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山南が『さんなん』と呼ばれていたという逸話

昨日の記事で、誰が山南敬助の姓である『山南』をやまなみ という読み方で伝えたのか?と、疑問を自分で問い掛けていながら、大事な逸話をすっかり忘れていて、今朝になって、ふと思い出しました(汗)
2年ほど前、堺雅人さんの某ファンサイトでも書かせてもらったことなのに、自分の知っていることは書いたぞ、抜かりなしと思っていました(汗)最近、このようなことが多くて、暑さのせいだろうか?年齢のせい?両方かな~

さて、その逸話とは、子母澤寛氏が『新選組遺聞』にて、御陵衛士の生き残りで、伊東甲子太郎の篠原泰之秦の遺談のこと。

山南は、正式の場合は「ヤマナミ」といったが、隊中では、隊士たちは「ヤマナミ先生」と呼び、同輩は字音をもじって「サンナン」といっていたものである。

             『新選組遺聞 新選組三部作』(中央公論新社)より


しかしこれについては、疑問もあるようです。
『新選組日誌 上 コンパクト版』においては、『山南』の読みがさんなん であったために、逆の理由付けをしたのではないかと、解釈しています。
『新選組銘々伝 第四巻』(新人物往来社)において、山南敬助について書かれた清水隆氏は、篠原泰之進は明治44年に没しており、大正12~13年頃から、新選組に興味を持ち出した子母澤寛が篠原に直接会って聞いたりする機会はなく、嗣子の秦泰親からの又聞きであると解釈しています。

ここで話は少しそれますが、維新後、篠原泰之進は秦林親(はたしげちか)と名乗っており、『秦林親日記』を残しております。また明治22年に『史談会』というものが設立され、史談会の例会を開き、幕末維新を生きた人たちから、直接、話しを聞いて、その談話をまとめたものが『史談会速記録』です。秦林親(篠原泰之進)も明治32年に史談会の例会に招かれて話しをしていますが、私の手元にある書籍においては、御陵衛士の結成や油小路の決闘などについて語っている部分が載っていますが、山南については触れていません。
『史談会』では、他にも関心ある方々が語っています。この『史談会速記録』の復刻版が刊行されているようなので、読んでみたいと思っていますが、かなりの量みたい(汗)

さて話しを戻し、篠原泰之進(秦林親)が、同輩は山南のことを字音をもじってさんなん と呼んでいたと言う説ですが、局長の次席にいる方を同輩と称し、さんなん などと気安く呼べる人がどれだけいたか?副長助勤より下位である島田魁が、山南のことを三南と記録してあることから、さんなん が本来の呼び方であったと考えざるを得ないと、清水氏は述べております。

同輩と考えた場合、試衛館のメンバーが浮かんできます。試衛館の時代、年齢の近い近藤や土方、年上の源さんが、愛称としてさんなん と呼んでいたということは考えられます。また多摩の小島鹿之助や佐藤彦五郎らも同じようにさんなん と呼んでいたということも考えられます。だから多摩の古谷優之助が、山南のことを三南と書いているとも考えられないわけでもありません。近藤や土方らが、さんなん と呼んでいたから、年下であり、後の新選組幹部である永倉や総司らがさんなん さん(先生)と呼んでいたかもしれない。

ただ篠原泰之進の遺談には、他に疑問に思っていることがあります。篠原泰之進は伊東甲子太郎らと一緒に、元治元年(1864年)10月に江戸を出立し、京に入っていますが、この方は、同時期に伊東らと一緒に新選組へ正式に入隊していないのです。それは、11月に作成された長州出兵に備えての行軍録に伊東らの名前はあるものの、篠原の名前がないこと(山南も静養中のためにありません)。また本人が『秦林親日記』において、自分は所用にて、翌年5月まで大阪に滞在したと書いてあるのです。慶応元年(1865年)7月頃に作成された隊士名簿『英名録』には、篠原泰之進の名前が書かれています。伊東らと正式入隊しなかったのは、新選組への入隊について慎重になっていた、また形勢を伺うために近畿地方を奔走していたことが理由らしいです。
そこで何が疑問かと言いますと、山南敬助は元治2年(1865年)2月23日に亡くなっています。と言うことはですよ、篠原が新選組に正式入隊するまで(新選組の屯所に居座るまで)に、山南は亡くなっているわけですよ。つまり、山南との接触は殆どなかったと考えられるわけです。いや、全くなかったと考えてもいいのかもしれません。
そしたら、山南のことを字音をもじってさんなん と呼んでいたということを篠原が言っていたなら、この篠原もそのことは後になって、他の方から聞いたということになります。

すみません。書いていて、自分でもなにがなんだかわからなくなってきました(汗)
とにかく、山南は正式の場合、やまなみ と呼ばれていたが、同輩は字音をもじってさんなん と呼んでいたという逸話があったということです。
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by eri-seiran | 2006-07-31 16:28 |  山南敬助 | Comments(0)

山南敬助についての疑問 其の一

山南敬助が好きで、色々な書籍を読んだり、調べたりしているわけですが、どうしてもわからないことがあります。それも初歩的なこと。
其の一として、山南の姓について、誰がやまなみという読み方で伝えたのかということです。最初にやまなみと誰かが読んだから、現代にそう伝わっているわけですよね?
最近では、さんなんという読み方の説が有力になってきているように思います。それはやはり、多摩の人、島田魁、西村兼文などが、山南のことを『三男』『三南』という漢字で記録に残しており、これは山南の当て字であり、さんなんと読む方が有力視されてきたわけです。しかし何故早い段階で、さんなんと読むんだという解釈が有力にならなかったのか、不思議で仕方ないのです。

西村兼文が明治の初年に書いた『近世野史』において、芹沢鴨暗殺者の一人に三南三治郎という方を挙げており、これは山南のことであるわけです。また明治22年の『新撰組始末記』でも、山南のことは三南と書いております。新選組の語り部の一人である西村兼文が、山南のことを『三南』と書いてあるわけですよ。何故それが早い段階で取り上げられなかったのだろう?

明治44年、小樽の新聞記者が永倉新八に新選組について取材をして、それが2年後に『永倉新八』というタイトルで「小樽新聞」に連載され、また新八の13回忌の時、編集して非売品として有志に配られたのが『新撰組永倉新八』であり、そして現代になって書籍となって発行されたのが『新撰組顛末記』です。
そこでです。小樽の新聞記者が永倉新八に取材した時に、新八は『山南』のことをやまなみと言ったのか、さんなんと言ったのか、どちらだったのだろうか?疑問に思うわけです。
明治44年、新八は72歳です。出来事とか、それについての詳しい中身は、年月が経ち、記憶も定かではなくなるだろう。だから、明治の早い段階で書いた『浪士文久報国記事』との多少の違いが出てくる。それは仕方ないことです。しかし同じ釜の飯を食った同志の姓の読み名を忘れるということは考えにくいと思うのです。『浪士文久報国記事』は、『新選組日記 永倉新八・島田魁日記を読む』(著者:木村幸比古 PHP新書)において、書籍として出版されていますが、原文も載っています。但し、原文の山南のところに振り仮名はありません。

もうひとつは、子母澤寛氏の書籍においてです。『新選組始末記』や『新選組遺聞』はこの『新撰組永倉新八』がベースにあるとも言われていますが、八木為三郎に話を聞いたのも史実。八木為三郎は、山南のことをやまなみと言ったのか、さんなんと言ったのか、どちらだったのだろうか?子母澤が為三郎に話しを聞いた時、為三郎も高齢になっています。しかし間違えるだろうか?原本については分かりませんが、現代になって書籍として出版されたものには、やまなみと振り仮名がつけてあります。

新選組研究の第一人者であると言われている平尾道雄氏の『新撰組史録 新装版』(新人物往来社)には、振り仮名はつけてありません。これも昭和3年(1928年)に出版された原本には振り仮名があったかについては、分かりません。この方は、近藤勇五郎(近藤勇の甥で、娘タマのお婿さん)を訪ねて、話しを聞いていらっしゃるようです。

どちらにしても、読み方がさんなんだったという100パーセントの確証もなければ、やまなみだったという100パーセントの確証もないわけです。
しかし最初に書いたように、『三男』『三南』という記録が残っていることを考えると、さんなんの方が有力になるよな~と私的にも思います。
土方、沖田、永倉、原田など試衛館派のメンバーの姓名にも当て字が使われている記録が残っていますが、読み方まで悩むものではない。
例えば土方の場合、土方年蔵とか、永倉の場合、長倉新八とか、悩まなくて良いですものね~その通りに読めますから。
何故、この方の姓の読み方は、ここまで悩むことになってしまったのだろう?
山南という姓自体、珍しいことが原因にもなっているのだろう。試衛館派の他の方の姓は素直に読んだら良いですから。

どのような経過で、やまなみという読み方が伝わってしまったのか?
誰が伝えたとか、残っていないですよね?
という訳で、疑問に思っている今日この頃です。
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by eri-seiran | 2006-07-30 17:35 |  山南敬助 | Comments(2)

『新選組!!コメンタリーキャスト』

一ヶ月ほど前、やっと『新選組!!コメンタリーキャスト』を購入して、『新選組!!土方歳三 最後の一日』のDVDを観ながら、聞きました。
そして記事にしよう、しようと思いながら、今日になってしまいました。

いや~楽しかった。
そんな風にして撮影されたのか~、ここにはそんな意図があったのかとか~、山本耕史君はこんな思いがあったのか~とか、吉川邦夫さん、三谷さんにはそんな思いがあって、そんな風に描いたのか~とか、そこまできちんと調べたんだ~とか、撮影は本当に大変だったんだね~とか、色々なことが分かったり、また改めて感じたりしました。
そして山南敬助についても語ってくれて、とてもとても嬉しかった。

ここからはネタバレあり
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by eri-seiran | 2006-07-29 00:50 |  ドラマ/映画/舞台 | Comments(0)

エリック・ストルツについてフォローしておきたい

先日の記事『胸キュンバトン』において、エリック・ストルツについて「かなりマイナーですので」と書いたことを後悔。マイナーは事実だけれども、かなりが余計だよな~とか、反省しております。
だってあんなに好きだったのに。2004年を迎えるまでは・・・約20年の山南敬助への想いが爆発するまでは・・・

この方、インディペンデント系の映画などへの出演が多く、日本では公開されない映画も多いのです。メジャーな映画としては、『パルプ・フィクション』(1994年)、『若草物語』(1994年)、『レジェント・オブ・ヒーロー ロブ・ロイ』(1995年)あたりかしら。これらは日本でも公開されていると思うのですが・・・後、『スリープ・ウィズ・ミー』(1994年)も大好き。この映画については、出演と製作の両方を兼務しております。この方が出演している映画のDVDなどは、買ったり、テレビで放映されたものをダビングしたりして、結構、持っております。一度、どうしても観たい作品があったのですが、日本では公開されず、DVDなども売られていなかったので、アメリカのインターネットショップでビデオを買いましたよ。日本語字幕はもちろんついておりませんので、内容があまり理解できませんでした(苦笑)しかし素敵なエリックに会えて満足。

a0044916_20194267.gifそして一番好きな『メンフィス・ベル』(1990年) 第2次世界大戦時の実話を基にして作られた映画であり、青春群像劇であります。青春群像劇に弱いのよね~私。
これが『メンフィス・ベル』でのエリックです。役柄は大学卒業時の年齢位になっておりますが、エリック本人は29歳くらいです。とても素敵なんですけれど、ビジュアルとしては、1990年代半ば頃のセミロングのエリックが私的にはラブ。
この映画で、仲間から、ダニーボーイって呼ばれているのですが、映画のシーンで、仲間の一人を演じていたミュージシャンでもあるハリー・コニック・Jrが基地でのパーティーで、ピアノを弾きながら『ダニーボーイ』を歌うシーンがあって、これが最高なんです。エリック演じるダニーボーイが照れちゃって。可愛いんだ~

以前、外国人役者で新選組のキャスティングをしたら誰がいいだろうという話しをしたことがあったのですが、若い頃のエリックなら、藤堂平助でいけるな~と、私的には思ったり。

そして最近のエリックですが、アメリカの映画やテレビなどそれなりに出演しております。去年のテレビドラマ『The Triangle』でのエリックの映像を観ることが出来、役柄からなのか、44歳位には見えました。あ~素のエリックが観たいな~
とにかく、ちょっとエリック・ストルツについてフォローしておきたかったものですから(笑)

本当に2004年を迎えるまでは、日本の若手の役者を全く知らない状態で、堺雅人さん初め、藤原君など、誰?状態でした。ごめんなさい。『新選組!』のキャスティングを聞いて、試衛館派のメンバーで、名前と顔が一致したのは、香取君と勘太郎君のみ。耕史君も怪しい状態でした(汗)
変わるものですね~最近では、アメリカやイギリスの若手の役者がわからなくなりましたから。以前は、映画雑誌『PREMIERE』を定期購読して、情報を得ていましたが、定期購読を辞めたから。
それに代わり、よく買うようになったのが、日本の演劇界に関する雑誌。今日は、本屋さんに行って、『TVnavi 9月号』と『Top Stage vol.37』を購入して、ルンルンで帰ってきましたから。信じられませんよ。
でも、やっぱり44歳のエリック ストルツも好きだからね。今夜は、夕食を取りながら、久しぶりに『メンフィス・ベル』を観ようかしら。
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by eri-seiran | 2006-07-27 20:26 | エンターテインメント | Comments(0)

『胸キュン』バトン

気がつけば、神変紅丼のレッドさんから『胸キュン』のバトンを託されて、1週間以上が経ってしまいましたよ。
『胸キュン』って、若い頃と今とはなんか違うよな~とか、でも基本は変わってないかな~とか、飛行機の中でちょっと考えたりしていました。
恥ずかしい気持もありながら、とにかく素直に答えてみたいと思います。
Let's go !

【Q1】 胸キュンするポイント

背中でしょうか?色々な経過からその人を好きになって、その後でその人の背中に胸キュンという感じなのですが、この理由が大学の心理学の授業を受けていた時にわかりました。
小さい時から、父親が自転車の後ろに乗せて、色々な所へ連れて行ってくれました。父親の背中に抱きつき、父親の背中を見て育ってきたわけです。男の人の背中に胸キュンは、どうもここからきているようです。
これは身近な場合ですが、そうでない場合、タレントか、歴史上の人物とかの場合は、ヒーローでない無い方、二番手、三番手の方です。
役者さんの場合、演じたキャラクターから胸キュンになっていくケースが多いのですが、その場合、主人公ではなく、主人公の友だちとか、本当に脇役とかを好きになるケースが多い。いや~殆どそう。意識しているのではなく、自然にそうなるわけです。山南敬助が好きな理由とか、好きになったところもそこからきていると思うのです。もし山南敬助に惚れなかったら、土方や沖田ではなく、永倉・斎藤・左之助・平助辺りに惚れていたかもしれません。
これも小さい時、リカちゃんシリーズでリカちゃんを買わず、友だちのいずみちゃんを買ってもらって満足していたというところから始まっているような気がします。

【Q2】 憧れの胸キュンシチュエーション

山南敬助との約140年ぶりの邂逅。または自分の前世は山南敬助を慕っていた女性だと感じられる時(笑)
ごめんなさい。他に思いつかなくて・・・でも素直なところなんですけれどね~

【Q3】 胸キュンする言葉

「今度の○日は、あいている?」
或いは
「じゃ~また」

特別な言葉ではなく、ごく自然な、いつでもよく使う言葉だったりします。「じゃ~また」は、また必ず会えるという希望を持たせてくれるわけで、胸キュンというよりは安心感を与えてくれる言葉でもあります。

【Q4】 聴くと胸キュンしちゃう曲

I Just Called to Say I Love You     STEVIE WONDER
Shape Of My Heart               BACKSTREET BOYS
TIME TO SAY GOODBYE           SARAH BRIGHTMAN

【Q5】胸キュンする5人

堺雅人さん
この方が演じる山南敬助に出会う少し前に、映画『壬生義士伝』の沖田総司に出会い、やられてしまいました。そこで初めて堺雅人という役者、この方が山南敬助を演じる方なんだということを知りました。そして『新選組!』で、再びやられて。最初の頃は、「堺雅人さん、山南をここまでメジャーにしてくれてありがとう!」という気持だけだったのですが、後からは、「山南敬助が堺さんに出会わせてくれたんだ。山南さん、ありがとう!」と思うようにもなりました。

山本耕史さん
会津の藩公行列に行って、間近で観たあの瞬間から胸キュン。
12月の寒い中、朝早くから並んだり、同じく寒い雨の日野でライヴのチケットを購入するために並んだりしているわけで・・・今は秋に草津宿に来ると言って大騒ぎしており・・・
この方は私にとってパワーをくれる方という感じがします。仕事なんかで落ち込んだりすると、帰りの車の中でこの方の音楽を聴いたりして、気持を切り替えるようにしております。

藤原竜也さん
最近、この方の2004年の映画『ムーンライト・ジェリーフィッシュ』を観て、またテレビで再放送されていたハイビジョンスペシャル『いま裸にしたい男たち』(2001年2月に放映)で、18才のこの方を観て胸キュンでした。

岩本輝雄さん
上記の3人は『新選組!』が大きく影響しているわけですが、全く違う路線から、最近、胸キュンしたと言えば、この方です。まあ~史実の新選組繋がりは少々あるのですが・・・この方の『てくてく旅』が終わってからは、しばらくは淋しい日々が続いていました。

山南敬助
正直、堺雅人さん以外は胸キュンする人として挙げるのにちょっと迷いました。胸キュンとはまた違う感覚のような気もして・・・それで何故、胸キュンする人として直ぐに挙げられないのかしら~と思ったところ、原因はこの方でした。この方への想いが強すぎて・・・ごめんなさい(苦笑)
しかし素直な気持です。

さて私の場合、2004年以前とは胸キュンする人は変わってきています。『新選組!』に出演した役者さんが3名上がっているように、『新選組!』の影響によって大きく変わりました。それまで胸キュンする方は外国の役者さんが多かった。そこでレッドさんのご要望にお応えして、番外編2004年以前の胸キュンする5人にトライしてみます。

Eric Stolts(エリック・ストルツ)
アメリカの役者さんです。かなりマイナーですので、ご存知ない方が多いと思いますが、『メンフィス・ベル』という映画で、主人公ではないのですが、ダニー・デイリーというかなり重要な役を演じており、これでやられました。今、改めて考えてみると、『新選組!』の山南敬助と重なる部分があるな~誰からも慕われ、彼が死の境にある時に、彼をどうやって助けるかということで、それまでギクシャクしていた10人の仲間が一つにまとまる。山南の場合は自分で死を選んで、それで新選組の結束を固めたわけで・・・
この方、最近お目にかかっていないのですが、40歳前、全然そんな風に見えなくて、30歳前でも通るくらいの若さ。今は44歳位のはず。きっと44歳には見えないだろうな~あ~会いたいよ~

Andy Garcia(アンディ・ガルシア)
この方もアメリカの役者さんです。『アンタッチャブル』でジョージ・ストーンというキャラクターを演じました。ラストのシーンで階段から落ちて来る乳母車を足で止めて、銃を階段の上にいる悪人に向けていつでも打つぞというスタイル。これにやられてしまいました。この作品でメジャーになったと言われています。主人公がケビン・コスナー。後、ショーン・コネリーもとても良かったです。

John Malkovich(ジョン・マルコヴィッチ)
この方も同じく、アメリカの方。『キリング・フィールド』で、主人公である新聞記者の友人であり、カメラマンのロッコフを演じているのを観たのがきっかけ。普通なら、一緒行動していた同じジャーナリスト役のジュリアン・サンズの方が男前で惚れると思うのですが・・・マルコヴィッチは悪役からどんな役でもこなしてしまうところも好き。その中でも一番好きなのは、『仮面の男』で演じたアトス役。他のアラミス・ポルトス・ダルタニアンを演じたベテラン役者たちにもちょっと胸キュン。

Emmanuel Petit(エマニュエル・プティ)
外国の役者さんで他にも胸キュンの方は沢山いらっしゃるのですが、そんな沢山の中から二人選べなかったので、スポーツ選手にしました。
詳しいことはこちらの記事より

西崎駿一
すみません!唯一日本人の方ですが、『はみだし刑事情熱系』で風間トオルさんが演じていたキャラクターです。このドラマは長いシリーズ放映されていましたが、特にパートⅡとパートⅢの西崎駿一が好きです。2003年の12月、所用で東京に行った時、このドラマのロケ地に足を運びましたから。しかしながら今思うと、あの時何故、NHKスタジオパークに行っておかなかったんだろうと後悔の念にかられてもいます。

【Q6】今まで生きてきた中で一番の胸キュンは?

色々とあるけれど、一番と言われると迷いますね~
やはり山南との邂逅かな~
ごめんなさい。素直な気持なんですけれど・・・

現実的なところでは、大学を卒業する前、好きな人がレンタカーを借りてくれて、京都をドライヴした時かな~その時には私が京都から他の所へ引越しすることがわかっていたこともあったしね~今とは違って、あの頃の大学生が車を借りてドライヴというのはちょっと大人になった気分もあったのよね~色々な思いがあり、胸キュンでした。

【Q7】胸キュンに名前をつけるなら

難しいな~心酔とか、憧憬とかかな~
山南の場合は敬慕かしら。

【Q8】 胸キュンした時に心の中でする音は?

心の中がいつもと全く違うのですが、それを擬音語にするのは難しいです。

【Q9】 次に回す闘士5人

・『七織ノ記』の七織さん
・『晴れ,ときどきひと休み』のしずくさん

もちろん、スルーしてもらってもOKです。
そして自分の日記などでトライしてみたいと思われる方、どうぞご自由にお持ち帰りくださいませ。
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by eri-seiran | 2006-07-26 01:00 | バトン | Comments(6)

あ~早く帰りたい

ただ今、鹿児島空港にいます。
土曜日より2泊3日で鹿児島の実家に帰っていました。
土曜日、鹿児島の北部が豪雨で大変な状況だとは聞いていたのですが、飛行機は、天候の状況によっては大阪空港まで引き返すか、あるいは宮崎空港に着陸するかということを条件に大阪空港から飛びました。宮崎空港に降ろされても困るんだけれどね~と思いながら、まあ~脅かしだろうと思っていました。飛行機はよく利用するものの、あまりそれほどひどい目に合ったことがなかったので・・・欠航とか、自分が乗り遅れたということはありましたが(苦笑)
飛行機は飛び立ち、四国がきれいに見えていましたが、九州に入ったとたん、天候が怪しく・・・
上空は着陸許可を待っている飛行機でちょっと混雑。20分ほど遅れて着陸体勢に入ったものの、後もう少しというところで上昇へ。あれ?あれ?あれ?
しばらくすると機長からのアナウンスが

「後70メートルというところまで下降しましたが、視界が悪かったために着陸を断念しました。今後のことについては検討します。」

あ~脅かしじゃなかったのね~宮崎空港に降ろされるより、引き返すほうがいいな~
しばらくして、再び着陸することになったとアナウンスがありましたが、他の飛行機が先に着陸するために待っている状態。しばらく九州の上空を旋回してやっと着陸態勢に入り、無事に着陸。思わず、乗客から歓声が出ました。
普通なら1時間程で大阪空港から鹿児島空港まで行けるのに、2時間30分弱掛かりましたよ。
沖縄まで行けましたよ。関西から北に向かった場合、函館まで行けましたよ。

そして今日はこちらの天候は落ち着いたから大丈夫だろうと思ったら、大阪から到着する飛行機が遅れているため、出発が遅れるというアナウンス。
あ~早く帰りたいよ~帰りたいな~
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by eri-seiran | 2006-07-24 16:53 | 身辺雑記 | Comments(0)

新選組グッズあれこれ

話しは、またもや前回の日曜日に京都へ行った時のことです。
今回、三条から四条まで下るのに、新京極通りを歩きました。この通りには、モダンなお店も増えましたが、以前からあるお土産屋さんも建ち並んでいます。
ちょっと気になったのが、新選組の例の羽織。確かに2004年の『新選組!』ブームで、以前よりお店に堂々と売られるようになったものの、2005年に入ってからは2004年ほどではなくなったと感じていたのですが、今日はやたら目に付く。2004年と同じくらいの堂々さという印象がする。もしかして、これはサムライブルーの影響???確かな証拠はありませんが、有り得る。

この通りにも、新選組のピンバッジのガチャポンがあるんですよね~久しぶりに遊んでみる。「総司が出てきますように、総司が出てきますように。」と願いながら・・・
もちろん山南敬助のピンバッジは持っていて、大切に家に置いてあり、また他のメンバーのピンバッジもあるのですが、総司が出てきたことがないのよね~だから総司がどうしてもほしい。しかし源さんでした。源さんのピンバッジは持っているのよね~ 今回は諦め、また次回に。ところでこの新選組のピンバッジのガチャポン、いつまで提供してくれるのだろうか?それが心配で気になるところです。

旧前川邸は休日のため、お店がオープンしていました。『新選組御用達京屋忠兵衛』が閉店して、質の高い新選組グッズが売られている所と言えば、ここです。
なんと『新選組御用達京屋忠兵衛』から旧前川邸へ託されて、土方の和泉守兼定のレプリカがこちらの方に置いてあり、売られていました。
山南敬助をイメージして作られた刀も売られていました。
以前、山南敬助の名前が付く刀が売られておらず、斎藤や永倉、平助らの名前の付く刀が売られているのを見て、山南のものがあったら絶対に買うのにと思っていましたが、今回は見合わせました。

a0044916_2116876.jpg
そこでこんなものを買ってしまいました(苦笑)
山南敬助をイメージした鍔です。そして鍔に描かれているものは竹です。カメラマンが悪くて、バックの布の色や柄が分かりにくいのですが、渋いですよ。
山南の鍔というと、『月明星稀 さよなら新選組』の山南敬助が真の目的以外、剣は抜かないと決め、鍔元を自分の髪で結ったシーンを思い出すのよね~(涙)

これまでも記事で触れてきたと思うのですが、2004年以前は新選組グッズというものを買ったことがありませんでした。自分の中で色々とあり・・・
しかしチェックだけはしていましたよ。伊東甲子太郎の名前があって、なんで山南敬助の名前がないんだ~と、心の中で叫んでおりました。
このようにこれまで買わずに来て、また突然、山南敬助個人のグッズがこれだけ登場すると、これまでのストレスを発散するかのように、つい手が出てしまうというわけです。自分でも恐いですよ(苦笑)

追伸:山南をイメージして作られた刀の値段を書いてありましたが、私の勘違いなどによって、間違いがあったようです。関係者、訪問して下さっている方々にご迷惑をお掛けしました。ごめんなさい。土方の佩刀のレプリカも含め、値段が書かれている部分については削除し、文章を少し換えさせて頂きました。
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by eri-seiran | 2006-07-21 21:29 |  グッズ | Comments(4)

池田屋事変の史跡より気になる肥後藩屋敷の史跡

a0044916_0194115.jpg池田屋事変パレードを観るために、壬生に参上し、パレードを見送った後に、初めて足を運んだ肥後藩屋敷跡の碑です。同じ壬生界隈ですが、光縁寺がある綾小路通より下った仏光寺通にあり、前川邸や八木邸、また壬生寺がある坊城通より東の壬生川通りにあります。つまり他の新選組ゆかりの地より、ほんの少し離れた所にあるものですから、これまでついスルーしてしまって(汗)
と言うか、光縁寺を訪れた後に行こうと思っていても、光縁寺に行った後は舞い上がって、忘れちゃうのよね。今回は旧前川邸から光縁寺に直進しており、途中で思い出し、光縁寺の近くまで来ていながら、引き返した次第です。

なんで池田屋事変の史跡より、この肥後藩屋敷跡の史跡が気になるのかと言うと、こんなことからなんです。

江戸末期、ここに肥後藩の屋敷がありました。その屋敷に上田九兵衛という方がいらっしゃいまして、その方が元治2年(1865年)2月23日に国許の父親に送った書簡が残っているのです。
書簡の中に、前日の2月22日に目撃した出来事が書かれてあります。
そうなんですよ。元治2年(1865年)2月23日と言えば、山南敬助が切腹したと云われている日、2月22日と言えば、山南が脱走したと云われる日です。

目撃した出来事とは、鎖帷子などをつけて抜き身の槍を掲げ、新選組の人たちが40人から50人息を切って走って行った。後で新選組の人に聞いたところによると、新選組の小者が博打をしていたところ、見廻り組に捕らえられたために、彼らを迎えに行ったが、4人ほど連れて行かれたあとで、仕方なく帰って来たとのこと。この混雑は余程のことだったのだろう。

と言うようなことが書かれているわけです(現代文に直してみました)。
なんか変でしょう?新選組の小者たちが博打をしていて、見廻り組に捕らえられたからと言って、そんな武装で、40人から50人の隊士たちが出動するでしょうか?当時の新選組の総員が60人から70人と云われているようです。3分の2ほどが出動していることになります。

そこでです。新選組研究家の中には、脱走した山南敬助の追討だったのではないかという見方をされている方もいらっしゃいます。一方で、新選組の副長(総長)を追討するものとしてはおかしい、これは不測の出来事のための出動だったのだろうという見方をされている方もいらっしゃいます。

副長(総長)でという立場の山南敬助をそんな武装で追討したとはあまりにも悲しいし、辛いですよ。山南を庇うわけではありませんが、山南の追討というのは考えにくいと思うのです。
もし本当に山南が脱走したならば、新選組としては、新選組の副長(総長)という立場の人が脱走したことを公にしたくないはず。倒幕派の人たちが、新選組内部で混乱が起きていることを知れば、今がチャンスとも捉え、何か事を起こすかもしれない。また副長(総長)という立場の山南、そして静養していた、また剣士としての能力を失っていたと言われている山南をそんな武装をして追うだろうか?

ただ山南の脱走を伝えるのは、後世に語り部たちによるものしかありません。山南の脱走と関係あるのか、ないのかは、本当のところはわかりませんが、元治2年(1865年)2月22日の出来事を語る当時の記録としては、とても貴重なものだと思います。

本当は、写真と簡単な説明だけで済ますつもりでいましたが、書き出したら止まらなくなってしまいました(汗)これについてはもう少し深く検証したいと思っています。
また上田九兵衛の日記には、慶応元年(1865年)の10月に、沖田総司・伊東甲子太郎・武田観柳斎が尋ねてきたことが書かれてあり、新選組との縁者とも言える人でもあり、ちょっと興味深い人です。

とにもかくにも、山南ファンとしては、元治2年2月22日の出来事を伝えた上田九兵衛が居た肥後藩屋敷跡の史跡が、池田屋事変の史跡より気になるというわけでした。
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by eri-seiran | 2006-07-20 00:27 |  出来事 | Comments(0)

微妙に変化が見られる池田屋事変の史跡

私が京の町を訪れる場合、JR京都駅からスタートするパターンと、京都市地下鉄の三条京阪駅からスタートするパターンが殆どです。最初にどこへ行くかによってそれは決定するのですが、京の一番の繁華街である三条河原町や四条河原町辺りに行く場合は、三条京阪駅からのスタートになります。

a0044916_2328057.jpg今回はこちらのパターンになりました。
地下鉄の三条京阪駅で降りて、鴨川の三条大橋を歩き、高瀬川を渡って少し歩いた右側に池田屋騒動之址の石碑があります。
まだ山南敬助に惚れておらず、京に来たばかりの頃、歴史・新選組に関心があって、この池田屋事変の史跡を観に行って、これだけ???と、ショックを受けたものでした。




a0044916_23334519.jpg今回、久しぶりにと言っても、2年は経っていない、1年ぶりくらいでしょうか?この前を通ったら、石碑の横に新しいものが出来ていました。これです。
池田屋騒動での殉難者たちの名前と享年、出身地などが書かれてあります。分かりにくいと思いますが、最初が古高俊太郎、次が宮部鼎蔵、北添佶摩、大高又次郎という順番で、続いております。
わ~いつのまにできたんだろう?ちょっとびっくり。
宵山に来ていたと思われる観光客の人たちも足を止めて、見入っていました。

私が初めてここを訪れてから長い年月が経っていますが、微妙に変化が見られる池田屋事変の史跡でした。
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by eri-seiran | 2006-07-18 23:34 | 新選組 | Comments(2)

そこに山南総長はいた

昨日の記事の続きですが、話しは少し遡り・・・
一ヶ月以上前から、7月16日(日)には京へ参上しようと決めていました。
しかしその日の朝、起きるとちょっと体がだるい。体温は平熱でしたが、この暑さでバテ気味、また軽い夏風邪を引いたよう。
朝食を取りながら、なんかしんどいな~
いつもはこのような時、モチベーションは最大限になるのですが、不思議なことに行きたいというモチベーションが低い。しかし行かなければ。
そしてその時に思ったのです。
池田屋事変の時、体調を崩した隊士たちがいて、池田屋事変に参加できなかったと云われていますが、あ~京の暑さに慣れていなかったら、体調を崩してもおかしくないよな~きっと私のこの状態よりもっともっと重くて、熱があって、起き上がれない状態だった人がいただろうな~
山南敬助も岩木升屋事件の怪我で静養して、一度、体調は回復したけれど、京の暑さで再び体調を崩したかもしれない。刀で斬られた傷口が膿んだりしたかもしれない。
自分が夏バテ、夏風邪を引いたからこそ、新たなことに気付いたというわけです。

さて私の方ですが、ABC放送(朝日系列)でその日の未明に放送され、予約録画しておいた『アストロ球団』の第三球を観て、そうだ!ガッツだ!と気合を入れ、昼食を摂り、風邪薬を飲んで、一気に元気になり、モチベーションも上がり、いざ出陣となった次第です。単純ですから、回復も早いんです。

話しを昨日の記事の続きに戻しましょう。
バスに乗った途端、豪雨。すごい雨と雷。バスは四条大宮に向かっていました。そうです、私が目指したのは壬生界隈。
壬生界隈でも、今回は山南敬助の墓参りが第一の目的ではなく、第31回『池田屋事変パレード』を観るためです。
詳しいことは、こちらの京都新選組同好会のサイトより
さて、四条大宮でバスを降り、傘は持っていたものの、凄い雨でバス停から京福電鉄の四条大宮駅まで歩くまでにズボンは濡れてしまいました。そんな状況でありながらも考えていたことは、山南が壬生にいた時にもこんな雨が降り、雷が鳴ったりしたんだろうな~なんって。また蛇の目傘をさして、雨の中、歩いたんだろうな~今まで、壬生でこんな雨に出合ったことが無かったので、またもや新たな妄想(苦笑)
そうそう雨が降る前には強い風が吹き、その風を感じながら、過日承り合わせ候とおり、烈しき風を機会とす・・・の烈しき風とは、こんな風のことだなあ~とかも考えていました。
しばらく四条大宮駅で雨宿り。
10~15分ほどして、小雨になってきた時には15時30分。パレードは壬生寺を16時に出陣だったので、直行で壬生寺へ。いつも壬生界隈を訪れた時には、最初に光縁寺へ行って墓参りするのが自然に作られた自分の決め事としてあったのですが、墓参りもゆっくりしたいので、今回はちょっとごめんなさい。
壬生寺に着くと、雨もかなり小雨になってきました。雨の影響もあったのでしょうが、15時半を過ぎた時間でも人はまばら。これまで、会津藩公行列、ひの新選組まつりのパレードを観てきましたが、観る場所を確保するのに大変な状況でした。しかし今回、場所取りは全く考えなくてもいい状況みたい。まあ~上記のイベントには山本耕史君の参加もありましたから、その影響も大きいものの、パレードそのものの規模が違う。しかし規模は違っても、思いは皆同じです。
因みに前日には、第三回京都祇園祭新選組パレードが行われました。こちらは、会津や日野からも参加され、池田屋から壬生寺までパレードしたようです。

まず私は壬生寺の本堂に参拝。雨がまた少し降っていたので、本堂のところで雨宿り。あ~ここで総司が近所の子どもらと遊んでいたんだろうな~それを山南が見ていたかもしれない。いや~山南だって子ども好きだったと云われていますから、付き合って遊んであげていたかもしれない。あ~またもや妄想の世界。
そんなことを妄想していたら、偶然の再会。関東からGさんがいらっしゃっていました。新選組関連のイベントに行くと、必ずと言っていいほど、約束していないのに再会があるんですよね~

雨も止み、16時が近づいてくると、隊士たちが壬生寺に集まってきました。1番隊から5番隊くらいまであったでしょうか?誰が局長で、誰が副長で、誰が総長なのか全くわからない。まず1番隊から順番に壬生塚にお参りしていらっしゃいました。
見物人は少ないし、音楽などもないし、なんかすごく淋しい出陣式。しかし微笑ましかったのは、隊士たちに「抜刀を今までに経験したことが無い人はいませんか?」と、幹部と思われる人が聞いていたこと(笑)それはいなかったようです。そして16時になると、気勢を上げて、出陣。抜刀などパフォーマンスがここではありませんでした。期待していたのに、残念!
微笑ましい光景が見られたり、ゆるーりとした感じで、それはそれで良かったです。

彼らは、羽織を着て、下駄を履いて、壬生寺から坊城通りを四条通りまで上がり、宵山で凄い人込み、渋滞になっている四条通りを通り、八坂神社に向かって行きました。
彼らを見送った後は、旧前川邸、肥後藩屋敷跡の確認(ここをチェックするのをこれまで忘れていて、今回、初めて確認)、そして光縁寺へ。光縁寺を出た時には既に17時を過ぎており、タクシーで八坂神社へ。四条通りは車が全く動けない状態なので、五条通りの方へ回り道してもらいました。着いたのは、17時半前。パレードの到着予定が17時半だったのですが、まあ~パレードも人込みで遅れて到着するだろうと思っていました。しかし私の考えは甘かった。、私が着くとほぼ同時にパレードも到着。さすが、時間厳守。
ここではかなりの人込み。八坂神社に来ていた観光客、たまたま来ていてパレードを知って待っていた人たち、そして最初からパレードが目的で待っていた数少ない人たち。
到着すると、祇園石段にて記念撮影。そしてここで抜刀と勝ちどきのパフォーマンス。いや~これが見たかった。見たかったんですよ。そして隊士たちは八坂神社に参拝するために移動。参拝の順番を待っている隊士たち。その時に一人の隊士の方に尋ねちゃいました。
「山南総長も伊東参謀もいますか?」って。
答えは、「いますよ。」でした。
池田屋事変パレードに山南も伊東もいました。今回、パレードを観に行った一番の目的はこれだったりするわけですよ(苦笑)何故かと言うと、理由はこちらの記事より
山南総長はあの方だったと思うんです。一応確認できました。

さて、八坂神社では、『号外 瓦版 第三十一回池田屋事変記念パレード』が配られていました。内容は、こちらの方とほぼ同じです。
八坂神社で参拝して、池田屋パレード事変記念パレードは無事に終了。

私の仕事も終わったよ。ここからはちょっと祭りを楽しもう。ここでは、多くの屋台が出ていました。そこで焼イカが食べたくて食べたくて、そしてビールが飲みたくて飲みたくて。
大河ドラマ『新選組!』の第28回「そして池田屋へ」で、原田左之助@太郎と永倉新八@山口が焼きイカを美味しそうに食べていたでしょう?特に左之助。左之助が食べていると、なんでも美味しそうに見えちゃうのよね。というわけで、あのシーンが浮かんできて浮かんできて、お腹も空いてきて、食べたくて食べたくて(笑)
土方歳三@耕史は、左之助らに「よく仕事の前に食えるな」と言っていましたが、私の仕事は無事に終わったから、OK!
しかし焼きイカが売っていなかったのよね~神戸牛の串焼きが売られていたので、それで我慢。自分で自分にお疲れ様ということで、御褒美です。

昨日、京都に訪れた観光客の99パーセントがメインは祇園祭の宵山だったでしょう。この池田屋事変パレードがメインで京に参上した観光客はごくわずかだっただろうな~そんな貴重な観光客の一人です。
朝のあのしんどさがウソのように、午後からは京の町を積極的に動き回り、気持ちよい疲れを感じながら、京の町を後にしました。
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by eri-seiran | 2006-07-17 14:17 |  イベント | Comments(2)

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