カテゴリ:新選組( 22 )

近藤勇らが訪れた国泰寺跡

山南敬助が亡くなった後の出来事ではありますが、幕府は対する長州に詰問使を派遣することになり、その代表が大目付の永井尚志でした。そしてそれに新選組も随行することになりました。
慶応元年(1865)11月のこと。新選組からは近藤勇、伊東甲子太郎、武田観柳斎、尾形俊太郎、山崎烝、吉村貫一郎、芦屋昇、新井唯雄、服部武雄です。
11月7日に大坂を出立して、16日に広島入り、20日に長州藩との会談を持ったのがここです。
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広島城下の国泰寺跡です。
広島城より約1キロほどの所。
国泰寺は毛利家の時代に安国寺として創建され、その後に広島城主になった福島正則が国泰寺に改称し、福島の後に城主となった浅野家の菩提寺となりました。

広島に行くことになり、広島には近藤らが行っているから新選組ゆかりの地があるはずと思い、新選組史跡辞典 西日本編(新人物往来社)で調べたら、唯一、ここが載っていました。
ぜひとも行かなければと思い、場所のチェックをしたら、宿の近くではないですか。
と言うことで朝食前の散歩中に訪れました。
都会の真ん中にこのような緑の地や史跡があるとほっとします。
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国泰寺の愛宕池跡です。

ここは原爆投下地よりとても近く、そのために全壊したそうです。
現在、国泰寺は西区に移転しており、この庭園跡だけがこの中区中町7-6に残っているのです。

さて長州藩との会談はうまくいかず、一度、京に帰ってから、翌年の1月に老中の小笠原長行を代表として、新選組は近藤に伊東、尾形、そして篠原泰之進が随行しましたが、これも失敗。
しかし長州藩との交渉失敗だけに終わらず、新選組にも亀裂が生じ始めたのでした。近藤・尾形組と伊東・篠原組に分かれ、現地では別々の行動を取ることが多くなったとか。広島から京に帰るのも別々だったとか。どうもこの時から油小路の変は始まっていたようです。
山南敬助が生きていたら、山南敬助が心身ともに元気であれば、山南敬助の考え方が近藤と土方と同じであれば、尾形ではなく、山南が広島に行っていたかもしれないな。
そして勘定方の河合耆三郎が切腹したのは近藤が広島出張2回目の時のことでした。
なんか大変なことが色々とあった2回目の広島出張だったんだな。
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by eri-seiran | 2009-09-15 08:56 | 新選組 | Comments(0)

壬生寺にて語られた『燃えよ剣』

金曜日に地獄からはなんとか脱出しました。
というわけで、昨日は完全なお休みで、第三回山南忌以来、壬生に行って参りました。第三回山南忌の詳しいレポは記事にできないままここまで来ちゃったな。もう今更できません(苦笑)。

昨日は山南敬助の墓参りが目的でなく、と言うか墓参りの方はスルーしてしまいました。ごめんなさい。昨日の目的は、

朗読活劇Recita Calde
~覚えていてほしい、こんな男達がいたことを~
司馬遼太郎が描いた日本のヒーローたち
『燃えよ剣』


です。
場所は約146年前に山南敬助も土方歳三も沖田総司も近藤勇も足を踏み入れたことはほぼ間違いない壬生寺にてです。
そして語り手は来年の大河ドラマ『龍馬伝』で新選組とは対する沢村惣之丞を演じる要潤さん。沢村惣之丞とは坂本龍馬と共に土佐を脱藩し、神戸の軍艦操練所、亀山社中、海援隊というように龍馬と共に行動した方です。龍馬暗殺の下手人とされた紀州藩士の三浦休太郎を海援隊の同志など16名が襲撃した天満屋事件というものがあり、この時に三浦の警護に当たっていたのが山口次郎(斎藤一)の新選組十数名であり、襲撃したメンバーに沢村惣之丞もいたそうです。
音楽は沖仁さん。歌が高岸弘樹さん。

17時半からの開場、18時からの開演だったのですが、早めに壬生に行き、今回、どうしても寄りたかったカフェに入り、かなり遅めの昼食、兼早めの夕食を取り、17時過ぎに山南敬助が眠る光縁寺から旧前川邸へのいつもの一本道を通って壬生寺に行きました。坊城通(山南と明里が最後の別れをした格子窓があったと言われた通りね)に出ると人、人、人でした。
今まで節分で賑わう、また山南敬助&新選組ファンでちょっと賑わう壬生は経験したことはありますが、こんな賑わいは初めて。多分に要潤さんのファンが多かっただろうと思います。始めるまでにせっかくだから新選組ゆかりの地を巡ろうと思った方もいらっしゃったでしょう。八木邸は賑やかでした。しかし光縁寺の前は静かでしたよ(苦笑)。
私、チケットが届いた時、席の番号を見て、これは山南忌の記念行事が行なわれた壬生会館の2階の会場ならばどのあたりになるの?いや壬生狂言が行なわれた会場か?それならばどこになるの?と考えていたのですが、違いました。壬生寺の本堂の前の特設会場だったのです。沖田総司が近所の子どもたちと遊んだと思われるところに折りたたみイスがぎっしり並べられたというわけです。
だからかなりの人が入れるわけですが、行ったことがある人はわかると思いますが、壬生寺の前のあの狭い坊城通に開場を待つ人で溢れ返りました。スタッフの人が「最後尾に並んでください」「車が通ります」「端に寄ってください」とそりゃ大変そうでした。146年前の2月23日、江戸からやって来た浪士組約300人もこの通りであふれていたのだろう。壬生の人たちも驚き、大変だっただろう。
私、もしかして山南と同じことを経験したのかしら(笑)。
そんな状態だったので入場するのにかなり時間を要しました。後、壬生寺の外にいるスタッフが少ないなと。山南忌では要所で立っていたりして、だから山南忌より少なかったです。

本編についてはこちらより
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by eri-seiran | 2009-07-19 10:53 | 新選組 | Comments(4)

三浦啓之助と共に脱走した芦屋昇

24日に記事にしたBS2での新選組ナイト。12月11日と18日の放映時間に変更があったようです。どちらも24時から~24時44分まで。通常の39分が5分延長して44分までになったそうです。内容が濃くてまとめきれないのかしら。

ところでこのサイトにて語ってほしい隊士のアンケートがやっていて、自分も送ったと書きました。
挙っている18名の隊士から3名を選んで送ることになっており、近藤勇・土方歳三・沖田総司の3人は取り上げられる予定ということで18名には入っていません。
その18名なんですが、3人を除いた試衛館派は6人全員。山南敬助は取り上げられる予定には入っていないけれど、18名の中でトップだから許そう(笑)。
御陵衛士は試衛館派に入れた斎藤一と藤堂平助を除いて、伊東甲子太郎ら4人。他に谷三兄弟の長男である三十郎、勘定方の河合に親切者のまっちゃん、我らが監察方の山崎に、同じく諸士取調兼観察で奥州出身で北辰一刀流だったと云われている吉村貫一郎、さらに文学師範であり、近藤勇の江戸や広島行きに同行した尾形俊太郎に武田観柳斎。
という具合に簡単にどういう方かとわかるのですが、一人だけこの人は誰?初めて見る名前だという方がありました。それは、

芦屋昇

と言う方。
新選組大事典 コンパクト版にて調べてみましたが、約60字ほどしか書かれていない。

生没年:不詳
出身:肥後
入隊時期:慶応元年(1865)5月頃入隊
役職:諸士取調役兼監察
慶応2年か3年に三浦啓之助とともに脱走。

とのことです。
そして他の書物で調べたところ、近藤の広島行きにも同行しているようです。

さて一緒に脱走した三浦啓之助とは、佐久間象山の次男。義母が勝海舟の妹ということで、勝海舟は血はつながっていないものの伯父になる。本名は佐久間恪二郎。佐久間象山が暗殺された後、新選組に入隊。
三浦啓之助についてはどうもあまり素行が良くなかったらしい。そんな三浦は芦屋昇と脱走。この脱走について新選組は黙認しているようである。
脱走について緩くなった時期的なものか。素行が良くなかったから出て行ってほしかったのか。佐久間象山の息子、勝海舟の甥だから見逃したのか。

話しがずれましたが、とにかく情報の少ない芦屋昇の名前が挙がっており、となると、この方について知りたい、語ってほしいと思ったりしています。
何故に芹澤鴨や新見錦、また島田魁ではなく、この方の名前が挙がっているのだろうか。
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by eri-seiran | 2008-11-27 11:03 | 新選組 | Comments(0)

新選組ナイト

当ブログを通じて知り合い、山南敬助について熱心に調べている方から教えてもらいました。
12月に新選組ナイトがあるんですって。

12月11日(木)
12月18日(木)

両日とも24時~24時39分  通常より5分延長の44分までに変更になったそうです。 
BS2にて


BS熱中夜話って観たことがないんですけれど、MCは菜葉隊士の小松こと大木びびるさんに、お琴さんこと田丸麻紀さんではないですか。

アンケート。番組で語ってほしい隊士3人について送ってみました。もちろん一人は山南敬助。後の二人は試衛館の中で一番若かった方にしました。ちょうどこの二人に関心が高くて。
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by eri-seiran | 2008-11-24 15:01 | 新選組 | Comments(0)

こなくそに天保6年生まれ

昨夜の大河ドラマ『篤姫』では、こなくそ天保6年生まれがキーポイントだったりします。あくまでも自分にとって。

坂本龍馬@玉木宏が刺客に襲われた時、「こなくそ」という言葉を刺客が発したのを聞いて、「出た!」と思わず、心の中で叫んじゃいましたよ。

「こなくそ」とはどういうことかと申しますと、刺客の一人が「こなくそ」と言ったと、襲われて2日後に亡くなった中岡慎太郎が証言したそうなのです。
「こなくそ」とは、新選組の原田左之助の出身地の方言らしい。
また現場に新選組が出入りしていた料亭・瓢亭の下駄が残されていたり、左之助の鞘だというものが残されていたとか。
そんなことから、当時は坂本竜馬・中岡慎太郎暗殺事件の犯人は新選組で、実行犯は原田左之助が有力だったようですが、後の証言などから現代では京都見廻組が有力になっているようです。
『篤姫』では、昨日の流れを観ていると、犯人は薩摩説?とも思ったり。
また新選組も見廻組も『篤姫』には登場していないこともあって、犯人とは考えにくい。

さて『新選組日誌コンパクト版下』によると、坂本龍馬が暗殺されたその日のうちに、刺客は新選組であるという噂が流れたらしい。
中岡慎太郎の証言とか、現場に残されていた証拠品より先に、坂本龍馬と中岡慎太郎を襲ったのは新選組だと決めつけられていたような気がします。
新選組説に異議を唱えるひとつに証拠が揃いすぎているということがあるようですが、私もそう思うのです。
いくつもの修羅場を踏んできた左之助ほどの人が、現場に証拠品となるものを残すだろうかと思うのです。

そして天保6年生まれ。
天保6年生まれという言葉は出てこなかったのですが、勝海舟から坂本龍馬が小松帯刀と同じ年の生まれだったと聞いて、天璋院がそれならば自分とも同じ年の生まれと気付くわけです。坂本龍馬も小松帯刀も天璋院も天保6年生まれなのです。それから他に松平容保公とか高橋泥舟とかいまして、そして忘れてはならない人がいる。だから天璋院に向かってもう一人いるんですよと心の中で叫ぶ私。
そうです。新選組副長・土方歳三。
『篤姫』では登場していませんが、義を通すために幕府のために戦っている天保6年生まれの男がいるんですよ(涙)。
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by eri-seiran | 2008-11-03 11:40 | 新選組 | Comments(2)

家茂公の死

大河ドラマ『篤姫』の第42回の『息子の死』にての徳川家茂@松田翔太の最期は、『篤姫』の他の方の最期の描き方の中では良かったな。井伊直弼@中村梅雀は良かったけれど、他については徳川家定@堺雅雅人初め、私的には消化不良だったりします。これは『新選組!』を観ているからこそ、そう思うんだろうな。反対に『新選組!』での一人ひとりの最期の描き方をいかに大切にしていたかということを改めて感じました。

さて試衛館のメンバーは家茂公が上洛するから、警護のために京に行くことになり、そして新選組が誕生したわけで。だから試衛館のメンバーの人生に大きな影響を与えた第14代将軍家茂公であり、その人の死だったわけです。試衛館のメンバーが浪士組として京に着いてから約3年5ヶ月、山南敬助の死から約1年5ヶ月の慶応2年(1866)7月20日に大坂にてご逝去。享年21。若かったんだな~と今回の『篤姫』にて知りました。
篠田達明氏の『徳川将軍家 十五代のカルテ』(新潮社)によりますと、死因は脚気衝心。これは第13代将軍家定公と同じ。
脚気はビタミンB1の欠乏によって起こるらしく、この年の夏はとりわけ暑さが厳しく、ビタミンB1の消耗も激しかっただろうとのこと。新選組の嘱託ドクターと言える江戸医学所の松本良順も家茂公に四六時中付き添っていたそうです。

新選組のメンバーは家茂公の死を知った時にやはりショックだっただろうな。情勢を考えても、幕府はこれからどうなるのだろうと不安だっただろう。
その新選組の十番隊組長であり、試衛館のメンバーだった原田左之助は長男に茂という名前をつけています。まさと祝言を挙げたのが慶応2年3月の頃。だから家茂公が亡くなる前。そして長男の茂が生まれたのが、同じ年の暮れ(翌年という説もあり)。だから家茂公が亡くなった後。茂という字は家茂公の茂と同じ。左之助は息子を立派な武士にしてやるぞと言ったそうです。
ところで大河ドラマ『新選組!』では、第44回で慶応3年(1868)12月の出来事として、原田左之助@山本太郎がまさ@はしのえみのお腹の赤ちゃんが生まれてきて男の子だったら、茂と名付けるように言います。
ここでは史実をアレンジしていました。史実では長男の茂は生まれており、この頃、1歳ほど。史実では2人目の子どもがまさのお腹にいた時期です。まさは左之助と最期の別れから一ヶ月も経たないうちに二男を生みましたが、数日後に早世。左之助は二男には会えず。

話しがずれてきましたが、徳川家茂公の死は新選組にとって、大奥の人たち同様に衝撃だっただろうというわけです。
そんなことを考えながら、第42回を観ていました。そして家茂公@松田翔太の江戸に帰りたいという台詞を聞きながら、山南敬助も江戸に一度帰りたいという思いがあったのだろうかなんって考えたり。
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by eri-seiran | 2008-10-21 09:39 | 新選組 | Comments(0)

会津まつり

22日(月)の今日から24日(水)までの3日間、会津まつりだそうです。
明日は会津藩公行列ですって。
21日には斎藤一忌が行われたんですって。

今日、ある写真を探していたら、3年前に行った会津まつりの写真が出てきて、そう言えばそういう時期だな~と思ったりしていたところでした。
3年前の藩公行列の日は暑かった。でも楽しかった。食べ物が美味しかった。人が温かかった。
3年前の会津藩公行列には、我らが『新選組!』の土方副長に近藤(谷)周平に浅野薫が特別参加しておりましたが、今年は辰巳琢郎さんですって。辰巳琢郎さんと言えば、大河ドラマ『篤姫』で堀田正睦を演じておりました。今回はその関係ではないですけれどね。

あ~行きたい。行きたいです。会津へ、そして仙台へ。
来年はこの時期に夏休みを取って、会津藩・仙台藩・米沢藩など奥羽州巡りをしようかな。
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by eri-seiran | 2008-09-22 22:45 | 新選組 | Comments(4)

『新選組!』の第3回

明日の大河ドラマ『篤姫』の第32回は、大河ドラマ『新選組!』では、第4回にあたります。やっと第4回に辿り着くわ。第4回と言えば、山南敬助@堺雅人が近藤勇@香取慎吾や土方歳三@山本耕史ら元々の試衛館のメンバーと出会う回であります。
と言うことで、それまでの『組!』を復習しておこうと思いまして、第2回、第3回を観ました。
『組!』での第3回は、確か、安政5年(1858)の話だったと思ってはいたのですが、これが安政5年8月14日の出来事を描いているではないですか。
第13代将軍徳川家定公の発喪があったのが安政5年8月8日なので、8月14日はそれから6日後です。そうか、家定公の発喪から6日後だったのか。
政治の話をしていた橋本左内@山内圭哉も坂本龍馬@江口洋介も、そして近藤も、家定公が身罷れたことには触れてれていないわ。

自分、幕末ファンと言いながら、今回、『篤姫』を観るにあたり、また観て、1850年代について勉強をさせてもらい、改めて知ったことが多々あります。4年前より確実に幕末についての知識も増えました。
そんな自分が改めて『組!』を観ると、新たな発見があったり、また新たに思うところもあり、面白いなと思いました。

『組!』の第3回は近藤勇や土方歳三が武士になりたいと思う回です。
彼らは武士になりたいという素直な気持ちがあったわけですが、自分たちの気付かないところで幕末という渦の中に自分たちから巻き込まれていったんだんなと思いながら観た第3回でした。
もちろん、山南敬助もね。
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by eri-seiran | 2008-08-09 23:09 | 新選組 | Comments(4)

天保山から船に乗った新選組

記録に残っている江戸・多摩における山南敬助ゆかりの地は制覇し、同じ所に何度も行ったり、また山南が居た、訪れたと思われる所と所の距離間を知りたくてガツガツと歩いたりしております。
上方における山南敬助ゆかりの地も制覇したものの、新選組ゆかりの地で行けていない所はまだまだあります。しかし関西に住んでいるといつでも行けるという気持ちがあってしまい、これはいかん。
その一つに大坂の天保山があります。
ただ天保山にある海遊館には3回ほど行ったことがあるのですが、連れて行くという立場だったし、新選組にゾッコンはまっている時期ではなかったこともあり、ここが天保山だ!と言うことにはなりませんでした。

文久4年(1864)1月、江戸から船で天保山に着き、上方入りする14代将軍徳川家定公を出迎えた新選組。この時、山南敬助も出迎えたかどうか難しいところですが、私はすでに岩木升屋事件が起きて、山南は静養しており、出迎えることはできなかっただろうと見ております。

鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組は、慶応4年(1868)の1月7日に大坂城に入りました。
そして1月9日、永倉新八らが乗船した順動丸、翌日の10日に近藤勇、土方歳三らが乗った富士山丸が天保山沖を出港し、江戸に向かいました。
将軍を出迎えたのも冬、鳥羽・伏見の戦いに敗れてここから船に乗ったのも冬。
これは冬に行かなければと思っていたので、『ちりとてちん』の撮影見学に行く前に、こちらへ行こうと決めました。まあ~こちらにはいつでも行けるので、期間限定である『ちりとてちん』の撮影見学に一日費やすのも良かったのですが、体力的にしんどいだろうという考えもあり。

有りがたいことに、天保山から大阪湾を周遊してくれる観光船があるのです。そうなんです。冬にこれに乗りたかったのです。
その船の名は富士山丸でもなく、順動丸でもなく、サンタマリア。
詳しいことはこちらより

こんな寒い時期に乗る人がいるのかな~と思いながら、12時発の船に何とか間に合い、乗ったところ、十数名といったところでしょうか。
しかしみなさん純粋な観光、またデートという感じで、新選組に浸っていたのは私だけでしょう。
船が出航し、岸を離れて行く時はなんか本当に淋しい気持ちになり。またとてもとても寒く。しかし彼らはもっともっと寒かったんだろうな~とか、どんなことを思ったんだろうとか、もういろんな事が頭の中を駆け巡りましたよ。
悔しかっただろう。悲しかっただろう。つらかっただろう。原田左之助は落ち着いたら妻子を迎えに来ようと思っただろう。
そして私は山南敬助、藤堂平助、井上源三郎はみんなと一緒に帰れなかったということを実感しちゃいました。あ~つらいよ。浸りすぎ(苦笑)。

さてこちらが乗船したサンタマリアです。
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船から見える現代の景色です。
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昔は遠くに大坂城が見えたのかな?
どんよりした冬雲の切れ間から青空が見えたり。
当時の天気がどうだったかはわかりませんが、彼らの心はこの日の雲のようにどんよりしていただろう。いやそれ以上のものだっただろう。
これは、新選組ゆかりの地めぐりとして、良いですよ。
山南敬助はここから船に乗っていませんが、乗っていないからこそ、感じられるものがありました。山南ファン、新選組ファンの一人としてお勧めします。

船が岸から離れていく時の気持ちは結構きちゃいます。
船は大坂からどんどん離れていくわけではなく、50分間、遊覧するわけで、最終的には出航したところに戻ってくるので、私のようにかなり浸ってしまうと、あれ?帰ってきちゃったとなって、ちょっと拍子抜けしてしまいますが(苦笑)。

山南敬助、及び新選組を十分に堪能してからNHK大坂局に向かったのですが、これが大坂城の大手門のすぐ近く。鳥羽・伏見の戦いに敗れ大坂城に入ったのは慶応4年1月7日。これを新暦で考えると1月31日。私が天保山から船に乗って、大坂城の大手門近くまで来たのは1月31日。あ~つながっていた。
大坂城入りして、そして天保山に向かった新選組。私は天保山から大坂城近くまできたわけで、新選組が辿ったコースとは逆行してここに辿り着いたんだね。
そんなことを思いながら、NHK大坂局に入ったわけですが、その時から今日は自分に運があるような気がなんとなくしていたんです(笑)。
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by eri-seiran | 2008-02-04 12:46 | 新選組 | Comments(2)

蝦夷共和国樹立の日

仕事が大変な状況であり、そんな中でスカパーのチューナーを購入し、自分でセッティングしたために、今まで観られていたチャンネルが観られなくなったり、そのために予約録画に失敗したり、もうめちゃくちゃです(苦笑)。
でも今は歌舞伎チャンネルが観られたら良い。
明日が歌舞伎チャンネル予約録画の本番。孝太郎さん出演の『団子売』(H18年8月の歌舞伎座)の放映。ドキドキです。

そんなわけで、仕事と歌舞伎チャンネルに振り回されている私ですが、ふと新選組全史のカレンダーを見たら、今日は旧暦での蝦夷共和国樹立の日だそうです。明治元年(1868)12月15日、 新暦で考えると翌年の1月27日となります。冬の寒い寒い季節。
仙台から蝦夷地に入った旧幕府軍。松前、江差を攻略した土方歳三。
この日に土方は五稜郭に入り、みんなで蝦夷平定を祝賀したと云われています。
そこには榎本武揚、大鳥圭介、永井尚志らがいたわけです。
そして彼らの蝦夷旧幕軍は蝦夷共和国を作り、外国からひとつの独立国として認められたわけです。

山南敬助の死から4年弱。
近藤勇の死から約8ヶ月。沖田総司の死から約7ヶ月。
斎藤一も会津で別れ、試衛館、また壬生浪士組結成時の同志は誰もいない。
土方歳三、ただひとり。どんな思いだったのだろう?
新選組ファンとしてはもちろんですが、山南敬助が好きな者の視点から、いつか蝦夷地での土方歳三の足跡を辿らなければいけない、辿りたいと思っています。

仕事と歌舞伎チャンネルに振り回されて、『新選組!!土方歳三 最後の一日』の再編集放送の前篇をまだ観ておりません。すみません。
ただこれは、ゆっくりときちんと観たいので、仕事と歌舞伎チャンネルが落ち着いてから観ます。
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by eri-seiran | 2007-12-15 22:14 | 新選組 | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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