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徒然亭四兄弟に逢いたい

本日の携帯から投稿した記事を見たら、大坂にて山南敬助、及び新選組ゆかりの地めぐりをしているんだろうと思われた方々が多々にいるかと思われますが、残念ながら今回は天保山のみです。

本日、大坂に行った一番の理由はタイトルの通りです(笑)。

最近、月1回の割合で江戸に行っているものですから、お金もエネルギーもそこで使い果たすような感じで、江戸に行く以外の休日は家でおとなしくしている傾向にあります。
12月の頃、『ちりとてちん』の撮影は大坂にて行われているんだよな~と、時々思いながらも見に行こうとはなりませんでした。師走で公私に亘り忙しかったし。
1月に江戸に行って、大河ドラマ『篤姫』の撮影風景が見られず、六本木でランチ・お茶をしながら『ちりとてちん』の話しも出て、私は行こうと思ったら、『篤姫』の撮影を見るより簡単に見に行けるんだよな~と思いながらも、『篤姫』に歌舞伎に山南敬助でいっぱいいっぱいでした。
1月26日、『土曜スタジオパーク』に小草若@茂山宗彦、四草@加藤虎ノ介がゲスト出演したのを観て、加藤虎ノ介さんもいいけれど、茂山宗彦さんもいいな~と、この時点で茂山さんへの萌度が上がってきました。行きたいな~とちょっと真剣に思うようになってきました。
1月30日の『ちりとてちん』にて、四草がどのようにして徒然亭に入門したかということが描かれているのを観て、朝から涙。あ~逢いたいという気持ちが強くなり。
そんな経過があり、昨日の夜、撮影も大詰めにきているはず。行くんだったら、今しかない、明日は仕事が休み、行こうと決意しました。

最近は毎月のように江戸に行っていますが、大河ドラマ『新選組!』の放映があった2004年に江戸に行ったのは11月の末に1度だけ。
その時にNHKスタジオパークに行きましたが、もちろん『新選組!』の撮影は終わっており、ただ展示物はあったので、それらを見て、翌年に放映される大河ドラマ『義経』のスタジオだけ見て、ここからみんな撮影風景を見て、報告してくれたんだな~みんなに感謝!感謝!!そして来られなかったことに後悔。
だからこそ、徳川家定(家祥)@堺雅人の撮影風景は何がなんでも見たく。そして『ちりとてちん』も後で後悔しないように。

本日の午前中に『ちりとてちん』の撮影があることを確認。10時過ぎに我が家を出て、大坂には11時過ぎに着きましたが、この寒い日に天保山から船にも乗りたくて、まずこちらへ。そしてNHK大阪放送局には14時前位に着きました。

何と言ってもお目当ては徒然亭四兄弟。でもそんなに上手くいくはずがない。一人でも逢えたら良しとしなければと、自分に言い聞かせていました。
そしたらなんと、底抜けにサービス精神旺盛な小草若@茂山宗彦が撮影中ではないですか。見学できる窓越から遠い所で撮影していたけれど、撮影の合間に見学している私たちに手を思いっきり振ってくれました。やっぱり底抜けにサービス精神旺盛。
若狭ちゃんに順子ちゃんらも居ましたよ。そしてそれらの撮影シーンから、今日は他の兄弟の出演はないのかな~と思っていたら、撮影するシーンの流れが変わってきて、最後に来ましたよ!来たんですよ!!
四兄弟が全員登場。もちろんそこには若狭ちゃんも。
カメラが回っておらず、撮影位置にそのまま座ったまま待っている間、草原兄さん@桂吉弥と草々@青木崇高、若狭ちゃんと四草がしゃべっていました。また草原兄さんと四草とか。とても和やかで楽しい雰囲気が感じられました(小草若ちゃんは後から登場)。
そして若狭ちゃんが見学者に手を振ってくれると、それを見習うかのようにして四草も振ってくれたのよ。
小野アナウンサーではないけれど、四草はそこに座って手を振ってくれるだけでいいから(笑)。
もちろん、草原兄さんと草々も何回か手を振ってくれましたよ。
と言うわけで、18時の閉館まで居るつもりでしたが、17時過ぎで休憩に入り、次の撮影は18時半からと言うことで、その時にはすでに閉館になっているので、NHK大阪放送局を後にした次第です。
四兄弟に逢えて、もう満足、満足でした。もうルンルン(笑)。
これで後悔することはありません。
ちなみに本日、撮影していたのは3月中旬放映予定とのこと。

見学に来られていた方々の熱い思い、また楽しい雰囲気を感じながら、『組!』の時もこんな感じだったのかな~とか想像したり。
土方副長を筆頭に他の役者さんたちもこうして見学者に手を振ってくれたりしたんだろうなとか思ったり。
本当にこのドラマは色々な面で『組!』と重なるんだよな。

とにかく底抜けに楽しく幸せな一日でした(笑)。
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by eri-seiran | 2008-01-31 23:14 | エンターテインメント | Comments(6)

大坂の天保山

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から、船に乗っています。
慶応4年(1868)の1月、新選組のメンバーは鳥羽・伏見の戦いに敗れ、ここから船に乗って江戸に帰って行きました。京都・大坂を離れる彼らはどんな思いだったのだろう。そう考えただけで涙が出てきそう。
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by eri-seiran | 2008-01-31 12:13 | 身辺雑記 | Comments(0)

元治2年(1865年)1月の山南敬助らの経過と状況

1月ももうすぐ終わり。そろそろ書かないとやばくなりそうなので、書ける時に書きましょう。毎月、恒例にしている記事。
今月は元治2年(1865)1月の出来事と状況です。

1月2日  沖田総司、小島鹿之助に年賀状を書く。

1月3日  総司、前日の年賀状に追伸文を書き加える。

同日    総司が小島鹿之助と小島家に来る人たち宛、土方歳三が佐藤芳 三郎宛、土方隼人・土方伊十郎の連名宛で年賀状を書いた可能性があり。
      
佐藤芳三郎とは、佐藤彦五郎宅の隣に住んでいた方で、学問があり、塾を開いていたそうです。
土方が佐藤芳三郎に出した年賀状は土方の筆跡とは違うので、誰かが代筆したらしい。
土方隼人は土方の次兄。土方伊十郎は土方隼人の妻の父親。
1月3日に書かれた総司と土方の年賀状は元治2年に書いたという確かな証拠はなく、それ以後の年に書いた可能性もあり。書いた月日だけでなく、年号も書いていてほしいな。
現代の年賀状では和暦、或いは西暦を書きますが、昔はそのようなならわしはなかったのだろうか。

1月8日  ぜんざい屋事件が起きる。

大坂の石蔵屋というぜんざい店にて土佐の脱藩浪士らが大坂城の焼き打ちを計画しており、その計画が新選組の知るところとなり、谷三十郎や谷万太郎らがぜんざい屋を襲撃した事件です。

同日    福井藩主の松平慶永が書簡を山科宮らに送る。

内容は、長州を脱藩した浪士らが騒ぐのを防ぐために、新選組のように幕府が雇用したらどうかという案。この案は採用されなかったらしい。

1月10日 大坂に居た谷万太郎と正木直太郎がぜんざい屋事件の報告書を新選組屯所に送る。

報告書の最後に宛として
近藤勇先生
土方歳三様

と書かれている。
これは会津藩の記録に残っており、誤記もあるようですが、近藤は先生で、土方はなんだ。へえ~という感じ(笑)。
それから宛に山南敬助の名前がないので、全く新選組の職務から離れていたのか、或いは近藤・土方より立場が下になったのかという考え方ができますが、これまでの状況から考えると職務から全く離れていたのだろう、そしてこの記録はそのことを証明できるものだと思います。
また正木直太郎と言う人物は新選組に在籍した記録はありません。

1月11日 大坂の天神橋に松平容保公と不逞者への天誅を告げる檄文が張り出される。

これは新選組の者によって書かれたものらしい。

1月19日 中村左馬という津藩士が壬生の屯所を訪ねて、大坂の情勢などについて尋ねる。

1月26日 京都市中にて不審者の一団を捕縛するために、新選組が出動。

1月27日 新選組隊士30名が出動し、大坂の堂島にて不逞浪士らを捕縛。

また1月の何日かはわからないものの、前年の7月も禁門の変にての新選組の活躍に対して、朝廷からと思われる感謝状を賜ったそうです。
山南は禁門の変には参加していないもんな。

               (参考文献:新選組日誌 コンパクト版(上) 新人物往来社)


山南が多摩の人たちに年賀状を出した記録もなし。新選組の大幹部として働いた記録もなし。どこでどのように過ごしていたのか、全くわかりません。
谷万太郎と正木直太郎の名前で書いた報告書は近藤・土方宛になっています。谷万太郎は谷三十郎の弟であり、池田屋事変にも参加しているものの、正式な新選組隊士であったのかという疑問があるのですが、とにかく殆ど大坂に滞在していたようです。そんな人までが、山南が新選組の職務から全く離れていることを知っていたということになります。
山南が最期を迎えるまで1ヶ月を切りました。この頃、どこでどのようにして過ごしていたのだろうか。
新選組の職務からは離れていたものの、新選組の大幹部として上方のどこかにて静養していたのだろうか。
しかしこのようにして調べていると、最近、山南が新選組の大幹部として上方に居た気配がしないんです。すでにどこか遠くに行っているようなそんな気がして。
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by eri-seiran | 2008-01-29 22:30 |  出来事 | Comments(0)

歌舞伎座120年と言うことからあれこれ

今年は、小挽町の地に歌舞伎座が誕生して120年と言うことです。
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孝太郎さんも120年という節目で、またおめでたいお正月を歌舞伎座で迎えられることは幸せであると仰っています。

私は歌舞伎座誕生120年と言うことから、歌舞伎とは関係ないところに反応してしまいました。

その時、永倉新八や斎藤一は東京に居たんだ

と言うこと。
120年前と言うことは明治22年(1889)。斎藤一については東京にいたのは確かだと思ったんですけれど、永倉新八は北海道と東京を行ったり来たりしていたので、よくわからなかったのですが、調べてみたら、この頃は東京に居たようです。
また明治22年と言えば、西村兼文が『新撰組始末記』を脱稿しています。

私的には斎藤一や永倉新八の歌舞伎鑑賞というイメージがわかないんですけれど、こればかりはわからない(苦笑)。
この1年前の明治21年(1888)の10月14日、中村座へ新選組と関わりがあった松本良順が歌舞伎鑑賞に来ていたことを佐倉藩士であった依田学海が『学海記録』に記しています。
私的には松本良順の歌舞伎鑑賞には納得(苦笑)。
その時に、松本良順が山南敬助の切腹について依田学海に語ったと言うんです。
これについては以前に記事にしています。こちらより

歌舞伎鑑賞で出逢って、山南敬助の切腹について語ったなんって。これを記事にした時、私自身が歌舞伎にはまっていなかったので、そんなことはどうでも良く、松本良順が語ったと云われることだけについてあれこれ考えていたんですけれど、今は何とも言えない縁を感じたり。
この時に出演していた歌舞伎役者として、團十郎と菊五郎の名前が挙がっており、調べてみると、九代目市川團十郎と五代目尾上菊五郎になるようです。
この九代目團十郎と五代目菊五郎は明治時代に活躍したそうで、その二人は同じ明治36年(1903)に亡くなり、九代目團十郎の葬儀を取り仕切ったのが川上音二郎とか。

そして松本良順が歌舞伎鑑賞に来て、山南敬助の切腹について語ったのが10月14日(明治21年のことなので、すでに太陽暦)。
前回、この件について記事にした時には気付かなかったのですが、10月14日と言えば、大河ドラマ『新選組!』にて見事な切腹を遂げる山南敬助を演じた堺雅人さんの誕生日。
偶然のなにものでもないんですけれど、なんだかね~不思議な縁を感じずにはいられませんよ。
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by eri-seiran | 2008-01-28 10:31 |  雑記 | Comments(0)

山南が訪ねたかもしれない小野次郎右衛門の屋敷跡

最近、江戸に行く時に持ち歩いている地図などは、コンパクトの現代の地図本と『切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩』(人文社)です。

今回、玄武館跡から大久保道場跡まで歩くにあたり、『切絵図・現代図で歩くもち歩き江戸東京散歩』にて歩く道などを確認していた所、小野派一刀流の宗家である小野次郎右衛門(治郎右衛門)の屋敷跡が玄武館跡に近いことがわかり、まずここに行ってみようということになりました。
この切絵図は尾張屋(金鱗堂)によって作られたものであり、玄武館や小野次郎右衛門の屋敷があった切絵図は、嘉永3年(1850)に作られ、安政6年(1859)に再版されています。
嘉永3年と言えば、山南敬助が18歳(天保4年生まれで考えた場合)です。その3年後の嘉永6年に中山幾之進と立ち合って、小野派一刀流の大久保九郎兵衛門人であるということを記しています。

私が思うには、小野派一刀流の宗家である小野次郎右衛門の屋敷に師匠の大久保九郎兵衛にお供して、訪ねたことがあるのではないだろうかと思うのです。
山南敬助が訪ねたかもしれない小野次郎右衛門の屋敷跡はこの辺りになります。
もちろん史跡など何にもありません。
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そして幕末からあったこの道
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をただひたすらまっすぐに行って、岩本町三の交差点を少し左に行った辺りに玄武館跡があります。
小野派一刀流の宗家と玄武館がこんなに近かったなんって。
それから小野次郎右衛門の屋敷跡と玄武館跡と大久保道場跡の三点を線で結べば、大久保道場跡と小野次郎右衛門の屋敷跡がちょっと長い底辺となるものの、奇麗な三角形になります。
多分に大久保道場跡から小野次郎右衛門の屋敷跡までは私の足で1時間くらいだろうか。と言うことは山南の足で当時なら、30分くらいだろうか。
当時にしたら、近い距離だろうな。

はい、今度、江戸に行った時には、大久保道場跡から小野次郎右衛門の屋敷跡まで歩こうという気持ちにすでになっております(笑)。
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by eri-seiran | 2008-01-26 19:43 |  ゆかりの地 | Comments(0)

沖田総司 最期の地

江戸での3日目の午前中、時間があったので、どこに行こうかと地図とにらめっこしていました。
その後のことを考えて、渋谷・新宿辺りで行ける所がいいな~と思いながら、その辺りを見ていたら、千駄ヶ谷町と言う文字が目に飛び込んできた途端、ここに行こうと決めました。
そうです、沖田総司が最期を迎えた植木屋兵五郎宅があった所。
一説には浅草今戸の松本良順宅と言う説もありますが、研究者の方たちの見解を読んだりしていると、植木屋兵五郎宅だろうと思います。

帰りに新幹線に乗ることを考えて、宿があった銀座から品川駅まで行って荷物を預け、JR山手線で新宿駅まで行き、そこからJR中央線で東京行き方面の電車に乗って2駅目の千駄ヶ谷駅で降りました。植木屋兵五郎宅跡は新宿御苑がある側の新宿区大京町です。
石碑もなく、史跡案内によっては現代の番地が微妙に違ったりして、この辺りだということしかわかりません。
また今回訪れた小野派一刀流の宗家である小野治郎衛門屋敷跡や北辰一刀流の玄武館跡(賑やかなメイン道路から少し中に入りますけれど)、また山南敬助が学んだ小野派一刀流の大久保道場跡と比べて閑静な所で、車の量や人通りも少なく。
幕末も同じように閑静な所だったんだろなと思われ。

総司はここでどんなことを思いながら最期を迎えたのだろう。近藤勇や土方歳三のことを思ったのは当然だろう。光縁寺に眠っている沖田氏縁者とのみ書かれている方のことも思い出したのだろうか。そして同じ光縁寺に眠る山南敬助のことも。

これまで山南敬助を中心とした新選組ゆかりの地は訪れましたが、総司だけのゆかりの地というのは初めてでした。まあ~史実でも土方歳三や斎藤一らが訪れたかもしれませんけれど。

総司が最期を迎えた地は新宿区と渋谷区の境で、ギリギリ新宿区に入ります。試衛館も同じ新宿区。
その当時は関係ないことですけれど、ギリギリ新宿区であることになんか救われた気持ちになりました。
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by eri-seiran | 2008-01-25 16:17 |  同志たち | Comments(0)

孝太郎さん30代最後の舞台

歌舞伎座に行くと、何かとお金が飛んで行くのですが、まず番付を購入。そして舞台写真も。購入してからは舞台写真売り場には行かないようにしております。だって見ているとこれもいいな~ってなってしまうから。
『かぶき手帖2008年版』が売られていました。2007年版を持っているし、買うつもりはなかったのですが、孝太郎さんについてどのように書かれてあるかを知りたくて、見本に目を通したら、思わず買ってしまいました。だっていいこと書いてあったんだもん。

昨日の帰りの新幹線の中で『かぶき手帖』を改めて見ていて気付きました。
1月23日、つまり今日、孝太郎さんのお誕生日。40歳になられました。
今夜は40歳になっての初めての舞台ということ。わ~そんな日に観られたら幸せだろうな。
私は21日(月)に観たわけで、私にとってはそれが30代の孝太郎さん最後の舞台であり、次に観る時には私にとっては40代の孝太郎さんの最初の舞台となるわけで。

昨日、お茶しながら、歌舞伎ファンの先輩であるお二人が女方としての孝太郎さんについて話しているのを聞いて、なるほど、なるほどと頷いていました(笑)。
私はとても良い時期にこの人に出逢ったんだろうな~と改めて思いました。でももっともっと前から出逢いたかった。
映画『太陽の帝国』や大河ドラマ『太平記』、またドラマ『白い巨塔』など歌舞伎以外の所では出逢っていたんですけれどね(汗)。
もっと前から出逢いたかったと言ってもそれは仕方なく、やはり今の私がいるから、そして女方として精進してきた孝太郎さんがいるから、出逢えたわけで。
またそこには大河ドラマ『新選組!』もスルーすることはできず。
出逢えて本当によかった。これからもたくさん舞台が観られるように頑張らなければ。

さて30代最後の舞台でもあった『壽 初春大歌舞伎』の夜の部、舞踊『鶴寿千歳』、前半に松の歌昇さん、竹の錦之助さん、梅の孝太郎さん。華やかで端正な舞でした。3人の後に姥の芝翫さんと尉の富十郎さんという人間国宝のお二人が登場して、舞台の空気がちょっと変わり、それがまた良かったです。
お正月にNHK教育テレビでの『新春桧舞台』にて、11月の歌舞伎座で昼の部の最初の演目であった舞踊『種蒔三番叟』が放映されました。三番叟が梅玉さん、千歳が孝太郎さん。
その番組のゲストがファッションデザイナーの山本寛斎さんでした。観終わった後、寛斎さんが孝太郎さんの踊りと衣装の力が合わさって、裾捌きの見事さを褒めていらっしゃいました。
そんなことも思い出しながら、孝太郎さんの美しい舞に見惚れていました。

『助六由縁江戸桜』は、とにかく豪華な顔ぶれに、豪華な衣装、またコミカルなところもあり、色々と楽しめました。
白玉の孝太郎さん、そりゃ~きれいでしたよ。揚巻と意休の間に入って留める場面も、妹分として出しゃばることもなく。
江戸時代にいた本当の傾城がそのまま舞台に立っているように思えてしまう。
それは『女殺油地獄』のお吉など他のお役についても同じく。
だから好き。大好きなんです。
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by eri-seiran | 2008-01-23 21:43 | 歌舞伎 | Comments(2)

夕方に江戸を出立

して、我が家に20時過ぎに着きました。

さて今日はNHKスタジオパークに行って、徳川家定(家祥)@堺雅人に出逢える確率は低いけれど、『篤姫』の撮影が見られたらいいやと思っていたところ、ロケ撮影のためにスタジオでの撮影そのものがないとのこと(涙)。
そんなにうまくいかないわよね。これは来月も来なさいということなのかしら(苦笑)。
かなり行く気になっております。

と言うことで、一緒にスタジオパークに行く予定だった七織さんと、また幕末のことなどについて色々とお世話になっている七織さんの友人のKさんの3人で、六本木でランチ、そしてお茶をしながら、『篤姫』や『組!』の役者さんたち、幕末、また歌舞伎などについておしゃべり。とても楽しく、また勉強になり。
あまりにも話しが弾み、16時には品川駅に向かう予定をしていたのですが、気がつけば16時半。それでも17時半近くの新幹線に乗れました。

今回も欲張りな楽しい3日間。
明日から仕事、頑張ろう。
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by eri-seiran | 2008-01-22 21:37 | 身辺雑記 | Comments(2)

玄武館跡から大久保道場跡まで

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先ほどと同じ感じで歩いて約40分でした。やっぱり近い。幕末からあったメイン道路をただ真っ直ぐひたすら歩いてちょっと左に入った所にあります。
歩いていると人通りも賑やかになり、また街の雰囲気がちょっとだけ変わるのを感じました。山南敬助がこの江戸の街を歩いてあちらこちらに行った時もそんなことを感じたんだろうな。
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by eri-seiran | 2008-01-21 12:49 | 身辺雑記 | Comments(0)

玄武館と瑶池塾跡に

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に着きました。ゆっくり歩き、また信号で止まったりして、約30分となり。山南敬助ならこの半分位の時間で来ることができるのかしら?
玄武館の西隣りには、漢学の大家であった東條一堂が瑶池塾を開き、儒学と詩文を教えていたそうです。千葉周作と東條一堂は親交があり、そのため自然に門人たちも行き来していたそうで、その一人に清河八郎がいたそうです。
前回、ここに来た後に、清河八郎を主人公にした『回天の門』を読んでいるのですが、このことは小説の中にも出てきます。
ただ今、いろんな幕末の志士たちの関係が頭の中を駆け巡っているのですが、立ち止まっているととてもとても寒いので、これから玄武館跡から大久保道場跡に向かって歩きます。
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by eri-seiran | 2008-01-21 11:39 | 身辺雑記 | Comments(0)

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


by eri-seiran
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