云う愛宕茶屋跡がとてもとても遠かった。遠すぎた。
サイクリングロードはとても歩きやすく、また見える風景はとてものどかで良かったのですが、風景が変わらないからつまらなくなってくる。後で思ったのは、車が通って歩きにくくても鳥羽街道をそのまま歩いた方が良かったのかもしれないと。
愛宕茶屋まで辿り着けないかもしれない、しかしここで断念しても最寄りの駅も遠いということでどうしようもないから歩かなければならない状況。またちょっと休憩できそうな場所もなく。やっと座って休憩できるかな?という場所を無理やり見つけて、そこで買ったおせき餅を2個とペットボトルのお茶を飲んで休憩。ちょっと体力が回復して再び頑張って歩きだし、なんとか鳥羽街道にある愛宕茶屋跡に辿り着きました。
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正確さに欠けますが、この辺りです。

樹齢100年ほどの銀杏の木です。強風で折れたら危険ということで平成12年に短くされたとか。鳥羽伏見の戦いの時にはここにはムクやエノキがあったとか。またこの地には愛宕神社の祠が建っていて、近くには桂川の渡船川があって、それらの利用客を相手にする茶店があったとか。それが愛宕茶屋。
イチョウの木に守られるかのように戊辰役東軍戦死者埋骨地と記された碑が木の下に建っています。
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整備されておらず、ここに歴史ありということを一番感じられた所でした。
そしてここで今回は終了。残りは次回に。
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by eri-seiran | 2009-05-13 11:19 |  ゆかりの地 | Comments(0)

山南と共に歩く板橋宿

4月27~28日の1泊2日で江戸に行けると決まってから、28日は3月の山南と共に歩く傳通院から板橋の続きだと決めていました。
しかし江戸に行くため、また1泊2日するため、仕事において体力的に無理したこと、また前日の俳優祭で体力を使い果たしたため、さあ~山南と共に板橋から京に向って中山道を歩くぞ!というエネルギーが体力的にも精神的にも残っておらず、28日は朝から宿でどうしようか?と悩んでいました。新宿に泊っていたので、新宿辺りを散策するのもいいな~と思ったのですが、ここは自分を奮い立たせ、いざ板橋へ。

JR板橋駅を降りると、約1ヶ月前とは違う風景。駅前のあちらこちらに新選組の文字。
一番に目に入って来たのがこれです。
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5月24日の日曜日だそうで、毎年、行われているようです。
詳しいことはこちらより

前回の最終地点だった寿徳寺境外墓地、約1ヶ月前は桜の咲き始めでしたが、桜に代わりつつじがきれいに咲いていました。1ヶ月の間に季節が移り変わっていることを実感しました。
ここから旧中山道に入り、京に向かって歩きます。今回、下準備をあまりしていなかったので、よくわかっていな状態で、歩き始めた辺りは史跡もないし、あまり幕末も感じられないし、やっぱり歩く気力もないし、JR板橋駅まで引き返して新宿に帰ろうかな~という気持ちもあったのですが、ちょっと頑張って歩いていたら思ったんです。山南敬助ら試衛館のメンバーは、傳通院から京まで15日間かけて歩いたわけです。仲の良い少人数の友達同士だけで歩いていたわけではないし、歩くペースは決まっていたわけだし、しんどくても休みたい時に休めたわけではないし。しんどい時もあっただろう。けれどそれでも歩かなければならなかったわけで。そんなことを考えたら、自分のしんどさなんってたいしたことないわと思えてきて。単純なのです(笑)。
自分もたいしたことのないしんどさを乗り越えて歩いていると、国道17号線に出ました。そして首都高速中央環状線の下を通ってここより板橋宿です。
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ここからになります。

幕末をちょっと感じられる通りになってきました。この通りの右手側は加賀藩下屋敷跡だったそうで、21万7千坪余りの広さ。坪で言われてもあまりわからないのですが、地図を見ている限りすごい広さです。加賀公園とかありましたが、ちょっとスルー。
今回の一番の目的地である近藤勇が官軍に投降した後に幽閉されていた平尾宿脇本陣跡です。
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板橋地域センターと観明寺の間にある脇道をちょっと入った住宅街にあります。この辺りね。

体がちょっと震えました。近藤勇に関するゆかりの地でこんな気持ちは会津の近藤勇の墓を訪れた時と一緒。この碑の前に立った時、今回、しんどいと思いながらも板橋宿を歩いてやっぱり良かったと思えました。
ここで監禁されている間、どんなことを考えていたのだろう。悔しかっただろう。
文久3年(1863)2月、浪士組として試衛館のメンバーと共に京に向かってこの地を歩いていた時、この地にこのような形で帰ってくるなんって思いもしないわよね。

今回、本当に下準備をしておらず、わずかな資料だけであり、山南と共に中山道を歩けて、板橋宿本陣跡と平尾宿脇本陣跡が確認できたらいいやと思いながら歩いていたら、いたばし観光センターが旧中山道から少し脇道にそれた所にあり、寄りました。そしたら休館日。しかし同じ館内にある板橋地域センターは開いていたので、様々な資料を頂き、また展示物のコーナーも電気をつけてくださり、観ることができました。

そしていたばし観光センターから10分弱ほどの所にある板橋宿本陣跡です。
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この辺りね。

本陣跡から少し京に向かった所にある中宿脇本陣には和宮が14代将軍家茂公へ降嫁する時に宿泊したそうで、石碑がありました。
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そしてこれが石神川に架かる橋です。
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板の橋が架けられていたことが、板橋という地名の由来だそうで、『義経紀』などの文献にその名が登場するので、古くからあったのではないかということです。
山南敬助らも石神川に架かる橋を渡り、京に向かったのです。
板橋という名の由来はこの川に架かる板の橋が・・・と語る人がいるとしたら、それは山南だろう。そして板の橋なんってどこにでもあるではないかと土方あたりが言っていただろう(笑)。

新緑がとてもきれいでした。橋から撮影。
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そしてこの橋から5分弱で縁切榎に辿り着き。

悪縁は切ってくれて、良縁は結んでくれると云われ、江戸時代から板橋宿の名所として知られていたようで、また和宮が降嫁の時には縁起が悪いと言って、迂回したそうです。ちなみにこの縁切榎は3代目とか。
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縁切榎までは頑張って歩こうと決めていまして、明日からの仕事を考えて、今回はここまでにすることにし、最寄りの駅であった都営三田線板橋本町駅から巣鴨駅、そしてJRに乗り換えて、新宿駅まで戻りました。
初めはモチベーションが低かったわけですが、歩き終わるととても楽しく、充実した江戸での2日目となりました。
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by eri-seiran | 2009-05-05 14:35 |  ゆかりの地 | Comments(4)

山南と共に歩く春の大坂

浪士組として上方に来てからの山南敬助のキーポイントなる場所は京ではなく大坂であり、だから大坂のゆかりの地を歩くのはとても楽しいんです。好きなんです。
大坂のゆかりの地を歩いた主なレポはこちらとか、こちら
今回は文久3年(1863)6月3日に相撲力士との乱闘事件を起こした北新地の住吉楼跡と壬生浪士組の大坂での活動拠点であり、家里次雄が切腹させられたという町会所があったと云われている常安橋を訪れました。
大坂にての山南敬助ゆかりの地のほとんどが御堂筋より東にあり、これらは西なものですから、スルーしていました。これで大阪のゆかりの地はほぼ制覇したと思います。

まずはJR大阪駅から御堂筋を南に下っていき、堂島川に架かる大江橋100~200m手前の西側にある銀行の角にこの碑があります。
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舟に乗って夕涼みをしていたのは山南敬助、芹沢鴨、沖田総司、永倉新八ら8名だったとか。そのうちの斎藤一が腹痛を起こしたために下船して住吉楼に向かいました。その途中、大川の支流であった蜆川の所で大坂の相撲力士が道を譲らないとかでトラブルになり、壬生浪士組が力士を殴打したとかいう場所です。そして山南敬助らは住吉楼に向かいました。

蜆橋の碑がある所から来た道を戻って最初の筋を西に少し行った辺りが住吉楼跡。
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京で言えば木屋町通とか西木屋町通といった感じの所です。
蜆川跡からとても近かったです。

今度は常安橋を求めて歩き出しましたが、これが思っていたより遠かったです。
まずは南に下りました。中之島ガーデンブリッジを渡って堂島川を越え、土佐堀川に沿って西に向かって歩きました。
ビルに挟まれた土佐堀川です。
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この川の先には第14代将軍家茂公を出迎えた、そして鳥羽・伏見の戦いに敗れて江戸に帰るために船乗した天保山があります。
と言うわけで天保山に向って歩き、肥後橋、筑前橋を越えるとなにわ通の土佐堀川に架かる常安橋です。
壬生浪士組の活動拠点であり、家里次雄が切腹させられた町会所があったとはちょっと感じにくい橋に周辺でした。
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by eri-seiran | 2009-04-16 20:50 |  ゆかりの地 | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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