カテゴリ: 同志たち( 35 )

総司と白河

今日の5月30日は旧暦(太陰太陽暦)での沖田総司が亡くなった日です。現代の暦で考えると7月19日。慶応4年(1868)のことです。
享年27。

山南敬助の死から約3年3ヶ月。
沖田氏縁者の死から約1年1ヶ月。
沖田氏縁者が亡くなったのが旧暦では慶応3年(1867)4月26日。これを現代の暦で考えると5月29日。あら昨日だったんだわ。

総司の父親は白河藩士であり、総司は白河藩江戸下屋敷にて生まれたと云われています。と言うことで、総司は白河藩の出身。

その総司が江戸で最期を迎える前後、総司より2歳年下の山口二郎(斎藤一)が宇都宮での戦で負傷した土方歳三に代わって隊長となった新選組は、総司の出身である白河で戦っていました。
不思議な縁ですね。
[PR]
by eri-seiran | 2009-05-30 07:17 |  同志たち | Comments(0)

こういったパターン

先月の25日は俳優祭のことで頭が一杯ですっかり忘れていたんです。近藤勇の命日を記事にすること。
そこで現代の暦で考えた場合の時に記事にしようと思っていました。現代で考えると5月17日。
そうなんです。またもや忘れてしまったのです。旧暦(太陰太陽暦)で考えた場合の左之助の命日だったものですから。そちらの方に気が取られて。そうか、そうだったのか。こういったパターン結構あるんです。

山南敬助の命日を新暦(太陽暦)で考えると3月20日。島田魁の命日が太陽暦での3月20日。
井上源三郎の命日が旧暦(太陰太陽暦)では1月5日。永倉新八の命日が太陽暦での1月5日。
そして近藤勇の命日が新暦(太陽暦)で考えると5月17日。原田左之助の命日が旧暦(太陰太陽暦)で5月17日。

なんかあるのかな。
[PR]
by eri-seiran | 2009-05-19 20:54 |  同志たち | Comments(0)

左之助の命日

今日は原田左之助の命日です。

慶応4年(1868)5月17日
享年29

慶応4年5月17日は、現在で考えると7月6日だったそうで、暑い時季だったんですね。
永倉新八と共に新選組を離れて靖共隊に入り、その後に新八とも別れ、彰義隊の一隊士として上野戦争に参戦し、銃弾を受けて息を引き取ったと云われています。
新八も、また土方歳三と共に箱館まで付いて行った島田魁も横倉甚五郎も左之助の死については記録し、そして土佐出身の方で大正になってからでありますが、左之助の戦士の状況について詳しく書いています。
それから『新選組物語』(子母澤寛/中公文庫)によると、同じように江戸にて新選組を離れた岸島芳太郎が原田左之助の最期を妻のまさに知らせ、戒名も伝えたとか。

でも大陸に渡り、馬賊になったという説も。
史料的には上野戦争で亡くなったという説の方が高いですが、馬賊として生きたと思いたいのです。そんな男が一人くらいいたっていいじゃない。そんな夢を見てもいいじゃない。
そうだったら、何歳まで生きたんだろう。
しかし新選組・原田左之助(すでに新選組を離れていますが)としての命日は慶応4年5月17日に変わりはない。
[PR]
by eri-seiran | 2009-05-17 17:22 |  同志たち | Comments(0)

土方歳三&新選組月間

5月11日は旧暦(太陰太陽暦)での土方歳三の命日です。新暦(太陽暦)では6月20日です。

明治2年(1869)のこと。今年は没後140年になるそうです。
先週末にはひの新選組まつり が開催されたそうです。
今週末には函館五稜郭祭が開催される予定だそうです。やっぱり函館行きたいな。

そして土方の命日に合わせてなのか、2日後の5月13日、NHK総合の歴史秘話ヒストリアにて新選組 京都青春録~素顔の沖田・土方・近藤~が放送予定。22時からです。
この番組はきちんと観たことがないのですが、どんな感じなんだろう。

山南の名前は登場しないものの、予告の音楽に桜の映像に涙。
早速予約録画しておこう。
今月は土方歳三&新選組月間だ。
[PR]
by eri-seiran | 2009-05-11 20:34 |  同志たち | Comments(2)

源さんと新八さんの命日

今年は土方歳三の没後140年だそうで、と言うことは山南敬助の場合、没後144年になります。
土方歳三の没後140年記念だからというわけではないのですが、平成21年(2009)は試衛館のメンバーの命日についてはきちんと記事にしようと、昨年から思っていました。
しかし気がつけば、もうすでに二人の命日が終わっているではないですか。

多摩出身の新選組隊士・横倉甚五郎の日記によれば、源さんが亡くなったのは慶応4年(1868)1月5日。新暦で考えると1月29日になります。
永倉新八が亡くなったのはそれから47年後の大正4年(1915)の1月5日。

1月5日と言えば、私が正月の京を楽しんだ日。楽しい一日だったものですから。ごめんね、源さんに新八さん。
そう言えば、あの日に見つけた幕末新選組ピンズパート3において、源さんと新八さんはペアだったな。

井上源三郎 享年40
永倉新八  享年77 

です。
それから横倉甚五郎の日記によると、山崎烝も源さんと同じ日に亡くなったと記されています。しかし山崎については江戸に向かう船中で亡くなったという説もあり。

さて試衛館のメンバーで次に命日がやってくるのは山南敬助であり、2月23日でございます。
これは忘れないだろう。
[PR]
by eri-seiran | 2009-01-09 21:36 |  同志たち | Comments(0)

源さん

現代の源さんこと小林隆さんのサイトを訪問したら、こんなことを教えてもらいました。
幕末の源さんこと井上源三郎さんの140回忌を記念してCDが制作されたとのことです。
発売は9月のこと。知らなかったわ。
知らないまま、山南忌に参加することにならなくて良かった(汗)。
タイトルは『義』。源さんの子孫で、現在、井上源三郎資料館館長の井上雅雄氏が作詞されたとのこと。

義(井上源三郎最期の鳥羽伏見の戦い)
砂の舟(源さんの恋唄)

の2曲。
CDの詳しいことについては、井上源三郎資料館のサイトより

色々なことがわかったり、できたりして、子孫がいるっていいな(涙)。

小林さんのサイトではもうひとつ、嬉しい報告。
副長こと耕史君から、「今年もやりますよ」と、メールが届いたとのこと。
『組!』ファンならわかる「今年もやりますよ」の意味。

そして小林さん、書いています。
CDを聴いて、涙が出たと。
源さんこと小林さんの日記を読んで、私も涙が出そうです。
[PR]
by eri-seiran | 2008-12-08 22:30 |  同志たち | Comments(4)

家里次郎

予約録画していた陽炎の辻2~居眠り磐音 江戸草紙~の第3回の『心残り』を夕方に観て、観終わってから、この回に登場する香具師の長太郎を演じていたのが、『新選組!』で家里次郎(いえざとつぐお)を演じていたかなやす慶行さんだったと知りました。
それで史実では、壬生浪士組によって切腹させられたと云われている家里次郎は、『組!』ではどうだったかしら?と思い出せなくて、DVDを確認したところ、特にそれについては取り上げていないので、根岸友山@奥村公廷らと一緒に壬生浪士組を抜けたことになっているんですよね?第17回の『はじまりの死』殿内義雄@生瀬勝久が芹沢鴨@佐藤浩市に斬られて、それで粕谷新五郎@伊吹五郎や根岸らが浪士組を抜けさせてもらうと言って出て行くシーンのところで家里がいるのか、どうなのか分からない私(汗)。

そして、史実の家里次郎についてあまりよくわかっていないよな~私と気づき、ちょっと調べてみました。
伊勢松坂の出身で、天保10年(1839)の生まれ。山南敬助より6歳年下。永倉新八と同年齢。
江戸にて浪士組に参加。江戸に帰らず、山南らと京に残った残留組の一人。
残留組、つまり初期の壬生浪士組は近藤派と芹沢派、そして殿内・家里派があって、この殿内・家里は浪士取扱の鵜殿鳩翁(うどのうきゅう)から残留浪士のとりまとめを託されたと云われています。
しかし芹沢派に近藤派、そしてそれ以外の殿内・家里派に分裂してしまう。そんな状況の中で3月25日、殿内義雄は四条の橋で殺害された。殺害したのはどなたか、史実ではわかりませんが。
そして殿内が殺害される前後、家里も屯所から姿を消しています。
殿内と何か打ち合わせができていて二人とも屯所を出ていくことになっていたのか、殿内が殺害されたから、出て行ったのか。
しかし4月24日、14代将軍家茂公の警護のために大坂に来ていた壬生浪士組と偶然に出逢ってしまったようで、大坂にて切腹させられたそうです。
享年25。
家里と壬生浪士組が出逢い、家里が切腹した時、その場に山南敬助がいたかはわかりませんが、大坂に山南が来ていた記録はあり。
[PR]
by eri-seiran | 2008-09-30 20:07 |  同志たち | Comments(2)

半世紀後

ブログを始めてから、来月で丸3年になります。その間、山南敬助の命日は旧暦でも新暦でも記事にしていて、山南の次に好きな土方歳三も旧暦か、新暦で記事にしている、沖田総司はしていない年もあったかもと思っていたのですが、土方歳三の方が記事として挙げていない年がありました。総司は毎年、記事として挙げていました。
そしてこの方も毎年、記事として挙げているんですね、私。
山南敬助の次が土方歳三で、その次にこの人が好きなんだと思う。そう言えば、この人に関する本をガツガツ読んでいた時期もあったな~

9月28日の今日は斎藤一の命日です。

大正4年(1915年)9月28日のこと。

享年72だったそうです。

山南の死からちょうど半世紀後のこと。と言うことは、山南が亡くなった時、斎藤一は22歳だったんだ。若いわ。この後も多くの修羅場を踏むんですからね。そして試衛館の中で最後まで土方歳三について北上し、土方が不在の時はこの人が新選組を率いていたんですからね。会津を見捨てるのは誠の義にあらずと言って会津の残留を決めたと云われている斎藤。如来堂の戦い、敗北による過酷な生活、西南戦争への出征・・・
山南の死から幕末・明治・大正という半世紀を生きた斎藤一。
やっぱり魅かれるものがこの方にはあります。
[PR]
by eri-seiran | 2008-09-28 22:32 |  同志たち | Comments(4)

島田魁

山南敬助 赤心記のゆかりの人々をアップしました。
今までの近藤に土方に総司に源三郎の試衛館のコーナーもリニューアルし、新選組のコーナーとして、河合耆三郎、島田魁、新見錦、松原忠司をアップしました。
新見とまっちゃんこと松原を今月になって記事で挙げましたので、それを編集してこちらでもアップしておこうと思い、しかし二人では寂しいな~と言うことで、まっちゃんを書いたら、河合について書きたくなり、もう一人だれかと思ったら、島田魁になりました。

でもこんなにして書いていたら、いつになったら全員書けるんだろう。新選組のメンバーについては山南敬助が生存していた時までに居た主な隊士にしようと思っているんですけれど、それでも芹沢鴨・平山五郎・平間重助・野口健司・尾形俊太郎・尾関雅次郎・山崎烝・浅野薫・大石鍬次郎・伊東甲子太郎・武田観柳斎・谷三兄弟などなど。それから阿比鋭三郎や佐伯又三郎など壬生浪士組結成当時のメンバーも入るし。
それよりも先に、永倉新八・原田左之介・斎藤一・藤堂平助という残りの試衛館のメンバーについて書きなさいよ(汗)。

島田魁を書くにあたり、書籍を読んでいたら、私、勘違いをしていまして、島田は箱館戦争が終わった後に結婚したと思っていたら、結婚したのは新選組で京に居た時ではないですか。正式には慶応元年(1865)8月15日とか。山南敬助が亡くなって、約半年後のこと。長男(魁次郎)が生まれたのが慶応2年(1866)3月。ということは8月15日以前より一緒に暮らしていたということ。
そうだったのか(汗)。
そして長男が生まれた翌月に島田は隠居し、長男に家督を相続させたとのこと。そうだったのか(汗)。
『新選組銘々伝(一)』(新人物往来社編)にて島田魁について書かれている菊池明氏は、

これは魁が新選組隊士として命を的に働いたことを示す一方、自分の死後に魁次郎が隊士としての地位を、問題なく引き継ぐための措置でもあった。

と、書かれています。
なるほど、なるほど、そうだったのか。

箱館戦争後、謹慎生活を数年間送り、解かれた後、京で暮らし、そんな時、明治政府に仕えていた友人から、「東京に出てきて、新政府で働かないか?」と言われ、「地下で眠っている友人たちはどうするんだ」と断り続けた。
また京に来た榎本武揚が「会いたいので、宿までお越し願いたい」と宿より使いをよこした時には断り、そして「会いに行ったらどうですか」と言った息子に、「会いたければ、先方より出向くのが礼儀。行く必要はない。」と。
このような島田の逸話には涙です。

近藤や土方たち、また散っていった隊士たちを弔うために念仏は欠かさなかったという話しもあります。早々と隠居した理由と思われることなどから、近藤や土方、そして新選組がとても好きだったんだよねということが感じられます。
散っていた隊士たちの中に山南敬助も入りますよね。また地下で眠っている友人たちの中に山南敬助も入りますよね。
そして新選組における山南敬助の最期についてのすべてを知っていたんだよね。
謹慎中に書いた『島田魁日記』に山南敬助の最期は書くほどのものでなかったのか、それとも書けなかったのか。
ともあれ、只今、島田魁に対するラヴ度が上昇中でございます(笑)。
[PR]
by eri-seiran | 2008-09-16 22:48 |  同志たち | Comments(0)

新見錦(田中伊織)

今日は新見錦の旧暦での命日。文久3年(1863)9月13日。新暦では10月25日になるそうです。
しかし壬生寺や光縁寺の墓石に新見錦の名前が彫られたものはなく、壬生寺にある阿比留鋭三郎や野口健司、また葛山武八郎の共同墓碑に田中伊織という名前があり、この人が初期の新選組の記録に名前がないこと、新見錦が芹澤鴨より幾日か早く亡くなっていることから、この田中伊織が新見錦であろうと云われているのです。

享年28

私、新見は山南敬助より年上というイメージが消えなくて、多分に山南や土方を差し置いて、局長級であった時期があるとかが原因かと思うのですが・・・
生まれは山南より3歳年下、天保7年(1836)生まれだそうです。

新見錦の新見は一般的にはにいみと読まれていますが、しんみという読み方もあるようです。山南についてはこういう理由からさんなんという読み方の説があると説明できますが、しんみについては説明できません。にいみにしきと読めば、ローマ字で書くと、すべてⅰ音であり、響きがいいなと思うのです。山南のやまなみさんなんも響きがいいですけれどね(笑)。出身は水戸で、剣術は神道無念流だそうです。
そして局長であったとか、後に副長になったとか云われています。

山南敬助が確かに表舞台に立っていたという当時の記録は、文久3年(1863)6月2日に下坂した時のものです。ただ同じ年の8月18日の禁門の政変には出動したのではないかと思われます。またその後に起きた芹澤鴨の暗殺者の一人だという説もありますが、確かではない。
新見錦の場合、同じ文久3年4月2日に多摩の井上松五郎が大坂の八軒屋で会ったメンバーの一人に新見錦を上げており、また同日、大坂の平野屋への借用書に新見錦の名前がありますが、それ以後については定かではない。8月18日の禁門の政変については、永倉新八は『新撰組顛末記』では新見錦も幹部の一人として参加したと語っていますが、『浪士文久報国記事』では、新見錦の名前を挙げていません。

そして突然の死。
在京中であった水戸人の旅宿で狼藉を働いたので、同じく水戸人の介錯で切腹したとか、近藤らによって祗園の山緒で切腹したとか。

理由、誰がその場にいたかということはともあれ、切腹であったのは間違いないんでしょうね。切腹ですって。突然の切腹。同じですよ。
そして同じように、いや山南以上に謎の方ですわ。
[PR]
by eri-seiran | 2008-09-13 16:55 |  同志たち | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


by eri-seiran
プロフィールを見る
画像一覧