カテゴリ: 縁者( 8 )

守り通した人たち

歴史秘話ヒストリアにて5月13日に放映された新選組 京都青春録~素顔の沖田・土方・近藤~で何が一番驚き何が一番嬉しかったかと言うと、光縁寺の住職の登場に山南敬助の墓の映像。
沖田氏縁者の墓について沖田氏とは沖田総司のことか?ということに関する話をされていましたが、その後が聞きたかったです。墓の映像、色々と話を伺ってから映しているカメラワークのように思えたんですけれど。

さて本題です。近藤も土方も総司も歴史に名を残す偉大な人たちであったと共にごく普通の人だったんだ、また多摩との強い絆を改めて感じました。
いいんだい、いいんだい。山南敬助がどんなに小島鹿之助や佐藤彦五郎らと親しくても、近藤や土方と多摩の人たちとの強い絆には負けるわよと思ったんですけれど、ちょっと冷静になって考えてみました。遺品を大切に守り通した多摩の人たち。山南に関しては語ってはいけないことがあり、それを多摩の人たちが守り通してくれたからこそ、謎なのではないかと。

そして多摩の人たちが新政府になってからも遺品を大事に守り通したと同じように、新選組に関わりのあった八木邸や前川邸、そして壬生寺に光縁寺など京の人たちも京という地で守り通してくれたのです。
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by eri-seiran | 2009-05-15 09:38 |  縁者 | Comments(0)

続・堀田家との縁

私、佐倉藩主であり、また老中であった堀田正睦絡みで仙台藩出身で佐野藩主である堀田正敦について記事にしましたが、依田学海が堀田正睦を藩主とする佐倉藩の出身ということをすっかり忘れていました。
当ブログを訪れている方からメールにて教えてもらい、気付いた次第です。
本当にありがとうございました。

依田学海については、3回ほど記事にて名前を挙げています。こちら其の壱とか、それからこちら其の弐とか、または歌舞伎絡みで。

依田学海は、佐倉藩士で山南敬助と同じ天保4年(1833)生まれで、明治42年(1909)に亡くなっています。重臣として堀田正睦に仕えました。江戸留守居役も務めています。そしてこの方、文芸において才能があった方だそうで、これも教えてもらったのですが、あの川上音二郎のためにも脚本を書いているのです。
三谷幸喜さん作・演出の舞台『恐れを知らぬ川上音二郎一座』にて、堺雅人さんの役の名前が伊達実というのがつぼだったのですが、川上音二郎と依田学海とつながりがあったなんって。これはびっくり。三谷さんはそれも知っていて、伊達実@堺雅人に新選組の隊服を着せたのであろうか。

改めて依田学海と山南敬助のつながりについて簡単に書いておきます。
明治21年(1888)10月14日(堺さんの誕生日と同じ日)に依田が中村座に歌舞伎を観に行ったら、松本良順に出逢いました。松本は在京中に新選組の一人の隊士が切腹するところを見たと言って、切腹の様子を依田に語ったと言うのです。語ってくれた切腹の様子を依田が『学海日録』に書いているのです。そして一人の隊士とは山南敬助だったと言うのです。

これについては以前の記事で書いていますが、疑問もあるのです。その頃、松本が京にいたと考えにくいこと、また松本が初めて新選組の屯所を訪れたのは山南敬助死後のことだと云われていること。

それでもなんかすごい繋がりだな~と思いました。
そしてもうひとつ。
これも記事にて何回か名前を挙げていますが、仙台藩の尊王攘夷派のリーダーであった桜田良佐。この方が堀田分家の堀田正敦が堅田藩から佐野藩に国替えとなる前年の文政8年(1825)、堀田正敦に仕えていて、桜田の才能を評価して、堀田正敦は仙台藩に推薦したとのことです。そして仙台出身の桜田は仙台藩に戻ったというわけです。

なんか面白いな。山南に関係があるのかは全くわかりませんが、色々なつながりが見えてきました。
現代に残る山南敬助について関わる史料だけでは限界を感じているんですけれど、全く山南とは関係ないかもしれないところから探っていくと新たな発見がありそうな気がしてきます。
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by eri-seiran | 2008-07-05 09:34 |  縁者 | Comments(0)

山南敬助と徳川家定公の距離間

ただ今、山南敬助が小野派一刀流の大久保九郎兵衛の門人であったことについて色々と考察しているのですが、そこで、『新選組銘々伝 第四巻』(新人物往来社)での山南敬助の章で、清水隆氏が書かれている大久保九郎兵衛について改めて読んでみて、すごいことに気付きました。

と言うことで、大久保九郎兵衛とはどんな人物だったか?
御旗奉行を務める九百石の旗本であった大久保信濃守忠行の実子で、この方が家を継ぐことになっていました。寛政10年(1798)の生まれと考えられるとのことで、そうなると、山南とは35歳違い(山南が天保4年生まれの場合)。
文化14年(1817)、20歳の時に、11代将軍徳川家斉公に初めてお目見え。13代将軍徳川家定公のおじいちゃまですよ。おじいちゃま。
34歳の時に西丸御書院番として大久保播磨守組に入り、その後に2度の組み替えがあり、天保12年(1841)、右大将家定公付きとなります。徳川家定公ですよ、後の13代将軍家定公ですよ!
この時、大久保九郎兵衛は44歳、家定公が18歳、山南敬助が9歳。
翌年の天保13年(1842)には、御白書院において12代将軍徳川家慶公の武術上覧を務め、拝領物を賜る。家慶公は家定公のお父さまですよ、お父さま!
そして嘉永6年(1853)、家定公が13代征夷大将軍となり、御本丸御書院番となります。
しかしその3年後、家定公と篤姫の婚礼を見ることなく、安政3年(1856)3月15日に亡くなりました。享年59。
家定公と篤姫の婚礼は同じ年の12月18日と云われています。この時、山南敬助は24歳。

また山南敬助が中山幾之進から試合を申し込まれ、中山から頼まれて署名した

飯田町堀留大久保九郎兵衛門人
         一刀流 山南敬輔


と書いたのは、嘉永6年(1853)と云われています。山南敬助が21歳。
まさしく徳川家定公が13代将軍となり、それに伴って師匠の大久保九郎兵衛が御本丸御書院番となった年です。

ここまでの参考文献は、『新選組銘々伝 第四巻』の山南敬助の章です。執筆者は清水隆氏。出版社は新人物往来社。

今頃、気付いてすみません。
これはすごい縁だ。どうしよう。どうしましょう。
どうすることもできないんですけれど(笑)。
家定公が13代将軍となり、篤姫との婚礼が行われ、そして家定公が亡くなった時、山南敬助は江戸にいたんだよな~この頃は大久保道場にいたんだろな~なんって考えてはいたのですが、こんな近い所にいたなんって。
山南敬助にとって、家定公は雲の上の人だっただろうけれど、大久保九郎兵衛から話しを聞いたりはしただろう。
私の中で、これまで山南敬助と徳川家定公の遠かった遠かった距離間が縮まりましたよ。

大河ドラマ『新選組!』での山南敬助は、千葉周作から北辰一刀流を学び、その後、試衛館と出合ったという設定になっていたために、大久保九郎兵衛や小野派一刀流の絡みはありませんでした。
しかし史実の山南敬助は大久保九郎兵衛の門人として小野派一刀流を学んでいたことはほぼ確実であり。
その山南敬助を演じた堺雅人さんが、史実の山南敬助の師匠であった大久保九郎兵衛が仕えた徳川家定公を演じるという縁に、山南敬助の何か新たなことまで見えてきそうな気がして参りました。
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by eri-seiran | 2008-01-11 23:23 |  縁者 | Comments(0)

上方を代表する豪商であった鴻池

昨日の『ちりとてちん』にて、桂吉弥さん演じる草原兄さんが天狗座での一門会では『鴻池の犬』をやりたいと言った時、ドキッとしました。そんな演目があるんだ。
江戸時代、上方を代表する豪商であった鴻池。

江戸時代の初めに両替商を始め、その後、大名貸を行い、新田開発を請け負ったりしました。
主人の名前は代々、鴻池善右衛門。
そして幕末、10代目は新選組とも付き合いがあり、新選組にお金を貸し、新選組にとっては有力な資金源でした。
また情勢が変わりつつあった慶応3年(1867)12月にも400両を貸し出したとのこと。新選組にとって、鴻池のバックアップはとても大きかったと思う。

大坂の船場にある呉服店の岩城升屋に押し入った不逞浪士と戦って、山南敬助は負傷したと云われています。そしてその怪我が原因でその後、表舞台に立てなくなったと考えられます。
しかし鴻池という説もあるのです。
そこで岩城升屋も大坂の豪商としては有名ではあったものの、それ以上に有名であった鴻池にとって代わられてしまったのではないかとも云われています。
しかし史実はわからない。
もしかしたら、違う日に、或いは同じ日に両方で戦ったかもしれないし。

どちらにしても山南敬助が岩城升屋で不逞浪士と戦い、負傷を負ったというのは近所の鴻池にも伝わり、お見舞いに来てくれたのかな~とか、そんなことを考えたり。

現代にも伝わる江戸時代の上方を代表する豪商であった鴻池。
そんな鴻池と山南敬助は知り合いだったんだよと自慢したくなりまして(笑)。
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by eri-seiran | 2007-12-19 23:31 |  縁者 | Comments(2)

浪士組幹部 池田徳太郎

今日は仕事が休みで、午前中の所用がお昼前には終わり、何かランチになるもの、また夕食の材料を買おうと思い、スーパーに寄ったら、全国の人気駅弁が売られていました。
それをランチにしようということで、名古屋駅弁の抹茶ひつまぶし日本一弁当を買いました。

そして『新選組!』の再観賞が15回で止まっていたため、その弁当を食べながら第16回を観賞。抹茶の粉がついており、それをふりかけて食べるらしい。それがどうも薬に思えて、それでもって『新選組!』を観賞したものですから、なんか可笑しくて。すみません。その理由は、こちらの記事より
そうなんです、コミック『秘密の新選組』を思い出してしまいまして(汗)。
しかしお弁当はとても美味しかったですよ。
可笑しかったのは最初の方だけであり、後は集中して観ることができました。こちらの感想は改めて、他の回とまとめて記事にします。テレビの方は、本日が23回放映予定なので、大分溜まっているんですけれど(汗)。

さて今日は浪士組の幹部であり、また先番宿割の任務を担当し、『新選組!』においては、同志であった清川八郎に裏切られ、子どものように泣き、今日の第16回においては、江戸に帰りたいけれど清河が謝ってくるまでは・・・と、一人で酒を呑んでいたら酔ってしまい、隣でたまたま呑んでいたお梅さんに絡み、それを見ていた芹沢鴨に店から放り出されてしまった池田徳太郎についてです。

『新選組!』においては、こんな上司だったら大変だろうな~とか思ったりしていましたが、史実の池田徳太郎は学があり、温厚な人であり、人望も厚かったらしい。浪士の募集をあちらこちらで説いて回り、池田の人望により参加した人たちも少なくなかったようです。
安芸の忠海村の出身であり、天保2年(1831)の生まれ。
試衛館のメンバーにとってはとんでもない恩人となる清河八郎、幕臣の山岡鉄太郎、山南敬助を草津宿にて激怒させた村上俊五郎らと共に発起人となり、虎尾会を結成した一人です。
そんな方であり、浪士の募集にも尽力したにも関わらず、清河のやり方に疑問を感じたからか、或いは国許の父親が危篤だったためか、清河が朝廷に提出した建白書には、ドラマの通り、浪士組のメンバーとしてただ一人、署名をしておりません。
そして早くに浪士組を脱退しております。

詳しいことはわからないのですが、父親が危篤ということは江戸を出立する時からわかっていたようであり、また清河は有能な同志である池田を国許に帰したくなかったようです。
池田は、清河の考えに同意できれば、署名をして、そのまま安芸に一時帰るということもできただろう。それをせず、早々と脱退したということは、やはり清河のやり方に納得できなかったのだろう。

脱退した後は、安芸に帰り、倒幕軍として戊辰戦争に参加し、明治になってからは青森や島根などの知事となりましたが、明治7年(1874)に、病にて亡くなりました。
享年44。

史実の山南敬助は、清河らと知り合いだったということはあったかもしれませんが、強いつながりはなかっただろう。しかし史実の池田徳太郎は違った。強いつながりがある同志だったのです。
学があり、温厚で、人望があったということから、また同志であった清河に裏切られた失意というものから、『新選組!』の第14回から15回にかけての山南敬助@堺雅人のような感じだったのかな~と、思いました。ただ、この山南敬助には本当の仲間、同志たちがいました。しかし史実の池田徳太郎は、一人で去っていきました。

史実の山南敬助との関係はあまりなかったと思いますが、共に上洛した同志ではあります。そして虎尾会からの同志である村上俊五郎に対して、山南敬助が烈火のごとく怒ったのが史実であれば、池田徳太郎は、山南敬助という人物をよく知ることになっただろう。
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by eri-seiran | 2007-02-22 17:08 |  縁者 | Comments(4)

西村兼文は山南敬助と出会っていたのか

『ヒミツの花園』において、『新選組!』で松本良順を演じた田中哲司さんが、月山夏世@釈由美子の上司である編集長を演じており、松本良順とこの田丸編集長のキャラクターの違いが気に入っているのですが、未だに堺雅人さん演じる片岡航との絡みはなし。
『新選組!』で全く絡みがなかったので、あると嬉しいな~と思っていたところ、先日の第6回にて、宮川音五郎にいさんがゲスト出演。堺さんとの絡みもあり、『組!』ファンとしては嬉しく。宮川音五郎にいさんとは、近藤勇の兄であり、演じていたのは阿南健治さんです。片岡航初め、4人の男性が花園ゆり子と知らずに冷たく対応していた花園町の役場の人です。『新選組!』では、第5回の近藤勇の婚礼の祝いの席に、音五郎にいさんも山南も出席しておりました。
史実でも、山南は宮川音五郎とは出会ったことがあるだろうと思われます。一方、松本良順は、山南敬助が亡くなってから上洛し、新選組にも出入りするようになっているので、出会ってはいないだろう。そして新選組の縁者として松本良順を挙げたら、同じ縁者として忘れてはいけないのが西村兼文。山南敬助@堺雅人と西村兼文@本間憲一の絡みもありませんでした。そして史実の山南敬助と西村兼文も出会ったことはなかったと、長い間、私はそう思ってきました。昔に読んだ新選組の随筆本にそう書いてありましたから。出会っていないという理由は、新選組が西本願寺に移ってきたのが山南敬助が亡くなってからであること。山南敬助が亡くなった時、西村兼文は京都にはいなかったこと。

西村兼文とは、西本願寺の寺侍です。そして志士たちが駆け抜けた幕末という時代を見届けた一人です。旅をし、情報を集めたり、色々な志士たちにも接近しています。新しい時代になってからは、見届けた幕末についての書物を出しております。『新撰組始末記』や『近世野史』など。
西村は、天保3年(1832年)生まれですので、山南敬助より1歳、或いは4歳年上であり、どちらにしても同世代と言えます。明治29年(1896年)に亡くなっており、享年65でした。

若い頃の私は、本に書かれているものを素直に信じていました。今みたいにひねくれていませんでしたから(苦笑)。しかし山南と西村は出会ったことがなかったと信じながら、どこかで疑問に感じていたのも確かです。

副長三南三郎ハ・・・丑三月下旬終ニ自刃ス。
                   『新撰組始末記』より


山南敬助の死についての西村兼文による記録です。これは最初と最後の一部分なのですが、簡単にまとめると、西本願寺への移転に反対して、遺書を残して自刃したというのです。

また山南のことについて、

少しく事理のわきまえある者

と、『新撰組始末記』において書いています。これは新選組という集団においての山南敬助の評価であり、西村としては、山南に対して良い評価をしているわけです。
また西村兼文が書いた『近世野史』において、芹沢鴨の暗殺についても暗殺者として山南敬助を挙げております。

と言うことで、一度も会ったことのない人についてここまで書くだろうかと思ったりするわけです。

そんな時に、伊東成郎氏の『新選組と出会った人びと』(河出書房新社)に出合いました。伊東氏は、西村兼文の項で、新選組に関することを山南敬助から教えてもらっていたのではないか、つまり山南敬助が西村兼文の取材の窓口になっていたのではないかと仰っています。確かに西村は芹沢鴨の暗殺のことまで書いてあるので、そこにはソースがあったと思われます。
伊東氏は、山南敬助が窓口だったのではないかという理由も書かれておりますが、私の方がもう少し勉強してから、そのことについては改めて記事にしたいと考えております。
とにかく、これまでどこかで疑問に感じていたことについて、ちょっと光が見えてきたという感じです。
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by eri-seiran | 2007-02-17 15:05 |  縁者 | Comments(0)

山南と縁のあった方々が眠る全生庵

昨日の記事の続きです。
品川を後にして、私たちは山南敬助、また新選組と縁のある山岡鉄舟(鉄太郎)や村上俊五郎が眠る全生庵に向かいました。全生庵は、山岡が明治維新において殉じた人びとの霊を供養するために、明治13年に建立された臨済宗のお寺です。場所は台東区谷中にあります。またここには、山岡鉄舟と親しくしていた初代三遊亭円朝(幕末から明治にかけて活躍した噺家)のお墓もあります。

村上俊五郎については、こちらの記事より。
山岡鉄舟は、勝海舟、高橋泥舟と共に幕末の三舟と言われるように有名な方なのでスルーします。大河ドラマ『新選組!』では、羽場裕一さんが演じていました。
『新選組!』では、山南敬助@堺雅人と山岡鉄太郎@羽場裕一が以前から知り合い、そのことが浪士組に参加するきっかけになったわけですが、史実では分かりません。
ただ山岡鉄太郎も山南と同じように千葉周作から北辰一刀流を学んだと云われていること。また上洛途中、山南敬助が村上俊五郎の発言に対して烈火のごとく怒った時に山岡が間に入って止めて、京に着いてから村上に大小の刀を取らせて、山南に対して謝らせたと云われていること。これらの逸話を聞くと、山南と山岡の場合、二人は以前から知り合いだった、山岡は山南に対して一目置いていたという印象を受けます。山南の北辰一刀流も謎ですが(汗)。
一方で、山岡と村上の関係も興味深い。剣術において、村上は山岡鉄舟の四天王の一人に数え上げられたとも云われ、また山岡を敬愛するあまり、山岡が明治21年に亡くなった時には、殉死の恐れがあるとして、警察署に保護を受けたらしい。これらから考えると、山岡が村上のことを守るため、山南に謝らせたとも考えられるな~と思ったり。

ただ山南が山岡や村上とどのような関係であったにしろ、同じ時代を生き、そして出会い、共に上洛したのは紛れもなく史実です。

山岡の墓は、昔からのままで、新しい墓が多い中、そこだけ周りと違う空気を感じました。一方、村上の墓は村上家一族の墓としてあり、墓石もピカピカの現代のものになっていました。
墓の前に立ち、二人とも山南と出会ったんだよな~そう思っただけで、胸が熱くなりながら、お参りさせて頂いた次第です。

全生庵は時間的にも無理かな~と思い、当初は諦めかけていたのですが、ふみさんのお陰で行けることができたのでとても嬉しゅうございました。
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by eri-seiran | 2006-09-01 15:24 |  縁者 | Comments(4)

山南を烈火のごとく怒らせた村上俊五郎

以前から多摩の人たちだけでなく、山南敬助と縁のあった人たちについて書きたいな~と思っていて、例えば、西村兼文、山岡鉄舟、八木為三郎など。
そこで今日は、前回の記事で少し触れた村上俊五郎について。

村上俊五郎は阿波の出身で、天保5年(1834年)の生まれなので、山南より一つ年下、土方近藤と同年齢ということになります(すみません!土方ではなく、近藤でした)
『新選組!』の第13回で、土方歳三が言っていた通り、元は建具師。三谷さん、細かいことまでちゃんと調べているんだね~この記事を書くに当たり、ちょっと調べようと思い、知りました。そう言えば、ドラマの中で土方が言っていたな~と思い出した次第です。
元建具師は剣術に優れており、下総佐原(現在の千葉県佐原市)において、自分で剣術の道場を開いた。阿波の出身で、元々は建具師だった方が、どのような経過で、下総で自分の道場を開くようになったのかはわかりません(汗)
そしてその道場で石坂周造(清河八郎の同志であり、浪士組に参加し、明治を生きた方。また清河との関係や浪士組結成についての語り部)と知り合い、江戸にて清河八郎が開く虎尾の会に参加し、清河とは血盟の同志となる。だから浪士組では、道中目付けと六番組の小頭を兼務するという幹部格だったというわけです。

事件が起きたのは、文久3年(1863年)の京に着く1日前である2月22日のことでした。場所は、草津宿。永倉の記憶によると、
山南が三番組の小頭の役割を担っていた時、草津宿に着いて、村上が

「貴公の組は乱暴をしてはなはだめいわくいたす。取り締まらっしゃい」と注意する。すると山南は、「なにが乱暴だ。拙者をはずかしめんとてさようのことをもうすのだな」と烈火のごとく怒りだした。
                              『新選組顛末記』より


このように一悶着が起こりそうになったそうです。そこで浪士組大幹部の鵜殿鳩翁と山岡鉄太郎が仲裁に入った。そして京に着いてから、山岡が村上に大小刀を取らせて山南に謝らせたというのです。山南も幕臣の山岡がそこまでしてくれたので、和解したらしい。
村上は山岡のことを敬愛していたようです。それが以前からなのか、それともこの事件が起きた後、或いは明治になってからかは分かりませんが、山岡が明治21年に亡くなった時には、殉死するおそれがあるとして、警察に保護されるほどのものだったとのこと。

さてこの山南と村上の事件は、永倉のこの記録にしか残っていません。永倉が70歳代になって語ったことなので、山南の発言をそのまま覚えていることは難しいでしょう。このような感じのことを言ったというところでしょうか?
穏やかで親切者と云われていた山南、しかし物を申す時は申す方というのも、このような記録が残っているからであります。

さて村上俊五郎は、山南だけでなく、試衛館のメンバーにも疎まれていたらしい。清河が江戸に帰ることを決め、そこで京に残留することを決めた近藤派と芹沢派のメンバーは清河の暗殺を計画。彼らが清河の次に命を狙っていたのは、村上だったとのこと。暗殺する方の名前が書かれた書状があり、村上は2番目に書かれていたそうです。
暗殺を免れ、清河らと江戸に帰った村上は、清河が佐々木只三郎らによって暗殺された時、幕府に捕らわれました。慶応4年に解放され、自由の身になってからは、勝海舟に面倒を見てもらっており、勝海舟邸をよく訪れていたとのこと。
その勝海舟邸で、ある因縁があったのです。
慶応4年(1868年)4月4日、勝の日記には、流山の顛末を伝えるため、近藤の助命をお願いしに土方歳三が訪れたと、また同じ日に村上も訪れたことが書かれてあるそうです。
土方と村上が勝邸で遭遇したかはわかりませんが、遭遇していたなら、少なくとも土方の方は覚えていただろう。暗殺しようと思っていた方ですから。

穏やかで親切者であった反面、短気で物を申す人でもあるという山南の性格を伝えるエピソードを作ってくれた村上俊五郎は、明治34年(1901年)に亡くなりました。
墓は、敬愛する山岡や石坂の墓所と同じ谷中の全生庵にあるそうです。
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by eri-seiran | 2006-07-11 01:40 |  縁者 | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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