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多摩より帰参、そして明日は壬生へ参上

本日、17時前に江戸を発ち、山南敬助が眠る京に2時間強で着き、在来線に乗り換えて、我が家に無事に辿り着きました。

充実した、中味の濃い多摩・江戸巡りでした。
思いっきり山南敬助に浸って、あれこれ考え、そして時には土方の気分になったりもしました(笑)
色々な意味で、山南敬助に関しての収穫が多々あり、この2日間のことをすぐにでも書きたいのは山々ですが、明日、仕事が早いこと。

そして突然、明日の夕方、壬生に参上しないか?という話しを江戸にて請けて参りました。
何で江戸にて請けるのだ?
それも多摩から帰ってきた次の日に壬生に参上とは驚きです。
そこで帰りの新幹線の中で色々と考えていました。
山南が現代の多摩についてどうだったか?報告に来なさいと私を呼んでいるんだろうな~
土方さんから現代の多摩の様子について山南さんに伝えてくれと託されたのかな~
マジにそう思っています。
土方さんから、行ってきなさい。山南さんに会って来なさいと、背中を押されているような気もします。これもマジに感じています。
すみません!この2日間、思いっきり山南敬助に浸り、土方の気分になったりしたため、すっかり壊れている私です。

江戸を発つ時から明日は壬生に参上だ!と、心の中で決めていたのですが、帰ってきて正式に参上することが決定しました。
とにかく、今回、多摩を訪れたことによって、私の周りで何かが動いている、なにか因縁を感じでおります。

と言う訳で、明日に供えて体力を養うため、自分の気持ちを落ち着かせるため、この多摩・江戸巡りについては後日に書きます。
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by eri-seiran | 2006-01-31 21:36 | 身辺雑記 | Comments(0)

山南敬助も訪れた多摩へ参上

先日の記事で、週の初めに私的に楽しいことが待っていると書きましたが、楽しいこととはこれです。

山南敬助も訪れた多摩へ参上!

明日より一泊二日で多摩へ行って来ます。
山南敬助、新選組ファンとしては、色々と夢がありますが、そのひとつが山南敬助が訪れた多摩へ、それも記録に残っている冬に訪れ、多摩に逗留するということでした。今回は日野中心に回ります。
新選組ふるさと歴史館を訪問し、展示物をじっくり拝み、また佐藤彦五郎邸・道場跡、八坂神社、土方歳三の墓参りなどに足を運びたいと、あれこれと策を練っています。

そして何よりも多摩を訪れた時の山南敬助のことを思い、多摩にて心置きなく山南敬助に浸りたい。
今、私の心はもうすでに多摩へという状態です(苦笑)

もうひとつお知らせがあります。私が多摩に逗留している1月31日(火曜日)1:00AMから10:00AMまで、メンテナンスのためにエキサイトブログのサービスが一時停止され、アクセスできないそうです。ご了承ください。
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by eri-seiran | 2006-01-29 22:41 | お知らせ | Comments(0)

山南敬助が年賀状を書いた日

以前、『山南敬助の遅すぎる年賀状』の記事で書いたように、元治元年(1864年)の1月27日の日付で山南が小島鹿之助に年賀状を書いています。
正確には正月廿七日と書かれてあります。

これについての考察は以前の記事で書きましたので、今日は避けて通ります。
とにかくこの年賀状を最期に、山南敬助は表舞台に立たなくなりました。私は病が理由だったと思っております。
この以前より、山南敬助が表舞台に立った確かな記録はないんですけれどね(汗)
芹沢鴨暗殺の刺客も正確には分からないし・・・

以前の記事で、遅すぎる年賀状の理由のひとつに岩城桝屋事件による怪我を挙げ、この事件については、正月休みに、もう少し勉強した後、詳しく書きますということだったのですが、すみません。未だに書けていません。

と言うのは、毎年、1月から春にかけては仕事が忙しく、先日、冬になると活動的になる山南敬助という記事を書きましたが、「私も山南敬助と一緒じゃん、山南敬助のこと言えないな~」と思った次第です(笑)今回は仕事ばかりでなく、週末はドラマ観賞(『組!』ファンの方なら、どのドラマか、予想できるでしょう)、そして来週の初めに、私的に楽しいことが待っており、心置きなく楽しみたいために、今週はいつも以上に頑張りましたよ。

話しが少しそれましたが、この事件は山南の人生に大きな影響を与えたと思っているので、自分に余裕がある時に、時間をかけてじっくりと書きたいものですから、しばらくお待ちください。しかし期待はしないでくださいね(汗)

とにかく、元治元年(1864年)の今日の日付で、山南敬助が小島鹿之助宛に年賀状を書いたというわけです。
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by eri-seiran | 2006-01-27 22:50 |  出来事 | Comments(0)

『TVnavi』を読んでの雑感

3月号の『TVnavi』は、私的にかなり美味しい。豪華な顔ぶれ。たかがテレビ雑誌であるが、いつもとは違う重みを感じてしまう。
レギュラーの堺雅人さん、山本耕史さんに加え、オダギリジョーさん、そして佐藤浩市さん。
重みを感じるのは、山本耕史さんの「ちょっと休憩しませんか!」のゲストが、『新選組!』で芹沢鴨を演じた佐藤浩市さんだからである。
二人で並んで撮っている写真、山本耕史さんがどことなく緊張しているのが伝わってきて、微笑ましかった。

もう一人のレギュラーである堺雅人さんのエッセーの話しは、『寒―さむいー』である。
堺さんが昔の人の寒さについて触れている。
私もこの冬、あまりにも寒いせいか、時々考える。
京都の夏は蒸し暑い。それは我慢できたとしても、冬は寒かっただろう。
幕末、新選組のメンバーは、京都の気候をどのように感じたのだろうか?
山南敬助なんか、仙台出身であるなら、寒さにも慣れていたのだろうか?
薩摩から来た西郷隆盛なんか、京都の寒さには驚いただろう。
           
昔の服装や建物では、堺さんの仰るようにとてもとても寒かっただろう。
暖房器具と言っても、火鉢くらいのものだろう。
現代人の私たちには考えられない世界である。
生まれた時から、そのような寒さの中で生活してきたら、体感が現代人とは違うのだろうか?と考える。

役者という仕事は、例えば時代劇なら、その当時の生活などを少しでも実感できていいな~と、ちょっと羨ましい気持ちになったが、堺さんの仰るようにロケなどでは寒い思いをしていることを考えると、やはり大変な職業だな~と改めて思った。

堺さんも京都のロケで寒い思いをしているのだろう。
「みなさん、春までがんばりましょうね」には、堺さんの意気込みが伝わってくる。
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by eri-seiran | 2006-01-26 22:16 | 身辺雑記 | Comments(0)

土方歳三と血縁関係にあった橋本政直

昨日の記事で書いた橋本政直(道助)は、禁門の変の時、近藤らが無事であるか?心配で、安否を確認するために、小島鹿之助らと連名で、近藤勇・土方歳三・山南敬助・沖田総司・井上源三郎宛てに書簡を送った一人です。

みなさん、ここまでのポイントをわかって頂けたでしょうか?
そうです。元々の試衛館のメンバーと共に山南敬助の名前があるということです。
それだけ山南敬助は多摩の人たちと親しくしていたということなんです。

ところで、私は橋本政直については、その程度しか知りませんでした。
そこでちょっと調べてみました。
なんとこの方は、小島鹿之助のお姉さんの子ども。と言うことは、小島鹿之助は政直の叔父さんにあたり、また小島鹿之助の奥方は政直の父親の姉か、妹とのこと。また政直の父方の祖母は土方歳三の叔母(伯母)さんにあたり、政直の奥方は佐藤彦五郎の娘とのこと。彦五郎の娘とは、つまり土方歳三の姪になるわけであります。
もう頭が混乱して参りました。
このあたりの血縁関係・人間関係図を書いて整理してみたくなってきました。
とにかく、橋本家も小島家も佐藤家も土方歳三にとっては親戚というわけです。

2004年に小島政孝氏の講演を聞きに行った時、近藤、土方、総司、そして山南敬助が師範、及び師範代として小野路村を訪れた話しになり、総司、山南敬助が師範代として出稽古に来た時、教える人数16人に対して謝礼として一両が支払われていたらしい。しかし土方歳三に支払った記録は残っていないそうです。もちろん土方歳三も近藤、或いは総司と一緒に橋本家などを訪れた記録は残っています。土方は師範代の格ではなかったのか?それとも親戚のために支払われなかったのか?ということを小島孝夫氏が仰っていました。
まあ~この血縁関係を考えると、親戚、つまり身内ということで支払わなかった、或いは受け取らなかったということでしょうか?

私は土方歳三については詳しくないのですが、この方、沢庵が好きなんですよね?
土方はこの橋本家の沢庵が好きで、一樽もらって担いで帰ったという逸話があるらしい(笑)
山南敬助もこの橋本家を訪れた時に沢庵を食べたのかな~なんって、またもやどうでもいいようなことを考えてしまう私です。
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by eri-seiran | 2006-01-25 21:53 |  多摩の人たち | Comments(0)

文久二年1月にも多摩に参上していた山南敬助

文久元年(1861年)1月に多摩の記録に初めて山南敬助が登場すること、文久三年(1863年)1月に浪士組参加の挨拶のために総司と一緒に小島鹿之助宅を訪れたことばかりに気を取られ、また新聞に載っていた山本耕史君の写真を見て、うっとりしていたら、文久二年(1862年)の1月の山南敬助の出来事をすっかり忘れていました。

大した出来事ではないんですけれどね(苦笑)
文久二年(1862年)、1月19日、山南敬助が近藤や総司と一緒に橋本政直(道助)宅を訪問した記録が橋本家日記に残っています。

この橋本政直宅は小野路村にあり、本家であり、この向かいに橋本分家があって、この分家に剣術の道場があったそうです。
3人で、出稽古に来たのだろう。そして翌日の20日、同じ小野路村の小島鹿之助宅に近藤が来た記録が小島家日記に残っています。

近藤だけ???
あれ?山南と総司はどこに行ったの?
二人は他の所へ出稽古に行ったのだろうか?
用事がなければ、きっと小島鹿之助宅に近藤と一緒に行っているだろう。師範代として出稽古に行ったと考えるのが妥当かしら?

この橋本政直も、試衛館、新選組を支え、応援していた一人です。そして山南敬助とゆかりのある多摩の人たちの一人というわけです。

これもやっぱり1月なんですよね~新年の稽古ということもあるのでしょうが、文久元年から文久3年までの3年間、1月には必ず多摩に参上している山南敬助です。
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by eri-seiran | 2006-01-24 22:13 |  出来事 | Comments(0)

日曜日の朝、癒された新聞の記事

久しぶりにゆっくりした日曜日の朝、購読している新聞の日曜版に何気なく目を通したところ、見覚えのある顔の写真が目に入ってきた。
山本耕史君である。

「チカラのひみつ」というコーナーで、自分は何事にもとことんはまるということを語っている。
『新選組!』の撮影中には体を鍛えることにはまったとのこと。
切腹シーンを控えた共演者に腹筋をつくる健康器具を貸し出して、感謝されたとのこと。
そうです。『組!』ファンには、その共演者とは誰のことがすぐわかる。
名前は出さず、このように触れてくれていることが私的には嬉しかった。
耕史君が堺さんに触れてくれると、私はとてもとても嬉しい。これは多分、山南敬助ラヴとしては、「新選組!」の山本耕史@土方歳三と堺雅人@山南敬助の関係の尾をまだ引いているんだろうな~と思う。

小学5年生の時にギターをもらって、その魅力にとりつかれ、最近、ギターを衝動買いしたとのこと。

紅白を終えた直後に大風邪をひいて数年ぶりに寝込んだとのこと。
耕史@土方歳三が一人で全てを背負って箱館まで北上して行き、そこでやっと解放されたように、耕史君もみんなの思いを一人で背負って『新選組!!』の撮影、関連イベントへの参加、それらが無事に終了し、解放されて、ホッとして、これまでのお疲れがどっと出たのかな~
もちろん舞台もあったしね~高知での千秋楽の次の日、京都でのトークショー、本当に寒そうにしていたけれど熱く語っていた耕史君の姿が思い出された。

この記事の耕史君の写真、29歳の男性の方に失礼かもしれないけれど、お姉さんはとても可愛いと思った。

思いのままにギターの弦をはじくときに、何よりも癒されると語っている耕史君。
私にとっては、この記事の耕史君の話しと、かわいい顔写真に癒された日曜日の朝でした。
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by eri-seiran | 2006-01-23 18:57 | エンターテインメント | Comments(0)

秋眠して、冬が来れば活動的になる山南敬助

この1週間ほど、史実の山南敬助に関する記事が続きました。
なぜならば、旧暦で考えた場合、1月に入ると、山南敬助に関することが当時の記録に残っているからです(笑)

私は、このブログを始めた頃から1月になるのを楽しみにして待っておりました。
何故ならば、山南敬助に関する出来事が記録として残っているのは少ないものの、多摩の記録に初登場するなど、殆どが1月から夏に掛けてでございます。
私がブログを始めたのが、去年の10月の中旬。山南敬助に関する出来事があまりなく、出来事を記事にすることは少なかったと思います。

9月から12月に掛けては本当に少ない。9月から12月に掛けての出来事としては、芹沢鴨の暗殺くらいでしょうか?まあ~これも当時の記録には残っておらず、刺客に山南敬助が入っていない説もありますから。
岩城桝屋事件については秋に起きたという見方もありますが、これも確定できる記録が残っていないので分かりません。

と言うわけで、この方は毎年、秋眠していたのではないかと思うほどです(笑)

元治2年(1865年)2月には、それまで1年ほど動向が分からず(静養していたと思うんですけれどね)、突然、長い眠りから覚めたかと思うと、脱走して切腹してしまいますし(私的には脱走については???です)、浪士組として上洛するのも2月です。

山南敬助という人物は、秋眠して、冬が来れば活動的になる方だな~と思う今日この頃でございます。しかし秋以外の季節でも、残っている記録は本当にわずかなんですけれどね(苦笑)
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by eri-seiran | 2006-01-23 00:39 |  山南敬助 | Comments(0)

たかが9.3という数字に見えてくるもの

『新選組!!土方歳三 最後の一日』が放映される前に色々なことが話題になりました。その一つがガイドブックのSold-outでした。そして三谷幸喜氏脚本の『古畑三郎ファイナル』が3夜連続で放映、その最初の1本が『新選組!!土方歳三 最後の一日』の放映と重なるということも話題にのぼりました。それもゲスト出演が総司(藤原竜也)だからね~確か源さん(小林隆)も出ていたんですよね?
なんということでしょう?こんな運命の悪戯があってもいいのでしょうか?

これは12月24日の京都でのトークショーの待ち時間でも、友人や知り合った方々と話題になりました。『新選組!!』は録画したい。しかし3日のリアルタイムで観たい。殆どの方が同じ思いでした。
三谷ファンの方、また『新選組!』を観て三谷ファンになった方など、1月3日を迎え、苦渋の選択でテレビをご覧になったのだろう。

約1週間前のことです。
購読している新聞に、1月2日~8日の関西地区のTV視聴率ランキングが載っていました。
私は『新選組!』の時に視聴率は関係ない。観ている人たちのこのドラマに対する思いはどの番組よりも熱いと思っていました。もちろん、今回の『新選組!!』も視聴率は関係ないと思っていましたし、考えてもいませんでした。しかし観終わって日もだいぶ経って落ち着いてきた時に、視聴率ランキングが載っているのを見ると、やはり気になるものです(苦笑)
『新選組!!』はランキングには入っておらず、1位、2位、4位に『古畑任三郎ファイナル』が入っていました。さすがだな~という感じでした。そして、「入っていなくても観ていた私たちの思いは熱かった!」と、気にしないと言いながらも、自分に言い聞かせていました(汗)
『功名が辻』が予想外に低かったのにはちょっとびっくり。
これら視聴率ランキングについて、特に考察、分析はせず、1日が経ちました。

次の日、知人と『古畑任三郎ファイナル』のゲストの話しになり、あることに気付き、捨てようと思っていた新聞をもう一度出してきて、確かめました。
視聴率ランキングの1位は『古畑任三郎ファイナル ラスト・ダンス』で29.7%、2位は『古畑任三郎ファイナル フェアな殺人者』で27.1%、4位は『古畑任三郎ファイナル 今、蘇る死』で20.4%でした。この1位と4位の差が、なんと9.3%もあるのです。そしてこの4位が『新選組!!』と重なった分です。
まあ~ゲストの影響もあるでしょう。私なら今回のゲストの中では、もちろん藤原君を一番に観たいと思いましたよ。また『里見八犬伝・後編』も他局でありましたからね。京都でのトークショーで、照英さんは『新選組!!』を観ると言い切っていました。

このように色々な背景があったわけですが、そればかりではなく、『新選組!!』の影響もあったはずです。
どちらも諦めきれなくて、『新選組!!』を録画して、後で見た方々もいらっしゃるでしょう。『古畑任三郎ファイナル』を録画して『新選組!!』をリアルタイムで観た方々、また1日のハイビジョン、9日の衛星第2で『新選組!!』を観た方々、或いはその時に録画した方々、みなさん、様々だったでしょう。

たかが9.3%という数字ですが、その数字に『組!』ファンの様々な思いが見えてくる気がします。
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by eri-seiran | 2006-01-22 11:28 | エンターテインメント | Comments(5)

浪士組参加へ~託し、そして託されて~

文久三年(1863年)、1月17~18日、山南敬助と沖田総司が浪士組参加の挨拶のために、小島鹿之助宅を訪れ、その時に山南敬助は浪士組参加への思いを漢詩で詠んだということを記事にしてきました。
この二人の訪問より2日前の15日に土方歳三、1日前の16日に近藤勇も同じように小島鹿之助宅を訪問したことが「小島家日記」に残っています。

この時、近藤勇は鎖帷子、土方歳三は刀一振を小島鹿之助から借りたことが日記に書かれています。

本人らが貸してほしいとお願いしたのか、小島鹿之助が餞別として貸したのかは分かりません。
私的には小島鹿之助が餞別として貸したのではないか?と思っています。
小島鹿之助は山南敬助より3歳、近藤より4歳、土方歳三より5歳年上。井上源三郎より1歳年下です。
小島鹿之助も一緒に浪士組に参加したかったのではないでしょうか?
しかし小野路村寄場名主ということなど、自分の立場上、浪士組への参加は断念したのではないだろうか?そこで近藤らに自分の志も託すという意味で、鎖帷子、刀一振をそれぞれに貸したのでは?と思うのです。
また浪士組に参加するには、持ち物が不十分だと思ってこれらの品を貸したのでしょうか?

いや~近藤、土方より貸してくれと頼んでこれらを借りたと考えるのも、なんか微笑ましくていいな~

私的には鎖帷子がすごいな~と思うわけです。近藤はこれを着けて不逞浪士らを斬ったのだろうか?

そこで山南には何か餞別はなかったの???と思うわけです。
まあ~物ではなく、漢詩を残しているように、お互いの気持ちは通じ合っていたのでしょう。また小島鹿之助が何か餞別として渡そうとしたが、山南が断ったかもしれないし・・・そのように思いたい一方で、やはり元々多摩出身の近藤や土方との違いなのかな~とか、思う次第です。ここはあまり深く考えないようにしましょう(苦笑)
(書きながら、思わず、『新選組!』の30話で近藤・土方・総司・源三郎という元々の試衛館の4人で祝っているところに山南が現れるシーンを思い出してしまいました)

とにかく、山南も近藤も土方も浪士組への参加には熱い思いがあり、また小島鹿之助に限らず、佐藤彦五郎など多摩の天然理心流門人たちには同じように熱い思いがあったのだろう。彼らは近藤、土方、山南らに託し、彼らは託されたのではないでしょうか?

上洛前の山南ら、そして多摩の人たちの行動や思いなどを考えると、上洛してすぐに、また何も働かないうちに、清河八郎に従って江戸に帰ることなんって、とうていできなかっただろう。
自分らだけでも残ると決めた彼らの気持ちがこれまで以上に分かるような気がします。
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by eri-seiran | 2006-01-21 19:06 |  多摩の人たち | Comments(2)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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