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赤ワイン、そしてエネルギーの源のはなし

先週は休日出勤をしたり、山南の命日である23日以外は残業をしたり、とにかくすごい状況でした。仕事をしているか、ブログの記事を書いている以外は、食事・入浴・睡眠などの最低限の生活をしているという日々。
昨日、やっと久しぶりにゆっくりした休日を迎えました。
そのため朝から、腑抜け状態。
しかし友人が札幌・函館旅行のお土産の赤ワインを持って、泊まりかけて遊びに来ることになっていたので、凄まじい状態になっていた家の掃除を頑張ってして、それで再び疲れて・・・しかし午後になって、ブログの記事を書こうと思い、書き始めたら、元気になってきました。
そうです。このブログ、私の元気の源なんです。
仕事が忙しくても、ブログは無理のない範囲で、できるだけ更新しているのですが、記事を書くことで、仕事のストレスも発散でき、疲れも取れるようなのです。

さてこの友人、京都生まれの京都育ち。大河ドラマ『新選組!』は観ていませんでした。しかし歴史好き。『組!』については語れませんが、幕末についても史実の新選組についても一緒に語れる数少ない関西在住の友人です。
「函館に行ってきた。赤ワインをお土産に買ってきたから、一緒に飲もう」とメールをもらった時には、『新選組!!土方歳三 最後の一日』だけは、観たんだな~と思っていました。そして赤ワインなんって、嬉しい計らいだな~普段は赤ワインより白ワインの方が好きな私ですが、今年になってから、時々、赤ワインを飲みたいと思うようになったのは言うまでもありません。

夕方に友人が赤ワインを持って参上。
しかしその友人、『新選組!!土方歳三 最後の一日』を観ていませんでした。以前、『プロジェクトX』で放映された十勝ワインを飲みたいと思って、買って来たらしい。すみません、『プロジェクトX』は、時々観ていましたが、その十勝ワインについては観ていませんでした。
まあ~飲めたら、良いんです。
美味しかった!赤ワインを美味しいと思いながら飲むことは滅多にない私ですが、本当に美味しかったです。

ワインを飲みながら、延々と新選組と山南敬助について語った昨夜です。
そしてこの友人に言われました。
2004年の『新選組!』から、なんかあなた変わったよね?それまで仕事で大変そうだったけれど、今も大変なんだろうけれど、大変さを感じさせないよね?

そうなんですよ。自分でもそれは感じていました。
本当に今年度は内部異動が激しかったりして、とにかく仕事においては激動の1年でした。
時々押しつぶされそうになりながらも乗り越えられたのは、もちろん仕事仲間の支えや協力があったり、愚痴を聞いてくれる友人たちがいてくれたお陰ですが、『新選組』と山南敬助の影響もかなり大きいです。
会津の藩公行列を観に行ったり、トークショーに行ったり、山南が1月に多摩を訪れた記録が残っているからとわざわざ1月に多摩に行ったりした前後はパワー全開となり、元気でいられるのです。そしてこれらの参上にあたり、友人らとの再会、『新選組』や『組!』などについて友人らと語れる楽しい一時があり・・・ここで私自身、またパワーをもらうというわけですよ。

そして今朝も飲みすぎでちょっと腑抜け状態でしたが、こうして記事を書き出すと回復していくというわけです。
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明日からは3月。年度末という一番忙しい時期に突入です。
でも山南敬助について語ることで、超多忙な3月も乗り越えられそうです。
春はもうすぐです。
きれいでしょう?琵琶湖湖畔に咲く菜の花です。
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by eri-seiran | 2006-02-28 15:09 | 身辺雑記 | Comments(4)

山南敬助の死について~土方と総司の書簡より~

元治2年(1865年)3月1日付けで、土方歳三は佐藤彦五郎に屯所を西本願寺へ移転することなどについての書簡を送っています。
この書簡においての疑問が、山南敬助の死から間もないのに、山南の死に全く触れていないということです。
だから、山南と土方は仲が悪かったという説が出てくる一つの要因にもなってしまっていると思うのです。

土方が書簡で山南の死に触れなかった理由についてです(あくまでも私的な考え)
其の一:もし脱走・切腹説、或いは自害説(自殺)にしても、多摩の人たちとも懇意にしていた山南のあまりもの突然の死、書簡でこのことを説明することはできなかったのではないでしょうか。
この時点で、土方は近いうちに東下りする予定があったようです。だから、その時に詳しく説明しようと思ったいたのではないでしょか。

其の二:切腹、或いは自害(自殺)にしても、近藤、或いは土方が既に書簡(現代には残っていないもの)にて、山南の死を多摩の人たちに知らせていたのではないでしょうか。

次に土方の東下りが決まり、3月21日付けで、総司が土方の東下りについて、そして文末に山南の死をさりげなく書いた内容の書簡があります。ここでの一番の疑問が山南の死を26日と書いてあることと、死因が書かれていない事です。
そこで総司は、一ヶ月経っても山南の死のショックから立ち直れずに誤記したのか、反対に山南の死は総司にとってそんなに重大なことではなかったのかと、言われています。

まず死因が書かれていない理由についてです
其の一:土方の書簡について述べた其の一・其の二と同じです。やはり書簡にてこのことを説明することはできなかったのではないでしょうか。また近藤、或いは土方が、山南の死とその理由を書いた書簡を既に送っていたので、沖田は敢えて書かなかったということも考えられます。
其の二:佐藤彦五郎は山南の死が近いこと、その理由を知っていたとしたら?だから亡くなった日だけを書いたわけです。そうなると、病気とかなどで長くない命であるということになってくるのですが・・・ずっと静養していたと思うので、考えられない理由でもないと思うのですが・・・(あくまでも私的な考えです)

山南の死亡日を26日と誤記した理由についてです。
これが一番難しい(汗)
ショックから立ち直れないほどなら、死亡日を間違えることはないのでは?山南の死がそんなに重大なことでなかったから間違えるということも考えにくいと思うのです。
山南の死について、他のことについては色々と考え、自分の勝手な解釈を述べることができるのですが、これが一番難しい。私にとって山南の死の一番の謎かもしれません(汗)

葬儀については、子母澤寛により24日に行なわれたと書かれていますが、26日、つまり亡くなって3日後に葬儀とは考えられないのでしょうか?亡くなった日と葬儀の日を間違えたということは考えられるのでは?
それとも、ショックとか、重大なことではなかったとか、また葬儀とか関係なしに、総司の単なる誤記???

本当に謎・謎・謎だらけの山南敬助の死です。

最近、はまっているドラマ『時効警察』を観るたびに思うのです。
山南敬助の謎の死という事件。とっくの昔に時効になっている事件かもしれませんが、ぜひオダギリ@霧山修一朗に調べて頂きたい。資料が必要なら、いくらでも私が集めますので(笑)
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by eri-seiran | 2006-02-27 15:04 |  出来事 | Comments(0)

山南敬助の死について~新撰組始末記より~

大河ドラマの『新選組!』にも登場して、丁寧に描かれていたと思う西本願寺の寺侍の西村兼文。
その西村兼文が明治になって残した記録『新撰組始末記』には、山南は西本願寺への移転に反対して、一書を残して自刃した、と書かれています。それも三月下旬に。

また2月下旬の記録に、土方らが屯所移転のために、西本願寺と交渉を開始したことも書かれてあります。

山南が亡くなった、また土方らが屯所移転の交渉に入ったこの時期、西村兼文は西国を旅行中で京に居なかったと言われています。

西村兼文の記録により、山南の切腹の理由として、西本願寺への移転に反対したが、山南の意見を近藤が取り入れてもらえなかったからとも言われています。反対に、山南が亡くなった後に、西本願寺との交渉が本格的に始まったために、西本願寺の移転が山南敬助の死の直接の理由とは考えられないとも言われています。

私的には西本願寺への移転が死の理由ではないと思っています。
しかし山南が死ぬ前に新選組の内部では移転先の候補として、西本願寺の話はあったのではないかと思います。いくつかの候補があって、検討されて、西本願寺が第一候補として上がり、交渉に入ったのではないだろうか?そこにはいくらかの日数が必要でしょう。西本願寺が候補の一つとして入っていた時、山南は生きていたのではないだろうか。
ただ山南がそのことを知っていたか、また知っていても議論できる立場にあったのか?ということになると、その立場には居なかったのではないかというのが、私的な考えです。
以前から度々書いていますが、私は長期間の静養にあったと思っているからです。

そして西村兼文は、山南について直接は知らなかっただろう。後に西本願寺に移転してきた新選組の隊士から山南のことについて聞いたのではないだろうか、だから二月下旬に亡くなったのに三月下旬という誤記をしたのではないだろうかと思っています。

自刃は、切腹という意味に捉えられます。しかし自殺という意味にも捉えられます。そして脱走という言葉は出てきません。
先日の記事、山南敬助の死について~子母澤寛の本より~で、『新選組始末記』で、敢えて自殺説を書いているのは、八木翁、或いは壬生界隈のご老人方にそう聞かれたのではないのでしょうか、と述べました。しかしひとつ見落としがありました。そうです。この西村兼文の『新撰組始末記』のことを忘れていました。西村兼文のこの記録を読んで、子母澤寛が自害説を挙げた可能性はあります。

とにかく西村兼文は、西本願寺に移ってきた新選組隊士のことをあまりよく思っていなかったらしいです。そのために、西本願寺に移転してくる前に亡くなった山南敬助について、移転に反対し、自害した良い方という書き方をした可能性も無きにしもあらずというわけです。
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by eri-seiran | 2006-02-26 21:06 |  本 | Comments(0)

山南敬助の死について~子母澤寛の本より~

永倉新八の『新撰組顛末記』では、遺骸は神葬で壬生寺にあつく葬ったと、書かれている。
子母澤寛の『新選組始末記』では、遺骸は壬生の地蔵寺に葬ったと、書かれている。
同じく子母澤寛の『新選組遺聞』では、光縁寺の墓地に葬りました、また『新選組物語』では、光縁寺墓地内に埋葬したと、書かれている。

光縁寺の過去帳『往詣記』に、埋葬依頼者名、地面料金子、経料金子などが残っている、現に光縁寺に墓石があることから、永倉新八の記憶違いでしょう。

山南敬助の死は永倉新八にどのような影響を与えたのだろうか?
山南敬助と永倉新八の関係って、実際はどんな感じだったのだろうか?
と、そんなことを昨夜から考えています。

フィクション性が高いと言われる、子母澤寛の新選組三部作。
以前、新選組について調べている研究家の方が、80%がフィクションで、残りの20%が壬生界隈の八木為三郎翁やご老人たちから聞いた話しであると仰っていました。
また永倉新八の語りが基本にあるとも言われています。

『新選組遺聞』で書かれてある山南敬助の葬儀の様子については、思わず信じたくなります。
山南の葬式は翌日すぐにありました。(省略)隊士以外の見送りも沢山あり丁寧なものでした。(省略)組の者にも、壬生界隈の人達にも評判がよかった人だけに、本当に惜しまれたのです。(省略)あれだけの人物が、どうして切腹させられるようになったかのか。当時は、
「山南先生は脱走したので隊規により処断されたのだ」といっていましたが、
自分達で新選組をこしらえておいて脱走するとも思えませんし、どうもおかしいことです。
                         『新選組遺聞』(中央公論新社)

私はこの赤字の部分が、先日より気になっています。と言うのは、これより先に書かれた『新選組始末記』には、このようなことが書かれています。

一説には、近藤への書を残して、脱走などはせず、そのまま、前川邸で自殺したとも言うが、要するに、土方歳三との勢力争いが高じて、こんな結果になったものである。
                         『新選組始末記』(中央公論新社)

『新選組始末記』では、一説には自殺したとも言われていると述べています。そして『新選組遺聞』では、八木為三郎翁が脱走するとは思えない、おかしいことであると語っていることを述べています。

この点について、何故、注目されていないのだろう。
確かに子母澤寛の新選組三部作はフィクション性が高いと、私も思っています。
しかし永倉が山南敬助は脱走して、切腹したと語った後に、子母澤寛の本が書かれているのです。敢えて自殺説を書いているのは、八木翁、或いは壬生界隈のご老人方にそう聞かれたのではないのでしょうか。
この本が書かれた頃は、山南敬助の怪我・病気、また長期の静養説は伝わっていない時です。

山南敬助の脱走・切腹説について考えさせられる部分だと思うのですが・・・
こんなことを思うのは、私の偏った見方???
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by eri-seiran | 2006-02-25 00:50 |  本 | Comments(0)

敬助忌

文久3年(1863年)2月23日、山南敬助らは16日間の長旅の終着点である壬生に着いた日です。
そしてちょうどそれから2年後の元治2年(1865年)2月23日、山南敬助が亡くなった日です。享年33歳でした。

今日は山南敬助の141回忌です。

私が山南を好きになった頃は、33歳なんって想像もつきませんでした。また亡くなった山南敬助の年齢を自分が超える時がくるなんって考えてもいませんでしたよ。

去年は1日早い22日に墓参りに行きました。しかし今年は当分、行けそうにありません。

春風に吹きさそわれて山桜ちりてそ人におしまるゝかな

伊東甲子太郎が山南の死後、何日か経った後に詠んだと言われるこの弔歌を感じられる時季に行ってみたいな~

今頃、「やんなはれ」では、山南忌が行われているのでしょうか。
とにかく今夜、私は一人で酒を飲みながら、そして山南敬助の死を語る永倉新八の『新撰組 顛末記』や子母澤寛の『新選組始末記』などを改めて読みながら、静かに過ごします。
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by eri-seiran | 2006-02-23 19:18 |  出来事 | Comments(6)

危うい香りがする2月22日

今日、大事な仕事が無事に終わりました。

この仕事を引き受けることになったのは去年の11月の末でした。最初は、2月22日、この仕事を無事に終えることができたら、2月23日の山南敬助の命日を穏やかに迎えられると思っていました。しかし、しばらくして、2月22日って、山南敬助を好きな者としては危うい香りがする日ではないか!と、いうことに気付きました。

文久3年(1863年)2月22日、京に着く前日の草津宿での出来事です。
山南敬助は、村上俊五郎に『貴公の組は乱暴で迷惑だ。取り締まりなさい。』というようなことを言われたそうです。それに対して山南は『何が乱暴だ。拙者をはずかしめんとて・・・』と烈火のごとく怒り出したらしい。一悶着、起こりそうになったところを鵜殿と山岡が仲裁に入ったそうです。京都に着いてから村上の処置をするということで、山南も納得して、一応その場を収まったとのこと。

元治2年(1865年)2月22日、山南が脱走して大津で総司に追いつかれたと言われている日です。

ねえ~2月22日って危うい香りがする日でしょう?

しかしこれだけ準備していたら大丈夫、怠りなし!と確信して、私は職場を出ました。出張先での大事な仕事の直前、パソコンの確認をしたところ、その時にハプニングが起こったのです(汗)
USBフラッシュメモリーに入れてきたデータが消えているではありませんか!職場を出る直前に、一緒に来た後輩がデータを確認したいと、そのデータを開いたのですが、その時にどうもおかしくなったようです。一緒に来ていた別の後輩が職場に電話をして、データを出張先のパソコンに送ってもらい、解決。はい、なんとか無事に仕事を終えることができました。
あ~やっぱり危うい香りがする日だ!!
しかし無事に終えられたのは、即座に対応してくれた職場の人たちのお陰です。

そして1月30日に日野の高幡不動尊に行った時、この仕事が成功しますように。
2月1日に光縁寺に行った時には、大事な仕事を抱えています。成功するように見守っていてくださいとお願いしてきました。私のお願いを聞いて下さったようです。

とにもかくにも、明日は山南敬助の命日。穏やかに迎えることができそうです。
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by eri-seiran | 2006-02-22 21:08 |  出来事 | Comments(0)

元治2年2月21日 何を思い、何を考えていたのだろうか?

元治2年(1865年)2月21日 
山南敬助はどこにいたのだろうか?
健康状態はどうだったのだろうか?
何を思い、何を考えていたのだろうか?

そんなことを数日前から考えていました。

脱走説が史実であれば、やはり壬生にいたことになるだろう。
本気で脱走する気があれば、健康状態は良かったのだろう。
健康状態がまだ良くなっていなかったとしたら、初めから捕まるつもりで脱走したのだろうか。
また山南自身にとって思慮に欠けての行動であったなら、自分の健康状態のことなんか考えていなかったのではないだろうか。その結果、体力的にやはり無理で、大津で総司に追いつかれたのかもしれない。

もし本気で脱走する気であれば、何を思い、何を考えていたのだろうか。
新選組の進む道と自分の進む道が違ってきたから、もう自分は新選組にはいられないというギリギリの状態だったのだろうか。
近藤や土方らとは、これ以上一緒にやっていけないと思ったのだろうか。
試衛館で同じ釜の飯を食べてきた仲間たちのことは考えたのだろうか。
自分が脱走することで、何かを変えられると思ったのだろうか。
本気で逃げられる、或いは江戸に帰れると思ったのだろうか。

もし脱走説が史実でなければ・・・
静養のために大津にいたのではないだろうか。そこに沖田が迎えに来たのではないだろうか。
壬生にいたとしても、健康状態はよくなかったのではないだろうか。剣を使えない体になっていたかもしれない。
静養中のため、新選組の幹部として何もできない自分を責めたのではないだろうか。
近藤や土方らを羨ましく思っていたのだろうか。
静養中の自分は近藤や土方らの厄介者になっていると思っていたのではないだろうか。
伊東甲子太郎の参加によって、自分の居場所がなくなったと感じたのだろうか。

もし脱走説が史実であっても、土方も承知のものだったとしたら・・・
例えば『黒龍の柩』の山南敬助の脱走理由。
山南、土方はそれぞれに何を思っていたのだろうか。

すみません。すべて私の勝手な想像です。ご了承ください。

明日、22日は山南敬助らが江戸を出立して15日目。最後の宿場となる大津宿まで歩いた日です。そしてその2年後、脱走して大津で総司に追いつかれたと言われている日でもあります。

a0044916_21561452.jpg先日、天気の良い日にドライヴをして、大津で撮った琵琶湖と比叡山と比良山です。私には、とてもきれいな景色に見えました。
文久3年(1863年)の2月22日、元治2年(1865年)の2月22日、彼は大津にいて、琵琶湖を見たかもしれません。もし文久3年の2月22日に、琵琶湖を見ていたなら、とてもきれいに見えたことでしょう。もし元治2年の2月、同じように琵琶湖を見ていたなら、どんな風に見えたのだろう。2年前とは随分違う景色に見えたのでしょうか。
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by eri-seiran | 2006-02-21 22:00 |  出来事 | Comments(0)

山南敬助の中山道の旅~近江へ~

昨夜、2月19日の大河ドラマ『功名が辻』のオープニングで、岐阜から京都までの距離が120キロ、馬であれば1日、徒歩で丸3日、掛かると言っていましたが、偶然にも、文久3年(1863年)2月19日、山南敬助らは、今の岐阜県岐阜市である加納宿にて一夜を過ごしました。

そして2月20日、加納宿を出立して、関ヶ原宿を通り、柏原宿まで歩きます。柏原宿は現在の滋賀県米原市です。以前は坂田郡山東町と言われていましたが、市町村合併で米原市となった次第です。
加納宿から柏原宿までの距離は、約38キロです。天下分け目の関ヶ原を通る時には、きっと話しも弾んだでしょう。色々な思いもあったでしょう。

いよいよ今で言う近畿に入るというわけです。滋賀県は勘違いされることもあるのですが、近畿地方になります。

山南敬助らが浪士組として上洛するために、伝通院を出立してからの行程をこれまで時々、記事にしてきました。しかしそれぞれの宿場の風土はどんなものだったのだろうか?今日の道程はアップダウンがきついのだろうか?など、なかなか想像つきにくいものがありました。
私が関西住人ということで、この辺りから想像しやすくなってきました。岐阜から柏原宿に行くまでに伊吹山が見えただろう。柏原宿から京に向かって歩く途中、桜田門外の変で非業の死を遂げた井伊直弼の居城であった彦根城が見えただろう。史実の山南敬助らもこの事件については色々と思うところがあったことでしょう。だから彦根城を見て何か感じたはずです。また琵琶湖の向こうにある比良山、比叡山も見えてきたでしょう。あの比叡山の向こうに京の町があるということを思いながら、歩いただろう。道は割と平坦で歩きやすかっただろうなど・・・
そして長い旅もやっと先が見えてきたと、私自身感じています。きっと彼らも近江の国に入り、京はもうすぐだと感じたことでしょう。
明日の21日は柏原宿から武佐宿(現在の滋賀県近江八幡市)までの約37キロ、明後日の22日は武佐宿からあの草津宿を通って大津宿まで34キロを歩き、23日に大津宿から京都に入り、壬生に向かいます。大津宿から三条大橋までが約12キロなので、壬生までの距離を考えると、15キロ前後でしょうか?
武佐宿では、旅も終わりに近づき、滞りなくきているということなどから、祝い酒が振舞われたらしい。

ところで、私は彼らが1日に40キロも歩くことがあるということに驚いていたのですが、先にも述べたように、『功名が辻』で岐阜から京都までの距離120キロ、昔では丸3日掛かったそです。と言うことは1日40キロ歩くことになります。1日40キロ歩くということは、昔では当たり前のことなんだと教えられました。

ちなみに日本橋から京都の三条大橋までの中山道の距離は約533キロと言われています。彼らは伝通院を出立して中山道に入っており、また壬生まで歩いたので、実際に彼らが歩いた正確な距離はわかりませんが、日本橋から三条大橋の中山道(草津で東海道と合流します)の距離で考え、彼らが16日間掛けて歩いているので、それで計算してみると、1日平均が33キロ強になります。20キロ弱しか歩いていない日もあるようなので、その日によって歩く距離にはかなり差があったようです。
昨日の話しでは、岐阜から京までは3日で行ける距離のようですが、山南敬助らは4日掛けて歩いています。長旅の終わり、ちょっと余裕を持ってという感じでしょうか。
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by eri-seiran | 2006-02-20 16:57 |  出来事 | Comments(2)

なんと山南忌が開催されるそうです

「幕末・京都のたび」を企画され、「前川邸に一緒に行きましょう!」と、誘って下さったやんなはれのGさんから、前川邸訪問の約1週間後にお電話を頂きました。
前川邸訪問をした時に、山南敬助中心の当ブログの話しをしていたものですから、ブログのアドレスを教えてほしいということでした。そしてやんなはれの方もリンクさせて頂くことになり、遅くなったのですが、先日、こちらの方にリンクさせて頂きました。

今朝、やんなはれを訪問したら、トップページのやんなはれ瓦版になんとすごい企画が書かれているじゃないですか!

2月23日に亡くなった山南敬助を偲んで、
2月23日、24日に山南忌を催すそうです。

行きたい!行きたい!日帰りでもいいから、江戸滞在時間が数時間でもいいから行きたい!
自分のスケジュール表と朝からにらめっこしていましたが、どう考えても仕事の都合上無理。

これまで、総司忌、歳三忌、龍馬忌などは公に行われていいよな~と、僻んでいました。
いいの!私一人で敬助忌をしてあげるから~なんって思ってきたわけですよ。
だから自分が行けなくても、そうやって企画をしてくださること、偲んでくださる人たちがいるということが自分のことのように嬉しくて嬉しくて嬉しくて。
本当ににありがとうございます。

来年もしてくれるかな~
来年は仕事のスケジュールなどを調整して、空けておきますからお願いします(笑)

去年の2月23日、山南敬助の140回忌は酒を飲みながら、一人で静かに迎えました。
今年141回忌も一人で酒を飲みながら、静かに迎えることになりそうです。
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by eri-seiran | 2006-02-19 09:54 |  山南敬助 | Comments(4)

堺雅人さん演じる三九郎と山南敬助

週に必ず観ていたドラマ4本のうちの1本が、昨夜、終わりました。
NHK金曜時代劇『出雲の阿国』です。全6回とは、やはり早い。

主人公の阿国役は『新選組!』では、幾松を演じていた菊川怜さん。阿国が惚れる三九郎を『新選組!』では、山南敬助を演じていた堺雅人さん。『新選組!』では、絡みがなかったお二人ですが、今回はたっぷりありましたよ。菊川怜さんの作品は、『新選組!』と、この『出雲の阿国』しか知らないのですが、阿国は可愛いな~と思えました。

さて、『出雲の阿国』で、新しいキャラクターを堺さんがどのように演じるか、楽しみにしておりました。
三九郎は、私がこれまで観た堺さんの作品の中にはなかった新たなキャラクターだな~と思って観始めましたが、2回目辺りから、この三九郎は、『新選組!』の堺雅人@山南敬助と似ていると思いました。
それは、世に出たい。出世したいということです。

三九郎は、阿国を利用して自分が芸人として出世しようという欲がありました。しかしその欲が強すぎてしまい、失敗します。その一方で阿国は踊り手として成長し、認められていきます。

『新選組!』の山南敬助も武士として、国のために成し遂げたい、まあ~武士として出世したいという気持ちがあったわけです。それを近藤に懸けたわけです。土方の場合は少し違います。土方は国のためよりは近藤のためにという思いが強かったでしょう。だから歯車が狂ってきたわけです。

踊り手として成長していく阿国を見ながら、三九郎が言うのです。
「もう手が届かん。」
阿国は三九郎の手の届かないところに行ってしまったわけです。そこには阿国が三九郎との愛が終わり、また新たなる恋にも破れ、それらを糧にして踊り手として成長していった過程があります。

この「もう手が届かん。」と、三九郎が言った時、第33回の『友の死』の山南敬助のあの台詞を思い出しました。
「私はあなたに出会い、あなたに懸けた。近藤勇のため、新選組のためにこの身を捧げてきました。しかしそれはもう自分の手の届かぬところにいってしまった。」

「もう手が届かん。」という言葉が出た時には、三九郎を山南敬助としたら、阿国は近藤勇だったんだな~ということに、気付かされました。
また阿国は、三九郎が一座を出て行ったのは自分のせいだと責めるのですが、鈴木一真さん演じる傳介が阿国に言うのです。「お前は三九郎を超えてしもうた。誇り高い男じゃ。随分辛かっただろう。」
誇り高い男という点でも三九郎と山南敬助は似ているな~と思いました。
だからこそ、自分を見失った時、三九郎にしても、山南にしても、予想もつかない大胆な行動に出るわけです。

もちろん三九郎と山南敬助のキャラはかなり違いますが、このように重なる部分があったというわけです。

昨日の最終回、京を離れて江戸に行き、そして半年後に再び京に帰って来て、阿国と再会します。「終わった。終わってしもうた。」と、三九郎が言います。自分の夢が終わったことを言っているのですが、この言葉は胸に染みました。
一人で去って行った三九郎。その後、どうなったんだろうと思いながら、ラストまで観ていたのですが、ラストを観ながら、その後の三九郎については、やはりそうなるんだね~という感じでした。

ところで、歌舞伎がどのようにして生まれたのかということなど物語としても、興味深く観賞できました。有吉佐和子さんの原作はまだ読めていないので、余裕ができたらぜひ読んでみたいと思っています。
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by eri-seiran | 2006-02-18 21:27 |  ドラマ/映画/舞台 | Comments(2)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


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