カテゴリ: 多摩の人たち( 9 )

現代でも繋がっている山南と多摩

第2回山南忌には多摩からも来て下さり、その翌日、井上源三郎の首が埋められている場所を確認にみなさんで行かれたそうです。
約140年が経って、多摩の子孫の方たちが山南忌に参加され、翌日には源さんの首が埋葬されているという地に行き、そこの土を多摩に持って帰れたそうで。
だから源さんは約140年ぶりに多摩に帰ったのです。

試衛館派のメンバーで山南だけが京に上がってから一度も江戸・多摩には帰っていなかったのですが、昨年の第1回山南忌が行われて、多摩の人たちも来られ、その時に約144年ぶりに山南の魂は一時的に帰れたんだと勝手に思っていました。
だから今回は源さんと一緒に。

多摩の人たちが山南忌のこと、源さんの首が埋葬されている地に行かれたことをレポしてくださっています。例えば土方歳三の子孫の方とか、佐藤彦五郎の子孫の方とか。
それが嬉しくて嬉しくて。

佐藤彦五郎さんの子孫の方の所では、山南の逸話も書いて下さっています。
日野にはよく行っていたんだ。日野でも子どもたちに慕われていたんだ。

過去のエピソードと言い、現代のことと言い、山南が多摩の人たちと親しくしていたことが垣間見られます。
山南と多摩は現代においてもつながっているんです。
[PR]
by eri-seiran | 2008-04-17 07:37 |  多摩の人たち | Comments(0)

山南敬助と多摩

万延二年(1861)
正月十四日 近藤勇、門人沖田惣次郎(沖田総司)ほか一名、および山南啓助(敬助)の総勢四名が来たり泊まる。

十五・十六日
 両日剣術稽古をする。

十七日 近藤ら八王子宿へ出立する。

*以上は『日野宿叢書 第四冊 佐藤彦五郎日記 一』より抜粋。


万延2年(1861)
一月十五日 
多摩の古谷道場で新年の稽古を行う。
三南啓助(山南敬助)が弐本。
土方年蔵(歳三)が弐本。
井上源三郎が一本。

一月十六日
引き続き、稽古を行う。
三男啓介(山南敬助)が一本。
近藤勇が一本。          


文久元年(1861) *万延2年は1861年2月19日に文久元年に改元されている。
八月二十七日 
六所宮(府中の大國魂神社)にて、近藤勇の四代目襲名披露の野試合が行われる。

本陣 総大将 近藤勇
    太鼓  沖田惣司(総司)
    鉦役  井上源三郎

東之方(赤軍)
 後陣玄武 山南啓助(山南敬助)
 旗本衛士 土方歳蔵(土方歳三)

山南敬助は井上一郎と共に、敵方の大将であった佐藤彦五郎を2回戦で打ち取る。

文久2年(1862)
1月19日 山南敬助が、近藤勇、沖田総司と共に小野路村を訪れる。

文久3年(1863
1月17日 山南敬助が沖田総司と共に小野路村の小島鹿之助宅を訪れる。

1月18日 山南敬助が沖田総司と共に小島家を出立する。

*以上は、『新選組日誌 コンパクト版(上)』に書かれてあるものを、山南メインにして要約。


山南敬助が多摩を訪れた記録をちょっとまとめてみたかった、ただそれだけのことなんですけれどね。
佐藤彦五郎日記は、万延2年(1861)2月より元治元年(1864)年の10月まで未確認なので、文久2年1月に小野路村、文久3年に小島鹿之助宅を訪れた前後に日野宿の佐藤彦五郎宅を訪れた可能性は十分にあると思います。特に文久3年の時は、浪士組に参加することになり、京に行く前に挨拶に来たわけです。総司も佐藤彦五郎には世話になっていたことだろう。だから二人で日野宿の佐藤彦五郎宅も訪れただろう。そしてもしかしたら、土方と佐藤彦五郎宅で会ったかもしれない。一緒に宴を楽しんだかもしれない。

現在、山南が多摩を訪れた記録が残っているのはこれだけですが、日記に書洩らしもあるかもしれない。訪れた回数は、未確認の佐藤彦五郎の日記も考えて、もっとあるだろうと私的には思っています。

山南敬助が多摩を訪れた時に、一緒にその場にいた試衛館派のメンバーを敢えて挙げました。近藤や土方らを介してか、あるいは佐藤彦五郎や小島鹿之助らを介して、多摩という土地は山南敬助にとって第二の故郷と言うには大袈裟かもしれないけれど、何度も通ったとても馴染みのある土地だっただろう。
残っている記録に京へ行くまでに、試衛館派で元々の天然理心流のメンバー以外に多摩を訪れた記録が残っているのは山南だけです。
京に行った以後も、残っている記録から、多摩の人たちが山南のことを元々の天然理心流のメンバーと同様に思っていたと感じられたりします。

ごめんなさい。記事をまとめられない状況になってきました(汗)。
とにかく、そんな山南敬助にとって多摩は、大切な人たちがいるちょっと故郷のような場所だったのではないだろうかと思うわけです。
[PR]
by eri-seiran | 2007-03-28 20:54 |  多摩の人たち | Comments(0)

松本捨助

山南敬助を語る時、小島鹿之助、佐藤彦五郎、富沢政恕など多摩の人たちを記事にてよく挙げているものの、カテゴリーの多摩の人たちにおいて、記事としてきちんと書いたのは、井上松五郎橋本政直のみであることに最近、気付きました。
そこで今回は、『新選組!』にて中村獅童さんが演じた滝本捨助のモデルとなっている松本捨助について書きたい。今後、『新選組!』の再鑑賞の記事にておいて、滝本捨助の名前が出てくることも度々あるでしょうから。

松本捨助は、弘化2年(1845)の生まれです。山南敬助より12歳か、或いは9歳年下になります(山南の生年については二つの説がありますので)。また藤堂平助や斉藤一らに近い年齢です。二人より2歳ほど年下。
捨助は、本宿村、今の府中市西府町に住む名主の松本友八の一人息子として生まれました。この先祖が、今話題の武田軍の家臣であり、後に徳川幕府の八王子千人同心になったという由緒書が残っているそうです。
先祖がそういうわけであり、また多摩という土地柄から、当然ながら天然理心流の剣術を学ぶことになるわけです。捨助は、日野宿の佐藤彦五郎の道場に通い、佐藤彦五郎宅の近くに住んでいた同じ年頃の古谷優之助と熱心に剣術の練習をしたらしい。
しかしこの捨助、幕末・明治の俠客であった小金小次郎(新門辰五郎の弟分)一家に出入りするようになり、実家から離れていった時期がありました。これには面倒見の良い佐藤彦五郎も困ったようです。それからちょっとして、兄のような存在であっただろう近藤勇や土方歳三らは、浪士組として上洛することを決意。小金小次郎一家に出入りしていた捨助ですが、この話しを聞いて自分も一緒に行きたいと願ったそうですが、身内から反対されて共に上洛すること叶わず。
それでも諦めきれず、文久3年(1863)11月に壬生を訪ね、新選組に入れてくれと土方らに頼みました。しかし一人息子だから駄目だ!と、断られたそうです。そして多摩に帰るように言われ、その時に託されたものが、土方の女自慢などが書かれた書簡と、血糊が付き、折れている山南の佩刀である摂州住人赤心沖光などの刀三振りです。
捨助、この時期に、呼ばれもしないのに京に行ってくれて、そして土方らに断れながらも、託されたものを江戸・多摩まで持ち帰ってくれてありがとう。あなたは、なんって良い人なんだ。もしこの時、あなたが京に行かず、或いは京に行って土方らに入隊を断られても、『新選組!』の滝本捨助みたいに京に居たままであったなら、山南の佩刀の赤心沖光は現代にこのように伝わることはなかったかもしれない。今更ながら、あなたは本当に素晴らしい人だと認識しました。

さて、そんな人の良い捨助、江戸・多摩に託されたものを持ち帰った後、結婚して子供も生まれたそうですが、やはり諦めきれず、新選組に入れてくれ!と頼みました。その時は土方らに許してもらい、やっと念願が叶ったという次第です。それは、甲陽鎮撫隊の時だったと云われています。その後の厳しい戦の中、会津までは山口次郎(斎藤一)に付き、土方が会津で合流した後は土方に付き、仙台まで行きます。しかし仙台にて、あとは無いと思っていただろうと思われる土方に説得され、捨助は斎藤一諾斎(捨助と同じ頃に、僧侶から新選組の隊士になった方)と共に仙台にて、新政府軍に投降。そしてこの時の有名な逸話があります。土方は別れる前に、身内のいない一諾斎には30両、捨助には10両を餞別として渡したと云われています。

その後の捨助は、再び小金井小次郎の所に身を寄せたり、山岡鉄舟との付き合いがあったり、三河のセメント会社にいたり、名古屋の商店にいたり・・・
明治の末に多摩に戻り、大正7年に亡くなったとのこと。享年74です。
まさしく波乱万丈の人生。同じ所に留まらない、しかし最期は原点に戻るという点は、『新選組!』の滝本捨助と重なるところがあり、三谷さんはその辺りを意識して滝本捨助という人物を描いたのだろうか?
とにかく波乱万丈の人生。明治以後、昔を思い出すこともあっただろう。血糊の付いた赤心沖光を京から江戸・多摩まで持ち帰ったことを思い出したりしただろうか?
山岡鉄舟とそんな昔話をしたかもしれない。

『新選組!』で、堺雅人さん演じる山南敬助と中村獅童さん演じる滝本捨助は、第5回の近藤の結婚披露宴で初めて出会ったことになっています。
史実の山南敬助と松本捨助はどうだったんだろう?
山南も多摩方面に出稽古に行っていることから、上洛するまでに出会っていただろうと思われます。捨助が一緒に剣術の練習をした古谷優之助が山南と出会った記録は残っていますし。

松本捨助が残した49歳の時の写真。とても粋な方と見受けます。
あ~この方が山南敬助の佩刀である赤心沖光を持ち帰ってくれたのね。
本当に感謝!感謝!です。
[PR]
by eri-seiran | 2007-01-27 14:30 |  多摩の人たち | Comments(0)

縁のある多摩の人たちの一人

上京した井上松五郎の送別会において、参加したメンバーに山南敬助の名前がないことについての記事を書きましたので、今日は井上松五郎について少し触れたいと思います。

この方は、八王子千人同心初代井上松五郎の次男として生まれました。初代井上松五郎とは、井上源三郎の父親であり、源三郎は三男にあたります。つまり松五郎は源三郎の兄となるわけです。家督を継ぎ、二代目松五郎となり(長男は他家に養子入りしたらしい)、八王子千人同心となったわけです。生年は文政9年(1826年)生まれとする説と、確かではなく源三郎より2~3年の年長とする説などがあります。源三郎が文政12年(1829年)の生まれですから、3歳年上とすると、文政9年の生まれになります。
松五郎は天然理心流に入門し、近藤周助の高弟と言われており、多摩では名の知られた剣客でした。また日野の佐藤道場の世話人でもありました。
安政5年(1858年)、日野の天然理心流一門が八坂神社に献額します。献額に井上松五郎の名前があります。また昨日の記事でも触れましたが、近藤勇の襲名披露では、西軍として参加しており、その時、山南と土方は東軍として参加しています。

そしてその後、試衛館派のメンバーが浪士組として上洛するために江戸を出立してから間もなく、松五郎も将軍家茂公の上洛随行のために江戸を出立し、3月4日に京に到着しました。それから京に滞在中の約3ヶ月間、浪士組と交流を持ち、また土方ら試衛館派のメンバーの相談相手にもなっていたというわけです。

この方が次に上洛したのは、慶応元年5月頃、将軍家茂公が上洛・下坂した時です。はい、山南が亡くなって数ヶ月が経ってからでした。山南の死については、多摩で沖田の書簡、また土方から直接聞いて知っていたでしょう。
残念ながら、この上洛の時の日記は残っていませんが、主に大阪に滞在していた松五郎に源三郎や土方が送った書簡が残っているそうです。

松五郎さん、山南さんのお墓参りをされましたか?

すみません。長々と松五郎について述べてきましたが、一番言いたいことはこれです(苦笑)
山南の死には色々な謎があるわけですが、その一つに山南の死を知った多摩の人たちはどう捉えたのだろう?どんな思いだったのだろう?ということが、全く見えてこないということです。そこにはもちろん、山南の死を知ったことについての記録が全く残っていないからなのですが・・・少しでも記録が残っていれば、そこから色々と勝手な想像もできるのですけれどね~
山南の死後、多摩の人として初めて上洛した松五郎は、近藤、総司、そして弟の源三郎にも会ったかもしれない(土方とは多摩で会っているでしょう)
山南の話しが出たのだろうか?

松五郎も大阪に滞在中、体調を崩してしばらく静養していたようです。その後、体調が戻って多摩に帰りました。松五郎の次男の泰助は、慶応3年6月以後に新選組に入隊し、淀千両松で戦死した源三郎の首を埋葬したと言われています。
松五郎は、自分の息子から弟である源三郎の死を知って、嘆き悲しんだことでしょう。そんな松五郎も明治4年に亡くなっています。流行り病だったらしい。新選組に入隊した泰助は、江戸帰還後に許可を得て脱退をし、昭和まで生きたそうです。それぞれの天命を全うした松五郎、泰助、そして源三郎の墓は日野の宝泉寺にあります。

山南敬助と縁のある多摩の人たちの一人であった井上松五郎についてでした。
[PR]
by eri-seiran | 2006-06-07 23:32 |  多摩の人たち | Comments(0)

多摩の人たちが山南敬助の状況について、いつ、どのように把握していたのか?

先日の記事 山南の死を伝えた土方、そして山南の死を知った多摩の人たち で、小島鹿之助や佐藤彦五郎らは、土方が山南の死を話すまで、山南のことについて本当に何も知らなかったのだろうか?と、書きましたが、元治元年(1864年)の11月に長州征伐出陣に備えて編成した隊士名簿『行軍録』のことを忘れていました(汗)これは以前にも記事で触れましたが、この隊士名簿に試衛館派のメンバーでは山南、永倉、藤堂の名前がありません。
この『行軍録』は、土方によって多摩の人たちにも伝わっており、小島鹿之助の『異聞録』に書写されたものが残っています。そしてこれを見た小島鹿之助は、永倉の名前がないことに対して土方に問い合わせております。永倉の名前がないのは、局長批判のための謹慎処分を受けていたためと言われています。藤堂はこの時期、隊士募集のために江戸にいました。そして山南は病にあって隊務から離脱していたと言われており、小島もそのことを知っていたと言われております。だからこそ、山南の名前がないことについては平助同様に問い合わせていないのです。

ここで、多摩の人たちが山南について、どのような把握していたか、また山南について把握できた時期などについて整理してみたいと思います。

文久3年(1863年)11月21日 松本捨助、京より多摩に帰着する。

新選組に入隊を希望して、壬生を訪れた松本ですが、松本家の後継ぎということで土方らに入隊を許可されず、仕方なく、多摩に帰ってきたと言われています。この時に土方から書簡を託されています。書簡に山南のことについては触れていませんが、松本が多摩の人たちに新選組のこと、山南らの京での様子について多摩の人たちに話したことでしょう。
そしてこの時に、あの岩城桝屋(岩木升屋)事件で折れた血染めの赤心沖光を持ち帰ったのではないかとも言われています。そうなると、この時点で山南は怪我をしていたのではないかと考えられるわけです。

文久4年(元治元年・1864年)1月27日付けで、山南が小島鹿之助に年賀状を出す。
 
無事に年を越せたのでご安心くださいと書かれています。山南さん、本当にそうだったのですか?と、聞きたい(汗)とにかく小島鹿之助はこの年賀状を受け取り、山南は元気であると思ったことでしょう。そして小島は多摩の人たちにそう伝えたでしょう。

文久4(元治元年)年2月2日、日野の蓮光寺村名主の富沢政恕が壬生屯所を訪れ、山南は病に臥し会えなかったと日記に書いている。

富沢は4月13日まで、京に滞在し、その間、近藤、土方、井上、総司、平助らと何度も会っている記録が残っています。しかし山南と会った形跡はない。平助の名前が出るくらいですから、山南と会っていたら、日記に名前を残すでしょう。
(2月20日に年号が文久から元治に改元されました)

元治元年3月26日に、富沢が佐藤彦五郎宛に新選組の事情などを記した書簡を送る。
その書簡に 勇、歳三、山南、沖田、一同無異之由。喜悦々々。
と、書かれている。


この書簡の内容は、4月15日に小島鹿之助、佐藤彦五郎によって、多摩の後援者たちに報告されました。そしてこの書簡の内容が???なのです。
山南は病に臥して会えなかったと日記に書いており、その後も会った形跡がないのに、なぜ一同無異之由なのだろうか?
記録には残っていないものの、元気になった山南に会えたのだろうか?
山南の病は多摩の人たちに隠さなければならないものだったのだろうか?

元治元年4月下旬 富沢、日野に帰着する。

4月下旬というのは、私の推測です。4月13日に富沢が京を出立しておりますので、江戸・京都間の掛かる日数を考えると、4月の終わり頃に帰り着いたと思われます。
富沢は、山南についてどのように伝えたのだろうか?
「病に臥せていた」「元気でいた」「・・・」

元治元年8月12日 小島鹿之助ら連名で、近藤・土方・山南・総司・井上の連名宛てで、禁門の変においての安否を気遣う書簡を送る。

ここで小島らは、少なくとも山南が病にあったとしても新選組にいる、生きているという把握をしていたことになります。少し訂正と補足。禁門の変が起きるまでは生きているという把握をしていたのです。禁門の変による京の大火についての情報が江戸まで伝わってきたり、その上、近藤が討死したというデマも流れたので、とにかく安否を確認しようとしたわけです。そんな状況から、この5人に対してもしかしたら・・・という不安はあったわけです。
とにかく元々の試衛館のメンバープラス山南という連名宛てから、少なくとも多摩の人たちと山南の関係は昔と変わらないという捉え方ができます。また近藤や土方らと山南の関係は昔と変わらないと、少なくとも多摩の人たちは思っていたという捉え方ができないでしょうか?永倉の記録より、この時期、山南は病であったことが明らかになっていますが、多摩の人たちは病であることは知らなかったのだろうか?

元治元年9月9日 近藤・永倉・武田・尾形が江戸に着く。

10月15日、江戸を出立するまで、近藤は小島鹿之助ら多摩の人たちに何度も会っています。もし小島らがこれまで山南の病について知らなかったら、この時、近藤から直接聞いたのではないかと考えられます。
だからこそ、その後に出た『行軍録』に山南の名前が載っていない理由を知っていたというわけです。

ここまで書いて、それで何かわかるの?という感じです(汗)
この方について、色々な史料などを知れば知るほど、考えれば考えるほど、書けば書くほど、分からなくなってきます。
今、書きながら、この時点で山南は新選組に復帰できるような状況ではなかった、そのことについて近藤らも分かっていたのではないだろうか?と思ったりもしています。
あまりにも長すぎる療養期間。
近藤が留守の間、土方は新選組という組織を守りながら、そして隊務につけず療養している山南と会ったり、話しをしたりしていたのだろうか?療養している山南のことを気遣っていたのだろうか?

そしてやはり、この方の人生を大きく変えたと思う岩城桝屋(岩木升屋)事件について検証しなければ、この方の病、長期の療養、脱走、死については語れない。分かってはいるのですが、これについては避けたいという気持ちがどこかにありました。何せ説も色々とありますし・・・しかしそろそろ語りましょう。
新年度でバタバタしておりますが、落ち着いたら、岩城桝屋事件について書こうと思います。
[PR]
by eri-seiran | 2006-04-10 16:39 |  多摩の人たち | Comments(0)

土方歳三と血縁関係にあった橋本政直

昨日の記事で書いた橋本政直(道助)は、禁門の変の時、近藤らが無事であるか?心配で、安否を確認するために、小島鹿之助らと連名で、近藤勇・土方歳三・山南敬助・沖田総司・井上源三郎宛てに書簡を送った一人です。

みなさん、ここまでのポイントをわかって頂けたでしょうか?
そうです。元々の試衛館のメンバーと共に山南敬助の名前があるということです。
それだけ山南敬助は多摩の人たちと親しくしていたということなんです。

ところで、私は橋本政直については、その程度しか知りませんでした。
そこでちょっと調べてみました。
なんとこの方は、小島鹿之助のお姉さんの子ども。と言うことは、小島鹿之助は政直の叔父さんにあたり、また小島鹿之助の奥方は政直の父親の姉か、妹とのこと。また政直の父方の祖母は土方歳三の叔母(伯母)さんにあたり、政直の奥方は佐藤彦五郎の娘とのこと。彦五郎の娘とは、つまり土方歳三の姪になるわけであります。
もう頭が混乱して参りました。
このあたりの血縁関係・人間関係図を書いて整理してみたくなってきました。
とにかく、橋本家も小島家も佐藤家も土方歳三にとっては親戚というわけです。

2004年に小島政孝氏の講演を聞きに行った時、近藤、土方、総司、そして山南敬助が師範、及び師範代として小野路村を訪れた話しになり、総司、山南敬助が師範代として出稽古に来た時、教える人数16人に対して謝礼として一両が支払われていたらしい。しかし土方歳三に支払った記録は残っていないそうです。もちろん土方歳三も近藤、或いは総司と一緒に橋本家などを訪れた記録は残っています。土方は師範代の格ではなかったのか?それとも親戚のために支払われなかったのか?ということを小島孝夫氏が仰っていました。
まあ~この血縁関係を考えると、親戚、つまり身内ということで支払わなかった、或いは受け取らなかったということでしょうか?

私は土方歳三については詳しくないのですが、この方、沢庵が好きなんですよね?
土方はこの橋本家の沢庵が好きで、一樽もらって担いで帰ったという逸話があるらしい(笑)
山南敬助もこの橋本家を訪れた時に沢庵を食べたのかな~なんって、またもやどうでもいいようなことを考えてしまう私です。
[PR]
by eri-seiran | 2006-01-25 21:53 |  多摩の人たち | Comments(0)

浪士組参加へ~託し、そして託されて~

文久三年(1863年)、1月17~18日、山南敬助と沖田総司が浪士組参加の挨拶のために、小島鹿之助宅を訪れ、その時に山南敬助は浪士組参加への思いを漢詩で詠んだということを記事にしてきました。
この二人の訪問より2日前の15日に土方歳三、1日前の16日に近藤勇も同じように小島鹿之助宅を訪問したことが「小島家日記」に残っています。

この時、近藤勇は鎖帷子、土方歳三は刀一振を小島鹿之助から借りたことが日記に書かれています。

本人らが貸してほしいとお願いしたのか、小島鹿之助が餞別として貸したのかは分かりません。
私的には小島鹿之助が餞別として貸したのではないか?と思っています。
小島鹿之助は山南敬助より3歳、近藤より4歳、土方歳三より5歳年上。井上源三郎より1歳年下です。
小島鹿之助も一緒に浪士組に参加したかったのではないでしょうか?
しかし小野路村寄場名主ということなど、自分の立場上、浪士組への参加は断念したのではないだろうか?そこで近藤らに自分の志も託すという意味で、鎖帷子、刀一振をそれぞれに貸したのでは?と思うのです。
また浪士組に参加するには、持ち物が不十分だと思ってこれらの品を貸したのでしょうか?

いや~近藤、土方より貸してくれと頼んでこれらを借りたと考えるのも、なんか微笑ましくていいな~

私的には鎖帷子がすごいな~と思うわけです。近藤はこれを着けて不逞浪士らを斬ったのだろうか?

そこで山南には何か餞別はなかったの???と思うわけです。
まあ~物ではなく、漢詩を残しているように、お互いの気持ちは通じ合っていたのでしょう。また小島鹿之助が何か餞別として渡そうとしたが、山南が断ったかもしれないし・・・そのように思いたい一方で、やはり元々多摩出身の近藤や土方との違いなのかな~とか、思う次第です。ここはあまり深く考えないようにしましょう(苦笑)
(書きながら、思わず、『新選組!』の30話で近藤・土方・総司・源三郎という元々の試衛館の4人で祝っているところに山南が現れるシーンを思い出してしまいました)

とにかく、山南も近藤も土方も浪士組への参加には熱い思いがあり、また小島鹿之助に限らず、佐藤彦五郎など多摩の天然理心流門人たちには同じように熱い思いがあったのだろう。彼らは近藤、土方、山南らに託し、彼らは託されたのではないでしょうか?

上洛前の山南ら、そして多摩の人たちの行動や思いなどを考えると、上洛してすぐに、また何も働かないうちに、清河八郎に従って江戸に帰ることなんって、とうていできなかっただろう。
自分らだけでも残ると決めた彼らの気持ちがこれまで以上に分かるような気がします。
[PR]
by eri-seiran | 2006-01-21 19:06 |  多摩の人たち | Comments(2)

山南敬助と出会った少年

山南敬助が試衛館を訪れた時期がいつのなか?また山南敬助が天然理心流の試衛館においてどのような立場だったのか?などを推測できる貴重な記録である『剣術覚帳』を残した古谷優之助という方について少し調べてみました。

名前は古谷優之助、或いは祐之助、後に平右衛門と名を改めている。
甲州街道日野宿場にあった旅籠屋の息子で、文久元年の正月、新年の稽古を記録に残した当時は、14、15歳だったらしい。
もちろん、天然理心流の門人となっており、この方の父か、叔父と思われる方は、日野の八坂神社に奉納した献額に名を連ねている。
その後、慶応4年(19681868年)、21、或いは22歳になった優之助は春日隊として甲陽鎮撫隊に加わり、勝沼での戦闘に参加している。
       
       参考文献:新選組日誌コンパクト編・新選組史跡事典東日本編
              (新人物往来社)

この方は昭和初期まで生きたらしい。
山南敬助、近藤、土方、沖田らと旧知で、彼らが亡き後も、明治、大正、昭和を生きた人がここにもいるんだな~どんな思いだったのだろうと考えると、また胸が熱くなる次第です。

この古谷優之助が文久元年の新年の稽古に参加したのが、14歳、15歳。
山南敬助とは初めての出会いだったのか、それまで出会ったことがあるのかはわかりません。
この少年は、山南敬助をどのように見ていたのだろう?
近藤や土方らに対してとはまた違う憧れを山南に抱いていたかもしれないな~と思っています。
これまでは、多摩の出身の人たちや天然理新流の剣術しか知らなかったのでしょう。
武士の出身、天然理心流以外の剣術(小野派一刀流・北辰一刀流)を学んだことのある人、憧れる気持ちを持っても不思議でない年頃です。
自分にもそんな年頃がありましたから(苦笑)

この少年について、もっと調べたくなってきました。
[PR]
by eri-seiran | 2006-01-16 15:09 |  多摩の人たち | Comments(2)

多摩の人たちからの書簡

去年の6月、京都市で『新選組と多摩』についての小島政孝氏の講演があり、行って参りました。そこで新選組、そして山南ファンにとっては、色々興味深い話を伺うことができました。
昨日、文久元年(1864年)7月18日に起きた禁門の変を描いた「新選組!」の第29話『長州を討て』に触れたので、禁門の変において知ることができる山南と多摩の人たちの関係についてのことを・・・

1864年7月に起きた禁門の変で京都は大火に見舞われ、そして近藤が打たれて死んだという情報が多摩に住む小島鹿之助や佐藤彦五郎らのところに伝わってきたそです。そのために小島たちは色々な方法を取って近藤の無事を確認しようとしました。一度、無事が確認できましたが、しかし8月11日になって、再度、近藤の討死のうわさが・・・
そのために8月12日には小島や佐藤らが京都飛脚を買って、連名で近藤、土方、山南、沖田、井上 の5人宛に書簡を出したそうです。
小島政孝氏の話しでは、5人に出せば一人くらいは生きていて、連絡が取れるだろうと思ったのでは?とのことでした。
8月23日に、沖田林太郎(総司の義兄)らによって、近藤勇らの無事が確認され、8月24日には、「近藤はまさしく武士である」という噂が江戸で流れました。
9月4日には、近藤・土方から、無事であるという返書も届きました。

私はこの話しを聞いて、これは多摩の人たちと山南氏の繋がりが他の食客とは違うということをさらに証明するものだと思いました。
この書簡を山南に送ったということは、多摩の人たちにとって山南は、元々多摩出身である近藤・土方・井上らと同じくらい親密な間柄だったと言えるのではないでしょうか?

反対に、小島や佐藤らが山南の名を含めた5人連名に書簡を送ったことに対して、疑問に思うこともあります。以前にも書きましたが、この年の2月から4月にかけて、日野の名主である富沢が京都に滞在した時、療養中の山南とは一度も会えなかったということで、そのことは多摩の人たちにも伝わったと考えられます。そして一度も会えなかったということから、屯所以外のところで静養していたのではないかという見方もあります。
しかし山南にも送っているということから、多摩の人たちは禁門の変の頃の山南の状況をどこまで把握していたのだろうか?と思うわけです。もう完治して復帰したと思っていたのでしょうか?山南の病状については知っていながら、或いは全く知らずに、書簡を送ったのでしょうか?

永倉の手記などにより、禁門の変の時、山南が療養中だったということはほぼ間違いありません。
それは、山南が小島らに返書を送ったという記録がないことからも言えるでしょう。
律儀な山南のこと、自分が元気であれば、無事であること、心配をかけたことを詫びる内容の書簡を近藤らの書簡と一緒に送ったと思うのです。

近藤らが送った書簡に山南の病状については触れていなかったのでしょうか?

残念ながら、近藤と土方の返書、小島らが送った幹部5名宛の書簡などは現存していないそうです。
[PR]
by eri-seiran | 2005-11-12 09:48 |  多摩の人たち | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


by eri-seiran
プロフィールを見る
画像一覧