カテゴリ: 雑記( 8 )

鴨川と都鳥

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我ながら、なかなか良い写真だ。
昨日、南座で吉例顔見世興行の昼の部を観た後、四条大橋の上から撮った京の冬の風物詩となっている鴨川と都鳥。
この風景を初めて見たのは、大学受験で初めて京の地を踏んだ時。
なんって優雅な風景なんだろう。これが京なんだと思いながら、受験のことも忘れて、その風景を長いこと眺めていたような気がします。

約140年前、山南敬助もこんな風景を見たのだろうか。
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by eri-seiran | 2008-12-23 21:37 |  雑記 | Comments(2)

あの方も訪れただろう浅草寺

東京から帰って来て1週間が経とうとしています。
さて今回、平成中村座の芝居小屋は浅草寺にありました。このお寺は都内最古の寺院だそうです。私は、浅草寺には20年ほど前に父親と初めて訪れ、今回はそれ以来であり、歩いていると20年前の記憶が色々とよみがえってきました。
東京には所用で行って、1泊2日の予定がもう1泊しなければならなくなり、それで時間があり、父の意見だったか、私の願いだったか。多分に父が提案して、私も行きたいと言ったのだろう。
今はガツガツと東京に行っている私ですが、これが2度目の東京でした。

そしてあの方も多分に浅草寺に来たことがあるのではないだろうか。
あの方とは山南敬助。
江戸時代、幕府の祈願所とされ、江戸文化の中心であった浅草寺。日光・奥州街道が通っている。山南敬助も初めて仙台から江戸に出てきた時に浅草寺の横を通り、雷門を見たりして、ここが浅草寺と認識しただろう。
山南が試衛館に出逢う前に居た大久保道場からは直線にて約5キロ。多摩に行くことを考えると近い。江戸にいる時に行った可能性は十分にある。

これは1日目の夕暮れ時。
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こちらは2日目である17日の仮名手本忠臣蔵のプログラムBを観て宿に帰る時に映した五重塔です。
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歌舞伎を観た後にライトアップされた五重塔。さらに幸せを感じた瞬間でした。
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by eri-seiran | 2008-10-24 09:45 |  雑記 | Comments(2)

山南オンリーのクイズ

先日の記事での歴史群像 presents ものしり 幕末王は、とりあえずクリアしました。
そしてこのゲームをしていたら、山南敬助オンリーのクイズを作りたくなってきて、ちょっと考えてみました。10問くらいと思っていたら、20問になっちゃいました。この勢いだと100問くらいは作れそうです。
問題とその答えは当時に記されているもの、また永倉新八や子母澤寛、また西村兼文が後に記したものから挙げています。決して私的な考えではありません。
そしてこれが史実であるとも言い切れないところがあります。他の説もあったりしますし。また謎の人ですから。

もし関心があったら遊んでみてくださいませ。
答えは一番下にあります。

問題1  一般的に云われている山南の生まれた年は

問題2  山南の出身藩は

問題3  試衛館に出合うまで学んだ剣術として挙げられているのは、北辰一刀流ともう一つの剣術は

問題4  浪士組として京に行くことが決まり、文久3年の正月、山南が総司と二人で挨拶のために訪ねたのは誰

問題5  文久3年(1863)2月5日、浪士組として京に向って出立するために集まった場所は

問題6  浪士組として京に行く時、草津宿で山南が烈火のごとく怒った相手は

問題7  山南敬助ら浪士組が京に着いたのは文久3年(1863)2月の何日

問題8  山南が真剣を振るった記録が残る最初の事件は

問題9  山南ら新選組が大坂での常宿としていた船宿は

問題10 山南も芹沢鴨の暗殺に加わったという説がある。山南が加わったという説の場合、山南以外の残りの暗殺者3人は誰

問題11 山南敬助の佩刀と云われている刀は

問題12 山南の佩刀が折れたと云われている事件が起きた大坂の呉服店は

問題13 元治2年2月、山南が脱走して、追ってきた総司と出逢った宿場は

問題14 山南が切腹した家は

問題15 山南が出窓越しに最後の別れをした女性がいたという逸話があるが、その女性の名前は

問題16 山南が亡くなったのはいつ

問題17 西村兼文は山南の死は自刃であり、屯所の移転問題に絡んでのことだったと記しているが、その移転先はどこ

問題18 山南の墓があるお寺は

問題19 山南の死を弔って歌を手向けた人は誰

問題20 山南の享年は

お疲れ様でした。
如何でしたでしょうか。

答えはこちらより
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by eri-seiran | 2008-09-23 22:55 |  雑記 | Comments(0)

歩数

22日(日) 20899
23日(月) 12272
24日(火)  5023
25日(水)  8365
26日(木) 10711
27日(金)  6861
28日(土)  5187
29日(日)  6579


これは何の数字かと言えば、22日から29日までの私の1日の歩数です。
でもとてもいい加減なんです。歩数計は出掛ける時につけて帰ってきたら外すので、家の中での歩数はカウントされていない。だから休みの日なんかで1日中、家の中に閉じこもっていたら0の日も。しかし今回は休みの日に一番よく歩いています。
22日(日)は雨の中、江戸の町をよく歩きました。地下鉄の駅にエスカレーターのない所もあり、階段を上ったり下りたりもしました。
23日は22日のことを考えると、こんなものか。そうなると、26日、私、仕事、頑張ったんだ。
通勤は車。仕事がある日は、普段5000~8000位。10000を超えると、仕事内容は別としてなんか仕事をしたという感じになります。
歩数計をつけているのは健康維持のために意識しようと思ってでしたが、最近では自己満足に過ぎません。

周りの人が1歩の時に自分は2歩だと思っていたのですが、以前、友人らと一緒に歩いている時、そのことを言ったら、友人らが1歩の時に私は1.5歩だと突っ込まれました。そうなのか(笑)。
とにかく歩数だけをみるとすごい距離を歩いたように思われるかもしれませんが、そうでもないと思います。

昨日の朝日新聞のbe on Sundayにて、歩くということをテーマにした記事がありました。その筆者も歩数計をつけて意識的に歩くようにしているとのこと。この方が元禄15年(1702)12月14日の赤穂浪士の道のりを歩数計をつけて歩いたそうです。集合場所である堀部安兵衛らの自宅から吉良上野介邸、そして隅田川を渡り、泉岳寺まで。2時間40分で約15000歩。距離にして15キロだったそうな。私の22日の歩数は約20000歩でありますが、15キロ以上は歩いていない。しかし歩数としては赤穂浪士を超えている。私ってすごいな(笑)。

さてこの記事から思ったのは山南敬助らが浪士組として京に行く時、1日、どれくらい歩いたのだろうか。日本橋から京までの中山道は530キロ。伝通院から計算するのは面倒なので530キロと考えて、掛った日数16日で割ると、1日33キロほど。と言うことは、今回、赤穂浪士の道のりが15キロで15000歩だから、山南敬助らは平均すると1日30000歩以上となる。私の江戸での2日間(22日と23日)の歩数だ。

赤穂浪士と同じ道のりを歩いた筆者は疲労感が残ったそうですが、刀や槍など武具を持って歩いていた赤穂浪士。残された史料から、歩き疲れた様子はなかったらしい。本懐を遂げ、意気揚々としていたとのこと。
山南敬助ら試衛館のメンバーも京に向かう時もそうだったのだろうか。しかし伝通院を出た頃は元気でも、途中、疲れてくることもあっただろう。また京が近づくと元気になって。
池田屋事変の時はまさしく赤穂浪士と同じような状況だっただろう。でもそこに山南敬助はいない(涙)。
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by eri-seiran | 2008-06-30 21:48 |  雑記 | Comments(0)

山南敬助&新選組週間ぷらす1日

先週の6日火曜日、TBSチャンネル『新選組始末記』の第15回「総長脱走」から今日の第16回「山南切腹」までの8日間は、山南敬助や新選組に関することが色々とありました。と言うことで、山南敬助&新選組週間ぷらす1日と言うわけです。

6日(火) TBSチャンネル『新選組始末記』 第15回「総長脱走」

10日(土)堺雅人さん、土曜スタジオパークに登場  大河ドラマ『新選組!』について語る

10日(土)~11日(日)ひの新選組まつり(私は参加していないけれど)

11日(日)土方歳三の旧暦での命日&歳三忌(私は参加していないけれど)

12日(月)中之島演劇祭2008 ファントマンによる幕末殉教伝 イエス斬り捨てを鑑賞

13日(火)TBSチャンネル『新選組始末記』 第16回「山南切腹」

はい、先ほど山南敬助@高橋長英の最期を見届けました。あ~体に悪い。涙、涙でした。
映像での山南敬助としては、私にとって№1の山南敬助@堺雅人に続いて、多分に№2となるだろう山南敬助@高橋長英の脱走の回と切腹の回の間に、№1の山南敬助を演じた堺雅人さんが土曜スタジオパークに登場というのもちょっと縁を感じています。またひの新選組まつりの日、土方歳三の旧暦での命日と歳三忌の前日に堺さんが登場というのもなんだかね~

昨日は主人公の岡田以蔵と山南敬助が飲み友達という斬新な発想のお芝居を大阪で観て来ました。ハードボイルドとギャグが融合したお芝居、これが予想以上に良かった。
この芝居の感動の余韻を残しながら、今夜を迎えました。

『新選組始末記』の第15回「総長脱走」についての記事つづきと書いたので、つづきを書かなければいけない?と言うことで、つづきは書けたら書きます。いや書きたい。その後に第16回「山南脱走」について書く予定にしています。
また『幕末殉教伝 イエス斬り捨て』についても書きたい。
と言うことで、順番に書いていくつもりです。
しかし今日はただでさえ仕事で疲れていたのに、山南敬助@高橋長英の最期を観て、さらに疲れたので、寝ます。
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by eri-seiran | 2008-05-13 23:48 |  雑記 | Comments(0)

山南官鼠と南山古梁と山南敬助

山南敬助の山南という姓は本名ではないのでは?と私は思っていて、本名を名乗らなかった、名乗れなかった理由があり、それなら何故に山南と名乗ったかということで、山南という地名とか、知人に山南という方がいらしたとか、色々と探っているのですが、わかりません。

検索サーチで山南敬助でなく、山南で検索すると、山南敬助以外に山南という地名が引っ掛かります。以前に記事にしましたが、兵庫県の丹波市に山南町という地名があります。これはさんなんと読みます。
そして最近、広島県福山市沼隈町に上山南中山南下山南という地名があることを知りました。山南の部分はさんなと読むそうです。最後のが要らないのです。

山南敬助への愛が再び燃え上がった4年前、仙台で山南という地域がないか検索したら、八木山南で引っ掛かり、「あった!」と一瞬大喜びだったのですが、これは八木山という地名にが付いたわけで、他にも八木山東、八木山本町などがあるそうです。
しかし八木山南山南を取ると、八木が残り、八木と言えば、壬生の八木邸であり、単なる偶然ですが、面白いな~と改めて思った次第です。

後、仙台藩の北の地域を仙北、南の地域を仙南という言い方があるとのこと。これについても記事にしていますが、仙の人偏を取ると、山南になること。これは幕末にこのような言い方があったかどうかなんですけれど。

実際に山南という名の人物では、駿河の俳人である山南官鼠(やまなみかんそ)という方がいました。天明2年(1782)に仙台を訪れ、俳句の指導にあたり、松尾芭蕉の句碑を建てました。この人が仙台を訪れてから51年後の天保4年(1833)に山南が生まれており、また山南が俳句を詠む人だったという逸話もないことを考えると、山南官鼠の山南を借用したというのはちょっと結びつけにくい。

それから最近、知ったんですけれど、仙台藩にある瑞鳳寺の住職に相模出身の南山古梁(なんざんこりょう)という方がいます。宝暦3年(1753)の生まれで、山南がまだ子どもだった天保10年(1839)に亡くなっています。
南山を反対に読めば山南です。
南山は住職であるとともに、俳人を初め、多くの文化人と藩内外を問わず、交流があり、彼らの活動を後援したりしていたそうです。山南官鼠が仙台を訪れた時に、南山古梁が30歳。二人が会った可能性も無きにしも非ず。会っていなくても、南山古梁は山南官鼠については知っていただろう。
また交流があった一人に、幕末の仙台藩における尊王攘夷派のリーダーであった桜田良佐の兄であり、子母澤寛の『才女記』に登場する桜田春三郎の父親である桜田景行がいます。
それだけのことなんですけれどね(苦笑)。

山南官鼠と南山古梁、そして南山古梁と山南敬助
なんか縁があるような気がして。
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by eri-seiran | 2008-05-05 17:05 |  雑記 | Comments(0)

143年後の桜

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山南敬助が亡くなった元治二年(慶応元年 1865)から143年後の桜です。
伊東甲子太郎は143年前の桜の季節に山南の死を悼む弔歌を詠んだのだろうか。
山南は元治二年の桜は見ずに亡くなったんだよな。
桜が咲く季節がそこまで近づいていたのに。
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by eri-seiran | 2008-04-07 00:03 |  雑記 | Comments(0)

歌舞伎座120年と言うことからあれこれ

今年は、小挽町の地に歌舞伎座が誕生して120年と言うことです。
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孝太郎さんも120年という節目で、またおめでたいお正月を歌舞伎座で迎えられることは幸せであると仰っています。

私は歌舞伎座誕生120年と言うことから、歌舞伎とは関係ないところに反応してしまいました。

その時、永倉新八や斎藤一は東京に居たんだ

と言うこと。
120年前と言うことは明治22年(1889)。斎藤一については東京にいたのは確かだと思ったんですけれど、永倉新八は北海道と東京を行ったり来たりしていたので、よくわからなかったのですが、調べてみたら、この頃は東京に居たようです。
また明治22年と言えば、西村兼文が『新撰組始末記』を脱稿しています。

私的には斎藤一や永倉新八の歌舞伎鑑賞というイメージがわかないんですけれど、こればかりはわからない(苦笑)。
この1年前の明治21年(1888)の10月14日、中村座へ新選組と関わりがあった松本良順が歌舞伎鑑賞に来ていたことを佐倉藩士であった依田学海が『学海記録』に記しています。
私的には松本良順の歌舞伎鑑賞には納得(苦笑)。
その時に、松本良順が山南敬助の切腹について依田学海に語ったと言うんです。
これについては以前に記事にしています。こちらより

歌舞伎鑑賞で出逢って、山南敬助の切腹について語ったなんって。これを記事にした時、私自身が歌舞伎にはまっていなかったので、そんなことはどうでも良く、松本良順が語ったと云われることだけについてあれこれ考えていたんですけれど、今は何とも言えない縁を感じたり。
この時に出演していた歌舞伎役者として、團十郎と菊五郎の名前が挙がっており、調べてみると、九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎になるようです。
この九代目團十郎と五代目菊五郎は明治時代に活躍したそうで、その二人は同じ明治36年(1903)に亡くなり、九代目團十郎の葬儀を取り仕切ったのが川上音二郎とか。

そして松本良順が歌舞伎鑑賞に来て、山南敬助の切腹について語ったのが10月14日(明治21年のことなので、すでに太陽暦)。
前回、この件について記事にした時には気付かなかったのですが、10月14日と言えば、大河ドラマ『新選組!』にて見事な切腹を遂げる山南敬助を演じた堺雅人さんの誕生日。
偶然のなにものでもないんですけれど、なんだかね~不思議な縁を感じずにはいられませんよ。
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by eri-seiran | 2008-01-28 10:31 |  雑記 | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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