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嘉永6年(1853)

大河ドラマ『篤姫』に2週間ぶりの登場であった徳川家祥@堺雅人。登場時間は短いものの、毎回とても美味しい。昨夜は「カッカッカッ」が私のツボにはまちゃいました(笑)。
さて『篤姫』ではここ数週間、嘉永6年(1853)のことが描かれていますが、幕末を語るには嘉永6年は避けては通れないだろう。この年の6月、黒船が浦賀にやってきて、それがきっかけとなって攘夷か開国か、また倒幕か佐幕かと、日本が大きく揺れ動くことになるわけですから。
そんな年の10月に篤姫は薩摩から江戸入りし、また同じ年の12月に徳川家定が13代征夷大将軍となり。
そして同じ年、名も無き一人の若者が剣術の試合を申し込まれ、立合った。名も無き一人の若者とは山南敬助。後の新選組副長もこの頃は名も無き若者。
黒船が浦賀にやって来た時、第12代将軍徳川家慶が亡くなった時、篤姫が江戸入りした時、徳川家定が第13代征夷大将軍になった時、山南敬助が江戸にいたのはほぼ間違いない。

『新選組銘々伝 第四巻』(新人物往来社)における山南敬助について書かれた清水隆氏は、中山幾之進が山南敬助に剣術の試合を申し込んだのは嘉永6年(1853)4月15日であると述べている。この嘉永6年4月から万延2年(1861)1月、山南が近藤勇や沖田総司と共に新年の稽古のために多摩の日野宿を訪れるまで、山南敬助の名前が記された記録はない。約8年の空白、どこでどのようにして過ごしていたのだろう。
『日野宿叢書 第四冊 佐藤彦五郎日記 一』(日野市)において、安政6年(1859)9月26日に

近藤勇参り、修行者壱人相越、刃術稽古致し候事

と記されている。修行者一人とは、誰のことだろう?同じ年の6月に沖田総司が訪れたことを惣次郎の名前で記録してあるから総司ではないだろう。万延2年の1月に新年の稽古、文久元年(2月に年号が変わっているので万延2年と同じ1861年のこと)の8月に近藤勇の襲名披露の野試合に参加していることから、山南が試衛館と出合ってからいくらかの年月が経って、万延2年1月を迎えたのだろうと思われる。だから安政6年9月26日に近藤と日野宿を訪れて、剣術の稽古をした修行者とは山南敬助である可能性も無きにしも非ずと思っているんだけれど。

嘉永6年に山南敬助が江戸にいて、大久保九郎兵衛の門人であり、小野派一刀流を学んでいたということが残っている記録からわかるけれど、わかっていそうでわからないのが土方歳三。嘉永4年(1851)に天然理心流に入門したと云われているが、その嘉永4年から正式入門したと云われる安政6年(1859)まで、佐藤彦五郎の日記など残っている記録に名前が全く登場しない。薬の行商に出ていたと云われているけれど。山南と同じ約8年という空白もちょっと謎であり。行商に出ていても、佐藤彦五郎の日記に名前が出てきてよさそうなものだが・・・
そして近藤勇は、嘉永6年にはすでに近藤周助の養子となっている。沖田総司も近藤周助の内弟子となっている。

嘉永6年から8年後の万延2年(1861)1月、山南敬助は近藤勇と沖田総司と共に、多摩の佐藤彦五郎宅を訪れ、そして土方歳三も合流し、新年の稽古に参加する。
嘉永6年から10年後の文久3年(1863)2月、山南敬助は試衛館の同士と共に浪士組に参加し、京に上る。山南敬助31歳(28歳説あり)の時なり。
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by eri-seiran | 2008-03-31 18:05 |  出来事 | Comments(0)

梅から桜へ

始まりがあれば、必ず終わりがある。
終わるものがあれば、新しく始まるものがある。

花びらがだいぶ散った梅。
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近くには蕾がだいぶ膨らんできた桜。

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梅から桜へと春を託しているんだね。

今年もそんな季節がやってきました。
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by eri-seiran | 2008-03-29 21:32 | 身辺雑記 | Comments(0)

伊達の家臣団に赤穂浪士に新選組

平成16年(2004)の『新選組!』に出合うまで、大河ドラマの中で一番好きだったのが昭和62年(1987)に放映された『独眼竜政宗』でした。と言うことで、17年ぶりに私にとっての大河ドラマベスト1位は入れ替わりました。
現在、大河ドラマベスト2位である『独眼竜政宗』が、WOWOWにて3月より再放送されておりまして、これが月曜日から金曜日の放映であり、そして予約録画をしておりまして、たまりすぎるといけないので必死で観ております。今、改めて観てもとても良く、萌えておりまする。

伊達の家臣団は本当に良い。かっこいい。演じている役者たちがまた良い。伊達政宗@渡辺謙の重臣であった片倉小十郎@西郷輝彦、片倉成実@三浦友和、鬼庭綱元@村田雄浩が良いのはもちろんなんですが、今回、約20年ぶりに観て、伊達政宗の父親である伊達輝元@北大路欣也の重臣であった遠藤基信@神山繁に鬼庭左月@いかりや長介がいいな~と改めて思っていまして、年齢と共に萌えも微妙に変わってくるようです。

前回の記事で書いた『才女伝』に出てくる仙台藩の勤王攘夷派で、桜田春三郎に榎本らを斬るように命じた遠藤文七郎(充信)。桜田春三郎の叔父にあたる桜田良佐と共に幕末の仙台藩における勤王攘夷派のリーダーでした。この方の祖先が神山繁さん演じていた遠藤基信の子孫のようです。遠藤基信の息子の名前が文七郎であり、幕末の遠藤文七郎も宿老の家に生まれたそうなので。
その遠藤基信は、織田信長や徳川家康と書状をやり取りするなど、内からも外からも人望があり、知的な方だったようです。だから伊達輝宗も遠藤基信を信頼し、頼りにしていた、遠藤基信もそれに応えて尽くしていたと思われます。そんな主従の関係であったので、伊達輝宗が亡くなった時、遠藤基信も輝宗を追うように自害したと云われています。
ドラマでも、伊達輝宗@北大路欣也が遠藤基信@神山繁をとても信頼し、頼りにしており、とても良い関係が描かれています。
この2人を観ていて、フジテレビで平成8年(1996)に放映された『忠臣蔵』を思い出しました。赤穂浪士をドラマ化したものの中で一番好きな作品です。
この時の大石内蔵助が北大路欣也さんであり、吉田忠左衛門が神山繁さんでした。この二人の関係がなかなか良く。吉田忠左衛門と言えば、赤穂浪士の一人であり、大石内蔵助に次ぐ人物であり、文武に秀でており、また人望もあり、仇討を強行しようとする江戸の急進派を説得したと云われております。バラバラになりかけていた同志を結束させたのはこの方の働きが大きかったようです。ドラマでも大石内蔵助より出過ぎず、大石を理解し、側で支えていたのがよく描かれていました。ちょっと山南敬助と似たところがあるんですよね。同志を結束させたという点では『新選組!』の山南とも重なり。
赤穂浪士を新選組に例えるなら、大石内蔵助が近藤勇で、吉田忠左衛門が副長の山南敬助だろう。あれ?この考え方って反対か?新選組が後であり、近藤勇が忠臣蔵を好きだったというわけなので、近藤勇が大石内蔵助で、山南敬助が吉田忠左衛門ですね。どちらでもいいんですけれど。
また伊達家臣団を新選組に例えると、伊達輝宗が近藤勇であれば、遠藤基信が山南敬助、鬼庭左月が土方歳三であろう。また伊達政宗が近藤勇であれば、片倉小十郎が山南敬助、伊達成実が土方歳三であろう。
あ~私、やっぱりひとつの目的に向かっていく男たちの姿に弱いんだわ。戦国といい、赤穂浪士といい、幕末といい。その中でも、No2.で人望が厚く知的な人に弱いんだわ。

そして戦国大名で一番好きなのは伊達政宗、幕末で一番好きなのは山南敬助。伊達政宗が仙台藩を築かなかったら、約230年後に山南が生まれたか、約260年後に新選組副長山南敬助が生まれたか、わからない。やっぱりこれはすごーい縁だわ。
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by eri-seiran | 2008-03-28 17:54 | 歴史 | Comments(0)

『才女伝』に登場する桜田春三郎

子母澤寛と言えば、『新選組始末記』、『新選組遺聞』、『新選組物語』が出てくるわけで、これ以外の子母澤寛の本は読んだことがなかったのですが、昨年、当ブログを訪れて下さっている山南ファンの方から、子母澤氏の『ふところ手帖』(中公文庫)を教えてもらいました。榎本武揚や勝海舟など幕末を生きた人たちを描いた短編小説であり、その中に榎本の話である『才女伝』という物語があります。

榎本武揚が嘉永6年(1853)に海軍練習生として長崎に行き、そこでお勝という一人の少女に出逢いました。その後、榎本はオランダに留学しました。榎本が留学から帰って来た時、日本は大混乱中。そんな中で芸者になっていたお勝と再会。オランダ語もフランス語も話せたお勝を男性に変装させて、通詞(通訳)として海軍に採用させ、箱館まで一緒に行ったという話でございます。どこまでが史実で、どこまでがフィクションなのか、わかりませんが、もし女性を男性に変装させて箱館まで連れて行ったというのが史実であれば、仙台で合流して箱館まで一緒に行った土方歳三は気付かなかったのかしら?大河ドラマ『新選組!』の土方と同様に(苦笑)。
実際にこの物語の中でも土方の名前が出てきておりまして。このように書くと、土方が出てくるからとか、また義を通すために北上して行った男たちが描かれているからなどがこの物語に関心を持った理由かと思われるかもしれませんが、そうではありません。
この物語に桜田春三郎(はるさぶろう)が登場するからです。

さて桜田春三郎(後に名を桜麿と改名)は何者かと申しますと、仙台藩の武士の家に生まれ、北辰一刀流の剣士であります。物語の中では勤王派として描かれていますが、多分に尊王(勤王)攘夷派ではあっただろう。何故ならば春三郎の父親が桜田景行、その父親の弟、つまり春三郎の叔父が桜田良佐(りょうすけ)。この桜田良佐が幕末の仙台藩における尊王(勤王)攘夷派の理論的指導者であり、あの清河八郎とも知り合いで、清河が人を斬って幕府に追われていた時にかくまったと云われています。そしてこの良佐の息子が桜田敬助という人です。
ただ今、幕末の仙台藩とこの桜田一族についてちょっと調べている最中でありまして。どちらについても山南敬助絡みであります。山南の思想が実際にどうだったかはわかりませんが、桜田良佐と同じ思想だったとしても、また反対の思想であったとしても、仙台藩では有名な方だったようなので、知っていただろうなと思うんです。もしかしたら会ったことがあるかもしれない。
この桜田一族について、手元にある本だけでは史料が少ないので、インターネットで検索するとあまり引っかからず、特に春三郎。自分のブログが引っかかった時には驚きました。良佐、敬助、春三郎、以前に記事で触れているんですよね。一番近いのがこちらの記事です。
とにかくインターネットで検索してもあまり引っかからず。そんなことから、この人らについて語ることはタブーなんだろうか?と思ったり。自分自身も自分のブログでこの一族について深く語るのは避けてきました。理由は色々とありまして。しかしもう解禁です。

さて桜田春三郎が物語の中でどのように登場するかと簡単に説明すると、仙台藩の有名な勤王攘夷派の一人である遠藤文七郎(充信)が、仙台藩にやって来た榎本武揚、外国人、通詞を斬れと春三郎に命じるのです。春三郎は榎本らが滞在している外人屋まで行くのですが、外人屋には榎本の外に陸路会津方面から来た偉い奴も大勢いて、用心が厳重だろうと言って踏み込めないわけです。この陸路会津方面から来た偉い奴に土方歳三は筆頭で挙げられるだろうなと思いながら読んでいました(笑)。そして春三郎は通詞である田島勝太郎(つまり女であるお勝)を斬ろうとするのですが、榎本も外国人も斬れないにも関わらず、弱々しい通詞の男(だって女だから)だけを斬ったら、武士の恥だということで春三郎は斬れないわけです。結局、遠藤や春三郎が榎本らを斬ろうと機会を狙っているうちに榎本らは箱館に向かって行ったというわけです。
この仙台での出来事は春三郎がその後に語っており、それを筆録した人がいて、子母澤氏はその筆録もこの小説にて書いています。

春三郎は土方歳三を遠くから見たかもしれないなと思うんです。少なくとも榎本の命を狙っていたわけだから榎本は見ているだろうし、榎本が土方と一緒の時もあっただろうな。桜田春三郎と土方歳三にこんな縁があったなんって思いもせず。
そして子母澤寛氏が桜田春三郎を物語に登場させていることに、私的にはとてもサプライズだったりするわけです。
この桜田一族についてはもう少し整理して、いつか記事に。
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by eri-seiran | 2008-03-26 22:39 | 歴史 | Comments(2)

平成19年度歌舞伎鑑賞総まとめ

昨年の10月から毎月1回は江戸に行っていまして、目的は歌舞伎鑑賞だったり、舞台『恐れを知らぬ川上音二郎一座』の鑑賞だったり、大河ドラマ『篤姫』の撮影見学だったり、山南敬助ゆかりの地を歩くだったり、とにかく生活エリアから離れたーいだったり。
こうして挙げると、なんって欲張りなんでしょう。
その江戸行き、10月から2月までの5ヶ月連続というところで記録はストップとなりそうです。そうなんです、今月は悩んでいましたが、諦めました。
年度末で仕事が慌ただしく、23日(日)が山場であり、江戸に行くとしたら24日~26日だよな~とは思っていて、山場は終わっても仕事はまだ溜まっているし、難しいな~と。しかしいざとなったら日帰りでも、また宿にて仕事をしてでも行こうとは思っていました。でも諦めがつきました。諦めがついた一番の理由は、今週はNHKスタジオパークで『篤姫』の撮影がないということ。『篤姫』の撮影があっても徳川家定@堺雅人の撮影がなかったら、私にとってはあまり意味がないんですけれど。第2回山南忌が行われた週の11日~14日は連続であったそうで、後どれくらい残っているのか、知らないうちにクランクアップになってはいないかというのもあるのですが、まだ諦めてはいないんです。しかし今週はないと聞いて、正直言ってほっとしています。だって仕事の事など色々と考えると、行くには厳しいものがありますから。

江戸行き5ヶ月連続という記録がストップしたのと同時に、片岡孝太郎さんの舞台鑑賞も4月から続いていた記録がストップしました。今月、歌舞伎座で鑑賞できたら、俳優祭は除いて、孝太郎さん出演の舞台は一回も外すことなく1年間観たということになったんです。昨年の4月の第四回浪花花形歌舞伎で始まり、今月を観られたら、来月の4月に第五回浪花花形歌舞伎を観て、祝・1周年を迎えられたのですが、残念。今月の歌舞伎座での孝太郎さんの出演の演目や役柄によっては歌舞伎鑑賞だけでも無理して江戸に行ったと思いますが、来月のチケット代のことなどを考えると、無理はできないし。来月、上方ということで、距離的にはとても行きやすいんですけれど、新年度になってシフトが変わるので、自分のスケジュールの目処が立たない。とりあえず、第一部から第三部まで一回分ずつはチケットを抑えましたが、シフトがわかり次第、少なくとも第一部の『妹背山』のチケットをもう一枚ゲットするつもりです。大きなお役なんですって。第五回花形歌舞伎出演者の意気込みはこちらより
平成19年度の孝太郎さんの舞台鑑賞を挙げてみます。

4月 第四回浪花花形歌舞伎 大阪松竹座
第一部 『敵討天下茶屋聚』 伊織妻染の井
第二部 『色彩間苅豆』 腰元かさね
第三部 『夏祭浪花鑑』 団七女房お梶

第二十三回四国こんぴら歌舞伎大芝居 旧金毘羅大芝居(金丸座)
第一部 『正札附根元草摺』 小林妹舞鶴
第二部 『男女道成寺』 白拍子花子

5月 三響會 京都南座
『喜撰』

6月 6月歌舞伎鑑賞教室 国立劇場大劇場 
『双蝶々曲輪日記』 女房お早
 
7月 七月大歌舞伎 大阪松竹座
昼の部 『鳴神』 雲の絶間姫
夜の部 『鳥辺山心中』 若松屋遊女お染
      『女殺油地獄』 七左衛門女房お吉

8月 八月納涼大歌舞伎 歌舞伎座
第二部 『ゆうれい賃屋』 弥六女房お兼
      『新版 舌切雀』 孔雀王
第三部 『通し狂言 裏表先代萩』 田村右京妻沖の井

10月 芸術祭十月大歌舞伎 歌舞伎座
昼の部 『赤い陣羽織』 おやじの女房

11月 吉例顔見世興行 歌舞伎座 
昼の部 『種蒔三番叟』 千歳
『曽我綉侠御所染 御所五郎蔵』 傾城逢州
夜の部 『三人吉三巴白浪 大川端庚申塚の場』 お嬢吉三

12月 吉例顔見世興行 南座
昼の部 『二人椀久』 松山太夫
夜の部 『河内山』 腰元浪路

1月 壽初春大歌舞伎 歌舞伎座 
夜の部 『鶴寿千歳』 梅
      『助六由縁江戸桜』 三浦屋白玉

2月 二月大歌舞伎 歌舞伎座
夜の部 『寿曽我対面』 化粧坂少将
   
こうして挙げると怒涛の勢いでの歌舞伎鑑賞でした。途中で挙げることに疲れてきて、またちょっと怖くなってきまして(苦笑)。これ以外にも孝太郎さん出演じゃない歌舞伎も観に行っているからな。
そして自分の鑑賞にも驚いたのですが、これだけ舞台に出ている孝太郎さんってすごいな~と改めて思いました。

この中で一番の好きなのは、『女殺油地獄』のお吉@孝太郎だな。『鳥辺山心中』の遊女お染も可愛らしくてよかったし、それから『通し狂言 裏表先代萩』の沖の井も凛としていて良かったな。松山太夫はとてもきれいだったな。まあ~どれもそれぞれ良く、挙げていたら限がありませんので。
平成20年度、4月についてはチケットをゲット、5月は南座、6月は国立劇場大劇場に行く予定です。平成20年度も怒涛のごとく歌舞伎鑑賞が続きそうです。
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by eri-seiran | 2008-03-25 13:58 | 歌舞伎 | Comments(4)

山南死後の経過と状況~元治2年(1865)3月~

平成18年(2006)3月より、山南敬助が浪士組と上洛して京に残ることを決めた文久3年(1863)3月から山南が亡くなる元治2年(1865)2月までの2年間の経過と状況を同じように2年間に亘って記事にしてきました。先月の記事でこのシリーズものは一応終わったのですが、山南が亡くなった後もちょっと気になる出来事があるので、山南死後の経過と状況ということで今月は記事にしたいと思います(多分に来月も)。
と言うことで、今月は元治2年(1865)3月の経過と状況です。

3月1日 土方歳三、佐藤彦五郎宛に書簡を記す。

内容は同じ月の10日頃に西本願寺に移転するということ、また上方の情勢などについてです。ここで謎なのか、7日前の2月23日に亡くなった山南に触れていないこと。しつこいほど書いていますが、山南は多摩の人たちとも親しかったわけです。だから山南の死は多摩の人たちに伝えなければならないこと。しかし触れていません。土方は切腹した山南のことを書簡で伝えることができなかったのでは?だから直接に会って話すつもりでいたという考えも出てくるわけですけれど、反対にすでに伝えているとしたら、この書簡で改めて伝える必要はないわけで。山南の死を伝えた書簡が現代に残っていないという考えもできるのではないのかと思ってもいます。

3月3日 新選組隊士の大谷良輔が切腹する。

3ヶ月ほどしか在隊しなかった隊士で、河内の出身。光縁寺の過去帳の『往詣記』には記録があるものの、墓碑がない。切腹というのは生家に伝わっているそうです。山南の死から10日あまり、亡くなった理由が切腹、光縁寺に記録はあるけれど墓碑がないということなどから、なんかスルーできず。

3月10日頃 壬生から西本願寺に屯所を移す。

土方の書簡から引っ越しはこの辺りと考えられます。

3月20日 近藤勇、小島鹿之助宛に書簡を記す。

伊藤東涯と大石内蔵助の書幅を送るという内容のものであり、この書幅は現存しており、この後に東下りする土方に託されたらしい。この書簡はとても簡略なものであり、近藤も山南の死については触れていません。

3月21日 沖田総司、佐藤彦五郎宛に書簡を記す。

総司の書簡も近藤の書簡と共に東下りする土方に託されたのでしょう。内容は自分も土方と一緒に東下りする予定だったが、忙しいためにできなくなったということ。そして文末にさり気なく、山南兄が26日に亡くなったと記しています。

3月22日頃 土方、伊東甲子太郎と斎藤一と共に京を出立する。

土方が江戸に着いた日(4月5日)、総司が書簡を記した日、当時、江戸までかかる平均的な日数から、出立はこの頃と思われます。
江戸から京へ帰る時の記録、また小島鹿之助が土方以外に他弐人が江戸に着いたと記していることから、伊東甲子太郎と斎藤一が一緒だったのはほぼ間違いなし。江戸から京への帰りは藤堂平助がいたから会話も少し弾んだだろうと想像するのですが、行きはこの3人でどんな会話をしたのか、興味津々でございます(笑)。

             (参考文献:新選組日誌 コンパクト版(上) 新人物往来社)

3月の経過と状況を書きながら、妄想が色々とすげー膨らんできてどうしましょう(苦笑)。
そんな中でひとつあり得るなと思ったのは、小島鹿之助に山南の死を伝えた書簡があるのでは?ということ。当時、多摩の人たちのどなたか一人に京から書簡を送られると、それが多摩の人たちの間で回覧されたりして他の人にも伝えられます。
もし山南の死についての書簡を送るのであれば、小島鹿之助宛になるのでは?と想像するんです。残っている記録から山南が多摩の人たちの中で誰と一番親しかったかと考えると、小島鹿之助だったのでは?だから小島鹿之助に送られたのでは?小島鹿之助から佐藤彦五郎、橋本政直などに山南の死についての書簡が回覧、また伝わったのでは?
今回、土方、総司の書簡が佐藤彦五郎宛であり、小島鹿之助宛はない。また近藤は小島鹿之助宛に書幅を贈るということだけの短い書簡であり。屯所が移り、忙しかったのでしょうけれど、なんだかな~と思っていて。それまでに小島鹿之助宛に書簡を送っていたとしたら、それも納得できます。そして総司が佐藤彦五郎宛の書簡でさりげなく山南兄の死に触れているのも、鹿之助宛の書簡を見るなどして佐藤彦五郎は山南の死について詳しいことは知っていたという前提なら納得できるんだけれどな。
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by eri-seiran | 2008-03-24 09:54 |  出来事 | Comments(0)

ヨガをする青年に萌え!

『やさぐれぱんだ 金』と『やさぐれぱんだ 銀』と『壁男』のDVDが我が家にやってきた18日火曜日頃から仕事など何かと忙しくバタバタしており、特典映像を含めどれも最初から最後まできちんと観ていないんですが、美味しいです。
特に『やさぐれぱんだ』の美味しいこと。食事を取りながら、また一息つきたい時に本篇はほぼ観ましたが、前回の白盤と黒盤よりパワーアップしている感じが私的にはしました。青年@堺雅人とパンダ@生瀬勝久に癒されたお陰で、忙しい峠を乗り越えられたと言っても過言ではありません。

その中でも萌度が高かったのが銀盤でのヨガをする青年@堺雅人。この人のヨガがとてもきれいなんですよ。またとても体が柔らかいんですよ。知らなかったわ(苦笑)。
今年に入ってからでは、ヨガをする青年@堺雅人は、馬の顔をなでなでするシゲちゃん@堺雅人に続く萌度の高さです。ここだけ何回も見ちゃった(笑)。

やさぐれぱんだの公式サイトで、お気に入りのエピソードの人気投票をやっていまして、銀盤では青年とパンダがヨガをするヨガ講座がトップでございます。
そうよね、美味しいですよね。

<追記>
こちらの記事にて、堺雅人さんの『やさぐれぱんだ』についてのインタビューがあります。この方のインタビューはいつもながらとても楽しい。そして堺さんの一番気に入っているエピソードもヨガだそうです。その理由は自分のことではなく、ヨガをするぱんだに感動したそうで。そうなんです、ヨガをするぱんだはとても大変だと思うんですけれど、とてもかわいいんです。めちゃくちゃかわいいんです。堺雅人のヨガは美しく、そしてぱんだのヨガはかわいいく。
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by eri-seiran | 2008-03-23 23:14 | 『組!』の愛しき役者たち | Comments(0)

『ちりとてちん』と『新選組!』 其の弐

連続テレビ小説『ちりとてちん』を観て、今朝も涙だったのですが、月曜日の第140回での小草若が帰って来たシーンは涙、涙、涙でした。
朝にリアルタイムで観て涙、午前中に録画したものを観て涙、ランチを食べながら再び観て涙。
そしてこんなに何回も観ていると、邪道な見方が出てきまして(汗)。

平成16年(2004)の大河ドラマ『新選組!』を通じて多くの方と出逢い、今でも親しくさせて頂いております。『新選組!』が終わり、色々なドラマと出合ってきたわけですけれど、『新選組!』を通じて知り合った多くの方が共通してはまっているドラマが『ちりとてちん』。
これって自分の身内ばかりなのだろうかと思ったりもしていたのですが、山南忌でそうでないということを知り、やはりこのドラマは新選組と『新選組!』に相通じるものがあるんだと確信しました。

これまでの記事で草若師匠を山南敬助@堺雅人に例えたり、四草を斎藤一@オダギリに例えたりしてきましたが、先週の四草を観て、やっぱり斎藤一だと。みんなのことをよく見ていて、よくわかっていて、いつもはあまり感情を出さない人が思いっきり怒って。
『新選組!』の第47回にて、雨の中、誠の旗を持って、

俺がいる限り新選組は終わらない

と叫ぶ斎藤一。
四草は草若師匠に自分から弟子入りしたわけですが、でも草若師匠に拾われ救われました。斎藤も近藤に拾われ、そして新選組に救われたんだよな。

月曜日の第140回での邪道な見方とはこんな感じです。
長い間、脱走でなく失踪していた小草若ちゃん、徒然亭に戻ってきて、みんなからとてもとても温かく迎えてもらっていいな~と、わけのわからない羨ましい気持ちと嫉妬が出てきました(苦笑)。
そして山南も小草若のようにもっと素直になれたらよかったのにねと。そんな気持ちが出てきたら、もちろん、自然に考えてしまいますよ。
小若草が山南敬助@堺雅人、草々が土方歳三@山本耕史、若狭が沖田総司@藤原竜也、四草が斎藤一@オダギリ、草原が近藤勇@香取。そして悩んだのが小草々。土方に最後までついて行く尾関雅次郎@熊面鯉がいいな。
ただこれは、脱走した山南が無事に戻ってきて、これからも新選組で一緒に頑張ろうと皆が迎え、山南も新選組で再び頑張りますと言って、良かった良かったと手を叩いて喜ぶバージョン。
実際の第33回では、戻ってきた山南に表向きには近藤も土方も切腹だと言いながらも、何故に戻ってきたんだと山南、そして自分らを責め、山南になんとか再び脱走してほしいと願っていましたからね(涙)。
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by eri-seiran | 2008-03-21 09:32 | エンターテインメント | Comments(0)

新暦での命日

第2回山南忌が行われた頃から、関西では春らしい暖かい日が続いていました。しかし昨日よりちょっと肌寒くなり、また雨となりました。雨は一晩中降り、これからは上がってくるようです。
雨で始まり、ちょっと肌寒い3月20日。
山南敬助の新暦(太陽暦)での命日です。
山南敬助が亡くなったのは元治2年(1865)2月23日。これを新暦で考えると、3月20日になるそうです。

春がそこまできていただろうに。
でも朝晩はまだ寒かっただろうな。
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by eri-seiran | 2008-03-20 09:06 |  出来事 | Comments(0)

池田屋事変の回にて涙

山南ファンの私にとって、映像や書物などで、山南敬助がどのような理由で、また状況で池田屋事変に参加しなかったのか、そしてその時の山南と土方、山南と近藤の関係の描き方がとても気になり、またこれらがわかるまでドキドキものであり、体にとても悪い。

平成16年(2004)の大河ドラマ『新撰組!』を観ていた時の自分を思い出させてくれるTBSチャンネルでの『新選組始末記』であり、そのドラマにおける池田屋事変です。先週が池田屋事変 その一であり、今週がその二ということで、そしたらその次が禁門の変で、その次が永倉新八らの近藤批判で、そして伊東甲子太郎の登場があって、少なくとも山南の切腹まで後3話はあるわねと思っていました。しかし今日、なかなか池田屋に踏み込まないのでおかしいなと思ったところ、次回が池田屋事変 その三ですって(来週はお休みで2週間後)。次回、池田屋に踏み込みます。お陰で、山南敬助の切腹がちょっとだけ先になったわ。

本日、山南敬助@高橋長英が池田屋事変にどのような理由で、また状況で参加しないのか、ドキドキしながら観ていました。
山南は会津を初め幕府が傍観するような状況の中、また戦える隊士が30名しかいないのに、踏みこむということには反対。
しかし近藤勇@平幹二郎は山南の考えを理解しながらも、踏みこむこと、また局長の命令であり、従わなければ局中法度に照らすと言う。
そして屯所も襲われるかもしれないので、留守隊の指揮を山南に命じます。
試衛館のメンバーもいて、山南と近藤と土方の議論を聞いていますが、誰も何も言わない。山南だけのベクトルが違う。
局中法度に照らすと言われた時、留守隊の指揮を命じられた時の山南の表情が切なくて、切なくて、涙が出てきました。

またみんなが去る中、土方歳三@古谷一行が残り、山南に

山南さん、しっかり屯所を守ってくれ。

悲しい目をした山南が土方に

心得た。心おきなく戦ってきてくれ。

と。だから再び涙。
しかしここでの土方がよくわからなかったな。これまでの土方は山南のことをよく思っていなかったし、また踏み込むかどうか議論する中で、山南との意見は合わず、ひにくな言い方をしたりしていたのに。

私、新選組の映像って数えるほどしか観ていないけれど、池田屋事変のところで泣くのは初めてでした。まあ~普通、ここでは泣きませんよね?
ここで泣いていたら、切腹の回ではどうなるのかな(汗)。平成16年8月22日のような日が再来するのかしら。
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by eri-seiran | 2008-03-18 23:27 |  ドラマ/映画/舞台 | Comments(0)

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