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新選組の編成

私にとっては1年間の区切りが2回あります。
新年を迎える時。
もうひとつは新年度を迎える時。つまり明日です。今日で今年度は終わり、いよいよ平成19年度の始まりです。
今日、今年度、最後の仕事を終えて参りました。
新年度の人事の発表もあり、ちょっと複雑な心境なんですけれど、組織で働いている以上、それは仕方がないこと。

新選組の平隊士たちも編成の時はドキドキものだったのだろう。
もし自分が平隊士なら、何番組がいいか?あ~悩んじゃう。
山南敬助が亡くなってから約3ヶ月後に作られた組織新編成から考えると、3番組の斎藤か、6番組の源さんかなあ~大河ドラマ『新選組!』の影響をかなり受けている(笑)。
でもやはり、山南敬助のもとで働きたい。史実においても大河ドラマ『新選組!』においても。
史実においてなら、病に臥せている時期も私が看病いたしましょう。書きながら自分で照れている私(笑)。

元治元年(1864)の長州出兵に備えての行軍録、旗持ちの尾関雅次郎の後ろに土方歳三、その後ろに行軍世話役の島田魁と林信太郎、島田の後ろに斎藤一、林の後ろに沖田総司がという具合に並んでいる。かっこいいな~
ここに山南敬助の名前はない。藤堂平助も永倉新八も。藤堂平助はこの時、江戸に滞在していたため。永倉新八は近藤批判の謹慎処分を受けたため。そして山南は病のために長期にわたって隊務から離れていたため。
しかし藤堂平助も永倉新八も慶応元年(1865)5月下旬ごろに作られた新編成では、復帰している。
一方、新選組の大幹部でありながら、山南敬助の名前が載っている当時の編成表は現代に残っていない。
だから、大河ドラマ『新選組!』の第46回の「東へ」にて、土方歳三@山本耕史が元治元年の12月の編成図を持っていて、そこに

局長 近藤勇
総長 山南敬助
副長 土方歳三
参謀 伊東甲子太郎


と、書かれてあるのを観て涙でした。

山南敬助の名前が書かれた約140年前の編成表が、どこからか出てこないかしら。
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by eri-seiran | 2007-03-31 20:04 | 新選組 | Comments(0)

甲州街道に、春からのエンターテイメント、そして秋の映画

万延2年(1861)1月、山南敬助が新年の稽古を行うために、近藤らと日野に向かう時に歩いたであろう道。また日野での新年の稽古が終った翌日、八王子に向かう時にもその道を歩いただろう。

文久元年(1861)8月、府中宿の六所宮(大國魂神社)での近藤勇の四代目襲名披露の野試合が行われた時もこの道を歩いただろう。またその夜は、府中宿の宿にて盛り上がり、楽しんだと云われている。

そして慶応4年(1868)3月、鳥羽・伏見の戦いで敗れ、江戸に帰ってきた新選組。しかしそこに山南敬助はいなかった。
新選組は甲陽鎮撫隊として、北上してくる官軍と戦うために甲府に向けて通った、そして勝沼での戦闘で敗走して江戸へと帰った道。

その道は甲州街道

時効警察も帰ってきますが、こちらも帰ってきます、街道てくてく旅
去年の秋、中山道を完全踏破した勅使川原郁恵さんが、今度は甲州街道、日本橋から下諏訪までの完全踏破に臨むそうです。放送は、4月23日から。まだちょっと先の話ですけれど。
詳しいことはこちらより

これはかなり楽しみです。山南敬助は、近藤らと共にこの道を歩いたはず。
山南敬助に思いを寄せながら観ますよ。観ます(笑)。

さて、それ以外にこの春から観ようと思っている番組は、先ほども挙げた時効警察です。これはなかなか面白い。そしてもう一つは、孤独の賭け~愛しき人よ~
もちろん、堺雅人さん目当て。
堺雅人さんと言えば、映画『スキヤキ・ウエスタン ジャンゴ』の上映が9月に決定したようです。
こちらのオフィシャルサイトより予告編がちょっと拝めますよ。
この映画、出演者から内容、また雑誌に載っていた写真で見る限りではすごくかわいらしい堺さん。とても楽しみにしているんです。そしてなんと言っても、映画『壬生義士伝』での沖田総司@堺雅人と斎藤一@佐藤浩市、大河ドラマ『新選組!』での山南敬助@堺雅人と芹沢鴨@佐藤浩市が好きな私としては、平重盛役が堺さん、平清盛役が浩市さんとのいうことで、再びこの二人の共演、やり取りを観れることがとても嬉しく。
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by eri-seiran | 2007-03-29 23:01 | エンターテインメント | Comments(0)

山南敬助と多摩

万延二年(1861)
正月十四日 近藤勇、門人沖田惣次郎(沖田総司)ほか一名、および山南啓助(敬助)の総勢四名が来たり泊まる。

十五・十六日
 両日剣術稽古をする。

十七日 近藤ら八王子宿へ出立する。

*以上は『日野宿叢書 第四冊 佐藤彦五郎日記 一』より抜粋。


万延2年(1861)
一月十五日 
多摩の古谷道場で新年の稽古を行う。
三南啓助(山南敬助)が弐本。
土方年蔵(歳三)が弐本。
井上源三郎が一本。

一月十六日
引き続き、稽古を行う。
三男啓介(山南敬助)が一本。
近藤勇が一本。          


文久元年(1861) *万延2年は1861年2月19日に文久元年に改元されている。
八月二十七日 
六所宮(府中の大國魂神社)にて、近藤勇の四代目襲名披露の野試合が行われる。

本陣 総大将 近藤勇
    太鼓  沖田惣司(総司)
    鉦役  井上源三郎

東之方(赤軍)
 後陣玄武 山南啓助(山南敬助)
 旗本衛士 土方歳蔵(土方歳三)

山南敬助は井上一郎と共に、敵方の大将であった佐藤彦五郎を2回戦で打ち取る。

文久2年(1862)
1月19日 山南敬助が、近藤勇、沖田総司と共に小野路村を訪れる。

文久3年(1863
1月17日 山南敬助が沖田総司と共に小野路村の小島鹿之助宅を訪れる。

1月18日 山南敬助が沖田総司と共に小島家を出立する。

*以上は、『新選組日誌 コンパクト版(上)』に書かれてあるものを、山南メインにして要約。


山南敬助が多摩を訪れた記録をちょっとまとめてみたかった、ただそれだけのことなんですけれどね。
佐藤彦五郎日記は、万延2年(1861)2月より元治元年(1864)年の10月まで未確認なので、文久2年1月に小野路村、文久3年に小島鹿之助宅を訪れた前後に日野宿の佐藤彦五郎宅を訪れた可能性は十分にあると思います。特に文久3年の時は、浪士組に参加することになり、京に行く前に挨拶に来たわけです。総司も佐藤彦五郎には世話になっていたことだろう。だから二人で日野宿の佐藤彦五郎宅も訪れただろう。そしてもしかしたら、土方と佐藤彦五郎宅で会ったかもしれない。一緒に宴を楽しんだかもしれない。

現在、山南が多摩を訪れた記録が残っているのはこれだけですが、日記に書洩らしもあるかもしれない。訪れた回数は、未確認の佐藤彦五郎の日記も考えて、もっとあるだろうと私的には思っています。

山南敬助が多摩を訪れた時に、一緒にその場にいた試衛館派のメンバーを敢えて挙げました。近藤や土方らを介してか、あるいは佐藤彦五郎や小島鹿之助らを介して、多摩という土地は山南敬助にとって第二の故郷と言うには大袈裟かもしれないけれど、何度も通ったとても馴染みのある土地だっただろう。
残っている記録に京へ行くまでに、試衛館派で元々の天然理心流のメンバー以外に多摩を訪れた記録が残っているのは山南だけです。
京に行った以後も、残っている記録から、多摩の人たちが山南のことを元々の天然理心流のメンバーと同様に思っていたと感じられたりします。

ごめんなさい。記事をまとめられない状況になってきました(汗)。
とにかく、そんな山南敬助にとって多摩は、大切な人たちがいるちょっと故郷のような場所だったのではないだろうかと思うわけです。
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by eri-seiran | 2007-03-28 20:54 |  多摩の人たち | Comments(0)

『新選組!』再観賞 第19回

大相撲三月場所が終ったので、今日から『新選組!』も再放映開始。第35回『さらば壬生村』からです。私の方は、昨日、パソコン君がやってくるのを待ちながら第19回を観ました。

第19回『通夜の日に』

文久3年(1863)4月8日

お世話になっている八木源之丞久さんの奥方の雅さんの実母である久さんが亡くなり、その通夜を浪士組が取り仕切きることになりました。その通夜で、芹澤鴨の良くない評判が聞こえてきたり、久坂玄瑞が弔問に訪れて一触即発ということもありましたが、無事に通夜は終わり、八木源之丞さんたちが今まであまりよく思っていなかった浪士組のメンバーへの見方が変わるという回でございます。


史実では、この4月8日に八木家で葬儀が行なわれた記録が残っています。亡くなったのは、戒名から成人の女性であることはわかっているのですが、誰であるかということは謎のようです。葬儀における記帳に名前が書かれてあるのが、近藤勇・沖田総司・斎藤一・永倉新八・平間重助・佐伯又三郎の6名だけであること、八木家と同じように浪士組に一時、宿を提供した方たちの中で葬儀に参加したのは一人であること、また八木家に娘がいなかったこと(ひでちゃんは架空の人物です)、奥方の雅は明治になってから亡くなっていることなどから、八木家の身内ではなく、使用人だったのではないかとも考えられるようです。この日、葬儀に参列しなかった土方と井上源三郎は井上松五郎(源三郎の兄でこの時期、京に滞在していました)を訪ねた記録が残っています。残る試衛館派の山南敬助と藤堂平助と原田左之助はどこで何をしていたのだろうか、とても気になるわけです。

ドラマからかなり脱線してしまいましたが、八木家の葬儀を仕切ると言う土方歳三@山本耕史。そこには色々な人たちが集まるので、今後のことを考えて顔を売っておこう、自分たちの良い評判を得ておこうという目的があったわけです。山南敬助@堺雅人がその目的を知っていたのか、知っていて山南も同じ考えだったのかはわかりませんが、土方に葬儀を仕切ると言われて、細かい役割り分担をしたのは山南だろう。得意分野ですから(笑)。そしてこれが新選組のやり方ですから。

山南敬助の笑える台詞って色々とあるんですけれど、それも土方、近藤勇@香取の3人の時で、真面目な顔して言うから、尚更、おかしい。

局長はで~んと構えていればいいのです。
芹沢さんは(お梅さんに)ゾッコンのようですね。


私の中で、ヒットでした(笑)。

今回、一番好きなシーンは久坂玄瑞@池内博之が弔問に訪れて、帰り際に近藤や芹澤らとぶつかるシーン。

関ヶ原から250年、長州は幕府に対して恨みこそあれ、恩に感じること何ひとつないわ。

幕末を語るには、戦国時代からですよ。だから大好き、戦国時代も(笑)。
秀才で暴れん坊の久坂に近藤勇も困り果てた所に助け舟、それが芹澤鴨@佐藤浩市でした。
さすがの久坂も芹澤には敵わなかった。しかしその芹澤が商家に押し入り、脅迫まがいの振る舞いで金を借りているそうな。
徐々に、試衛館派とズレが生じてきております。次第に大きな事件につながるわけで。
この回の最初のシーンで、久が危ないという時、試衛館派全員がひとつの部屋に居て、雨が降ってきて、その時に井上源三郎@小林隆が言います。

そろそろかもしれませんね。
人が亡くなる時は往々にして、急に天気が変わることがありましてね。


この台詞を聞きながら、芹澤鴨暗殺の時のことを思い出しました。伏線だったのか?

『新選組!』の再鑑賞にあたり、斎藤一@オダギリがすごく良いと思っていて(笑)。今回も通夜の日、小六に出入りを頼まれて、断りながら、そして悩みながら、出入りに行くのですが、腰の物を置いて行くのよね。こんな日に人を殺せないと思ったんだろうね。殺さずに相手を倒し、線香の番を頼まれていたから、線香が立ち消えるまでに急いで帰って来るのですが、新しい線香が立てられていた。それをしてくれたのは、近藤だった。斎藤にどこに行っていたとか、何も言わない近藤。そんな近藤にウルウルときちゃいそうな斎藤でした。
少しずつ変わっていく斎藤が良い。とても良い。

さてお通夜を一生懸命取り仕切ってくれた浪士組への八木さん夫婦の見方が変わり、近藤・土方・総司(なんで山南は居ないんだ!)の3人にお礼を言うわけですが、もう子どもみたいに眠たくてウトウトする沖田総司@藤原竜也。幼すぎるぞ総司!と突っ込みを入れてしまいました。史実では、斎藤と同じ年、或いは二つ年上なんですけれどね(苦笑)。

さて今回、島田魁@照英が登場。次回は松原忠司や河合耆三郎、そしてダンダラ羽織の登場です。本当は、次回の第20回『鴨を酔わすな』を観賞してから、2回分まとめて記事にするつもりでいたのですが、第19回分だけでこんなに長くなってしまい、また第20回はとても好きな回であり、これも長くなりそうなので、第19回分のみにしておきます。
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by eri-seiran | 2007-03-26 21:31 |  ドラマ/映画/舞台 | Comments(0)

まずは単語登録から。

新しいパソコン君がやって来ました。
今回、プリンターもセットで購入して、一緒に持ってきてもらい、セッティングもお願いしました。
こいつ土方ファンだと思って帰っただろうな~親切で丁寧な対応をしてくれたあのお兄ちゃん(笑)。
パソコンが置いてある小さな部屋に、本棚があり、仕事関係などの書籍と共に、新選組関連の本が結構あります。その中に、土方歳三―知れば知るほど面白い・人物歴史丸ごとガイドなど土方歳三の名前がタイトルになっているものが数冊、それもすぐに目に入るところにありましたから。

新しいパソコンが来たら、まず単語登録をしようと思っていました。
山南さんなんで打てば、変換できますが、やまなみで打ってもこれまで山南への変換できませんでした。私的には、山南さんなんという読み方が正式だっただろうな~と思っていますが、そこは私の拘りでやまなみと打つようにしています。だからこれまでは、単語登録しておりました。
Word2007にて、ちょっとやまなみで打ってみる。変換されないとわかっていながら、もしかしてと思い。
そしたら、ラストの6か、7番目に人名地名が出てきてそこをクリックすれば、山南があるではないですか!やまなみと読む苗字は現代に存在しますから。
単語登録しなくてもいけました。すごい!

そこで取りあえず、単語登録したものは、下記の通りです。

試衛館(しえいかん)
政恕(まさひろ) 日野蓮光村の名主富沢政恕
左之助(さのすけ)
光縁寺(こうえんじ) 
甲子太郎(かしたろう) ごめんなさい。忘れており、記事を書きながら思い出しました。山桜ちりて・・・と山南の弔歌を詠んでくださった方なのに。

取りあえず、こんなものでしょうか?後からまた色々と出てくるでしょうけれど。
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by eri-seiran | 2007-03-25 21:42 | 身辺雑記 | Comments(0)

さらば私のパソコン

現在、記事を書いているこのデスクトップのWindows98を購入したのが、私にとって初めてのパソコンでした。友達とのメールのやり取り、2003年までは、洋画にはまっていましたので、好きな外国の役者さんであるアンディ・ガルシア、エリック・ストルツ、またジョン・マルコヴィッチなどのファンサイトに書き込んだり、新しい作品を調べたりしておりました。
それが2004年から大きく変わりました。もちろんそれは大河ドラマ『新選組!』による影響。私の山南敬助や新選組への想いを再び沸騰させてくれたお陰で、インターネットの利用方法も変わってきました。
新選組や大河ドラマ『新選組!』に出演している役者さんを検索したりしました。当時、山南敬助で検索しても引っかかる数は試衛館のメンバーの中でも少なかったんですよ。しかし今では、その時より数倍の数になりました。またそれまで知らなかった堺雅人さんについて調べたり。某サイトで、山南敬助のことを熱く書いたり、人様の『新選組!』や山南敬助についての記事を読んで涙したり。
2004年8月22日の『友の死』を観た後、パソコンの前で呆然としながら色々なサイトを見て、書き込みなどを読みながら再び涙したことも忘れられません。

私が新選組を好きになった頃はもちろんパソコンのない時代。新選組や山南敬助については、本で調べるしかありませんでした。しかし今の世の中、インターネットで色々と知ることができたり、どのような本があるかさえ知ることができたり、本当に便利な時代です。
また『新選組!』の放映によって、インターネットを通じて新たなたくさんの良い出会いがあったことが何よりも幸せに感じております。『新選組!』が放映されなかったら、決して出会えなかっただろうとよく言いますが、『新選組!』が放映されても、インターネットというものがなかったら出会えなかっただろう。

さてそのように思い出深いパソコンですが、一度、修理に出したこともあります。フリーズして強制終了も何度も何度もやってしまいました。色々とありましたが、それでもこのパソコン君よく頑張っているなと思っていました。しかしそろそろ危ないかな~と思うことが度々。そして98だと、インストールできないソフトも多い。また私がやりたいと思っていることがこのパソコンでは難しいこともあり、そこで遂に新しいパソコン Windows Vistaを購入しました。明日、新しいパソコンが我が家へやってきます。

と言うことで、このパソコンから記事を更新するのはこれが最後となります。
このパソコンで一番多く打った固有名詞は、山南敬助(やまなみけいすけ)、または山南(やまなみ)だろう、また新選組新選組!だろう。

よく頑張ってくれた私のパソコン君。お疲れ様。本当に本当にありがとう!

山南敬助

これにて打ち納め(笑)。
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by eri-seiran | 2007-03-24 19:32 | 身辺雑記 | Comments(0)

会津藩でもニュースになっていますよ。

会津藩で何がニュースになっているかと言うと、山南忌ですよ、山南忌
山南忌でちょっと検索していたら、福島放送のこちらのサイトに山南忌が開催されたことが福島県内ニュースとして紹介されているではありませんか。

これを読んだ時には、目頭が熱くなりました。
新選組ファンの方ならわかってくださると思います。福島、つまり会津藩で山南忌のことがニュースになったというこの喜び。会津だからこそ、ニュースにしてくれるという喜びと感謝。この切っても切れない新選組と会津の縁。

平成17年(2005)に会津まつりに参加するために、2度目となる会津参上。そして会津藩公行列の翌日、斎藤一忌に参加しました。その時に来賓の挨拶の中で、山南敬助の名前が出て、それがとてもとても嬉しくて、嬉しくて(笑)。会津の公式の場にて、山南敬助の名前が聞けるなんって思ってもいなかったから。

若き山南敬助は、仙台から江戸に向かう時、会津の土地を歩いたんだろうな。
あ~会津に行きたくなってきた。会津に行って、そこから仙台入りしたい。

ところで今、書きながら思ったのですが、会津藩は山南の死をどのように受け止めたのだろうと。
博学であったと云われている山南敬助。京都守護職の公用方との業務的な付き合いもあっただろう。
また岩木升屋にて不逞浪士を討ち取り、佩刀の赤心沖光が折れた時には、会津公よりご褒美として金八両を頂いたという記録が残っています。
そのようなことから、少なくとも公用方においては、山南敬助の知名度・評価は高かっただろうと思われます。
そんな山南の死を公用方の人たち(つまり会津藩)はどのように受け止めたのだろうか。そこには、山南の死に至るまでの経過が関連してくるでしょうけれどね。
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by eri-seiran | 2007-03-22 22:53 |  イベント | Comments(0)

リベンジ 山南も歩いたかもしれない布田道

去年の夏に神変紅丼のレッドさんと、町田市小野路の小島資料館と小野神社を訪ね、そこから鎌倉古道か、布田道を歩きたく、「新選組」土方歳三を歩くのガイドブックに載っている地図を参考に、また小島資料館で教えて頂き、鎌倉古道を歩くことにしました。なぜ歩きたかったかと言うと、ガイドブックに一部ながら旧態依然として残っていると書かれており、その言葉に誘われちゃったわけです。
しかしいざ歩き出すと、地図には載っていない分かれ道がたくさんあり、行っては行き止まりになって戻ったりしながら、この道だろうと思って歩いていたら、地元の人に出会い、尋ねたところ、「これは違いますよ。しかしバスが通っている道には出ますよ。」と教えて頂きました。結局、夏の時は鎌倉古道も布田道も歩けなかったというわけです。
私の詰めの甘さがでてしまった次第です。

と言うわけで、その時から決めていました。リベンジです。
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3月5日、小野路に行き、小野神社を再び訪ねた後、小島資料館の前を通り、鎌倉古道か、布田道へ。まだここでどちらを歩くかと決めていない、再び詰めの甘さ。しかし今回は、前回と同じガイドブックと共に、レッドさんが教えてくれたこちらのサイトを参考にすることにしました。

小島資料館から、道が狭いわりには交通量の多い街道を中宿バス停に向かっていくらか歩くと、右側にて細い道と出合います。それを道なりに道なりに歩くと、前回も出合った小さなお社です。
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小さな石段に歴史を感じるんですよ。もちろん、上ってみました(笑)。そこからもうしばらく歩くとお地蔵さんがある分かれ道に出合います。ここまでも前回と同じ。
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ここで左に行ってはいけません。右に行きます。はい、右の道をしばらく歩いていると前回のキーポイントとなった分かれ道に出合い、再び不安を感じ、引き返す私(苦笑)。すでに布田道への分かれ道を通り過ぎて鎌倉古道を歩いていたのです。布田道への分かれ道があるお地蔵さんのところまで戻ります。細くて暗い道がお地蔵さんの手前にあります。こんな道を行ったらやばいかもという道を避けてはいけないのです。
でもね、やばいかもという道なのですが、しばらく歩き、見上げればこんなに気持ちの良い景色なんですよ。
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風が吹き、竹が揺れ、本当に気持ちよかった。そしてしばらく歩くとこんな立て札に出合い、喜びのキャーです。
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此道は布田道にて、幕末に近藤勇らが通いし道に御座候
是より関屋を経て二町程にて小野路宿に着き申し候


そう、私は小野路宿からやって来たのです。この道は布田道で間違いなかった(涙)。
そして近藤勇らが通いし道に御座候だってさ。ほら、山南敬助も歩いたかもしれないよ(笑)。
先ほどの景色といい、この立て札といい、とてもとても幸せを感じた瞬間でした。
後は道なりに歩いて行けば、このような道標が立ってありましたので、安心、安心。
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終着点も見えてきた時、こんな景色に出合いました。実はこの景色を探していたのです。「新選組」土方歳三を歩くのガイドブックに載っていた布田道を紹介している景色の写真。それがこれです。
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左の道が布田道。奥が小野路宿方面。
そう、私は左の道から来たわけです。この景色に出合った時には、『街道てくてく旅 東海道五十三次完全踏波』の旅人であった岩本輝雄さんが広重の浮世絵に描かれた風景を探し出した時はこんな気分だったんだろうな~こんな気持ちで写真を撮ったのかな~とか。私の場合は、ガイドブックに載っている写真と殆ど変わっていない景色なんですけれどね。
ここから数分でバス停がある鎌倉街道に無事に出ることができました。すごい達成感に浸る私。

道も歩きやすく、距離もそれほどありません。時間にすればどれくらいでしょうか?
布田道そのものは、素直に歩けば30分掛からないかもしれません。
私の場合は、ゆっくり歩き、途中引き返したり、止まったりしたので、40分ほど掛かったと思います。
本当に昔ながらのものが残っていたり、静かな優しい道でした。
4月から5月くらいの時期に歩くと、さらに気持ちいいだろうな~と思ったり。

と言うわけで、去年の夏の宿題を半分終えました。次回は鎌倉古道です。そして今度は、山南敬助が小島鹿之助宅を出立して帰るという考え方ではなく、これから小島鹿之助宅に向かうんだという考え方で、鎌倉古道を歩いた方がいいかもしれないな~思っております。
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by eri-seiran | 2007-03-21 23:54 |  ゆかりの地 | Comments(2)

『新選組!』再観賞 第17回と第18回

本当は3月3日の江戸・多摩行き前に記事にするつもりでいたのですが、観たものの時間がなく、記事にするところまではできず。江戸・多摩から帰ってきてからは、他の記事とかありまして。と言うわけで、やっと第17回と18回です。

第17回『はじまりの死』
文久3年(1863)3月25日

山南敬助の案によって、会津藩お預かりとなり、会津藩公用方と親睦を図るために壬生狂言を鑑賞することになります。一方で、壬生浪士組の組長(頭)を決めることで、近藤派・芹沢派・それ以外の殿内らとの間に、ズレが生じてきます。


芹沢だけがいいところだけ持っていき、これでは壬生浪士組は芹沢のものになってしまう。
あんたが江戸に帰る時は大名になった時だ。


と、近藤勇@香取に言う土方歳三@山本耕史。
壬生浪士組・新選組のすべてを見ていた斎藤一@オダギリ。
第一弾が清河八郎を待ち伏せている山南敬助@堺雅人と芹沢鴨@佐藤浩市の会話であれば、これが第二段です。
そこに斎藤は居て、木を削って何か作っておりまりしたが、手を止めて土方の決意を聞いています。
この後、斎藤も色々とありましたが、土方に付いて行くことになった起点はここにありという感じです。

壬生浪士組ってつけたのは山南敬助だって。そして

會津藩御預
   壬生浪士組


と、山南が書いた板を芹沢派に割られます。そして土方は、原田左之助@山本太郎に言います。

山南さんに言って、新しいのを書いてもらってくれ。

この辺りを見ていると、土方は学のある山南を頼りにしていたんだよな~と。
それは公用方と壬生狂言を観た後の宴会中にても、芹沢が色々と物知りであることをアピールされたために、山南に(会話に)参加しろと言います。
そこには、試衛館派の中でそのような難しい会話ができるのは山南しかいないと土方はわかっているのです。でもとてもとても硬くなっていた山南さん。公用方が帰ってから、試衛館派のメンバーだけになってから山南が、「そう言えば、牛若の・・・」と話し出し、藤堂までも話しに加わり、
「今、話しても遅いんだよ!」と言う土方。
このシーンは笑えます。

さて殿内義雄@生瀬勝久は壬生狂言を見物せず、近藤や芹沢の思い通りにさせないように次の手段を相談しようとして、佐々木只三郎との取り付き役の柳に会います。それを見ていたのが、体調が思わしくなく、こちらも壬生狂言を見物していなかった阿比留鋭三郎です。そしてそれを土方に伝えます。そして土方から近藤と芹沢へ。なんで山南には伝えないんだと心では思っていますが、時間がないのでスルーします(苦笑)。

近藤が話しをして、殿内は気持ちが変わります。一度、江戸に帰り、佐々木只三郎にすべてを話し、再び京に帰ってきて壬生浪士組に改めて加わることにすると書いた手紙を残し、江戸に向かおうとしたところ、何も知らなかった芹沢に殺害されます。

芹沢を問い詰める近藤。その時の芹沢が良い。
殿内を殺害したことは近藤がだまされていると思ったから。近藤のために殿内を殺害した芹澤。その近藤が芹澤を責める。そして斬ったことを後悔している芹澤。
芹澤の人間性が出ていて、改めていいな~と思ったシーンです。

史実でも、3月25日に会津藩士本多四郎が壬生を訪れて、浪士組と壬生狂言を見物したこと、また同じ日に殿内義雄が四条橋で殺害されています。
殿内がどこかに旅に出ようとしていたようですが、誰に殺害されたかは不明。山南敬助が会津藩士と共に壬生狂言を見物していたことは記録に残っております。硬くなっていたのか、見物の後、会話に参加できたか、できなかったかはわかりません(笑)。

殿内義雄の死は、史実の新選組にとっても、『新選組!』にとってもはじまりの死でした。


第18回『初出動!壬生浪士』
文久3年(1863)4月1日

殿内が亡くなり、粕谷や根岸など他のメンバーも浪士組を去ります。残った試衛館派と芹澤派で浪士組における役職を決めます。その頃、長州を中心とした過激派メンバーが幕府をないがしろにした数え歌の札を京の町に立てます。その札を取り捨てるという仕事を会津藩から言渡され、壬生浪士組の初出動というわけです。


阿比留鋭三郎の体調は思わしくなく、阿比留は壬生浪士組を去ります。史実では、4月6日に壬生で病死しているんですよね。しかし敢えて死なせなかった三谷氏。そして土方歳三@山本耕史の「あてはあるのか?」と聞かれて、「大津の親戚の家でゆっくりしようと思います。」と答える阿比留。
一番最初にこの台詞を聞いた時、えっ!何!何!!何!!!でしたよ(笑)。
はい、山南ファンとしては、山南が脱走して、大津で総司に会って帰ってきたという説を知っていましたから、山南敬助@堺雅人が脱走して大津に行った時にこの阿比留が再び登場するの?どう絡んでくるの?ともうプチパニック状態でした。そして背負った物に2本の風車を刺して、大津に向かう阿比留の後ろ姿を見ながら、「山南敬助が大津に行ったら助けてくださいね」とお願いした私です(笑)。しかし観ていくうちに阿比留の大津での静養のことはすっかり忘れていました(苦笑)。まあ~あの30回から33回の流れの中で、阿比留が出てきたらちょっと浮きますし。それから約2年も経っておりますし。

あとこの回で好きなシーンは、浪士組の役職を決めるところです。役職を決めるのに、土方は芹澤派に負けまいと必死なのに、山南はそんなことはあまり関係なく、役職名の名前に拘っていました。組長局長に。小頭副長助勤にと。
またおまさちゃんのお店で近藤・土方・山南の3人でお汁粉を食べるシーンも好き。以前、山南と二人で食べている時もそうでしたが、ここに来ると話し方が変わる土方。仲の良い友だちと言う感じで山南に話し掛けたりするんですよね。それに対して上手く受け答えが出来ない山南です。このシーンでも近藤の好きな女性のタイプの話になり、ついていけなかった山南さん(笑)。

今回観て、改めていいな~と思ったのは斎藤一@オダギリ。小六から嫌な出入りの仕事を頼まれ、断りきれず、人を斬ります。その後、芹澤派と試衛館派の親睦を図るための相撲大会があり、相撲をしたことがなく、照れて相撲をとるのを拒む斎藤。しかし試衛館派のメンバーや八木家の人たちに押されて、仕方なく出ます。そして佐々木又三郎に勝ちます。
相撲で勝ったという気持の良さと、周りの人に喜んでもらえるという嬉しさを初めて知ったかのような斎藤一の照れた表情が良い。


阿比留が書きたいからと言って、17回と18回をひとつの記事にしたのに、阿比留のことはその程度のことですみません。しかしこの方も京に上がり、壬生浪士組として役割りを果たした一人であるのは確かです。観てから時間がだいぶ経過したために、かなり不十分なところもありますが、取りあえずこれにて失礼。
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by eri-seiran | 2007-03-20 21:46 |  ドラマ/映画/舞台 | Comments(0)

新暦での山南敬助の命日は今日である3月20日

旧暦(太陰太陽暦)では、山南敬助の命日は2月23日になりますが、新暦(太陽暦)で考えた場合は、3月20日になります。つまり今日です。

元治2年(1865)のこの頃、平年に比べて暖かかったのか、寒かったのか、平年並みだったのか、わかりませんが、私的には、昔のことですし、このくらい寒かったのだろうな~と思ったりしています。

春風に吹きさそわれて山桜ちりてそ人におしまるゝかな

吹き風にしほまんよりも山桜ちりてあとなき花そいさまし


伊東甲子太郎が、『山南氏の割腹を弔て』というタイトルで、読まれた弔歌の4首のうちの2首です。
山南の死と桜の散華を重ねて詠んでいますが、京にてのこの時期は、桜が開花して散るということは考えにくいので、山南の死後いくらか経ってから詠まれたものではないかとも言われています。

新暦を使うようになったのは、旧暦での明治5年(1872)12月3日からであり、この日が明治6年(1873)1月1日となるわけです。

それ以前に亡くなった方の場合、旧暦で考えるのか、新暦で考えるのかということが出てくるわけですが、私的にはどちらも大切だと思っています。
新暦で考えた場合、そこまで春が来ていたのにとか、まだ寒かっただろうな~とか、桜の開花には早いような~とか、やはりそうして考えるのはとても大切であります。だって、これを2月23日の旧暦だけで考えた場合、伊東の弔歌についてもあれ?ということにもなりかねませんし。

でも旧暦の2月23日というのもとても大切だと思っております。記録として残っているわけですし、またその当時、残された者たちにとって山南の月命日は23日であり、1周忌も2月23日だったわけですから。
それまで、毎年迎えていた2月23日と、山南敬助が亡くなってからの2月23日は、同じ2月23日であっても多少なりともこれまでとは違う2月23日になったはず。
『風光る』においては、約数名、月命日にこっそりと墓参りしてくれた方々もいらっしゃいましたし(笑)。
史実では、若干1名、山南が亡くなってから約1ヶ月しか経っていないのに、山南の亡くなった日を間違えたのかという疑問を残してくれた方もいらっしゃいますが(苦笑)。
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by eri-seiran | 2007-03-20 09:14 |  山南敬助 | Comments(2)

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