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プロフィール第四章~山南の剣術について~

今日は山南敬助のプロフィール第四章として、山南の剣術について語ります。
山南のプロフィール第一章で、山南が学んだ剣術は、小野派一刀流北辰一刀流天然理心流と言うように、三つの流派を挙げました。

北辰一刀流
山南と言えば、北辰一刀流が一番最初に挙げられるでしょう。
それは、永倉が「殉節両雄之碑」の拓本の余白に、
「陸奥国仙台脱藩文武研究剣術北辰一刀流千葉周作門人免許新撰組隊長山南敬輔」(新撰組顛末記より抜粋)
と書き遺しているからです。
これは、明治37年、永倉が66歳の時のであり、山南の死後から約40年が経っています。この記録から、山南は北辰一刀流で、千葉周作の門人であったと伝われてきました。
ちなみに藤堂平助については、「~北辰一刀流千葉周作門人目録新撰組副長助勤藤堂平輔」と、書かれています。そのために早くから試衛館の食客となっていた山南が藤堂を誘った、また藤堂が伊東らと共に新選組から分離した理由は、同じ門人であった山南が切腹させられたために、近藤・土方らに不満を持つようになったからという見方がありました。藤堂については、伊東の同志であった加納鷲雄が、「平助は伊東の寄り弟子」という表現をされており、同じ北辰一刀流として伊東道場に出入りしていたのかもしれないとのことです。
千葉道場で有名な人と言えば、坂本龍馬が挙げられます。
すみません。訂正します。坂本が入門したのは、同じ千葉道場でも千葉周作の弟である定吉の桶町千葉道場の方です。千葉周作の道場である「玄武館」で有名な方は、山岡鉄舟、清川八郎が挙げられます。新選組を作るきっかけを与えてくれたとも言える二人のことをすっかり忘れていました。 千葉道場の門人に関する記録に、坂本の名前はあっても、山南や藤堂の名前はありません。山南の名前がある資料が残っていれば、北辰一刀流千葉周作門人説が証明されるのですが・・・

小野派一刀流
柳剛流の剣客であった中山幾之進が遺した「攪撃修行録」に、中山があちらこちらに出向いて試合をした相手の名前が記載されています。50名ほどの名前が載っており、一番最後になんと、なんとですよ~

飯田町堀留大久保九郎兵衛門人
              一刀流 山南敬輔


そうです!これは山南敬助のことなんです。
50人それぞれの筆跡が違うことから、試合相手に名前を書いてもらっており、これは山南敬助の今日に伝わる唯一の真筆であります。この目で見たい!!と思うのは、私だけでしょうか?
清水隆氏の考察によると、嘉永6年(1853年)の出来事らしい。その時、山南は21歳です。
大久保九郎兵衛が教えていたのは小野派一刀流ということが、他の資料で証明されており、山南は大久保九郎兵衛に就いて、小野派一刀流を学んだということになります。
この大久保九郎兵衛は宝蔵院流槍術・一心流長刀の師範もしていたらしく、山南も槍術・長刀を学んだ可能性があるというわけです。
みなさん、すごいでしょう、すごいでしょう!自分のことのように自慢したい私です(笑)
この大久保が59歳で亡くなったのが、安政3年(1856年)です。山南が24歳の時です。もし山南が大久保の亡くなるまでこの道場にいたとしたら、その1年前に亡くなっている千葉周作の門人にはなれないのです。その一方で、もし山南が千葉周作が亡くなる前に大久保道場を辞めて、千葉周作の門を叩いたなら、北辰一刀流千葉周作門人説もありうるというわけです。しかし1853年の段階では大久保九郎兵衛門人という本人による記録があるので、千葉周作の門人になれると考えられる期間はわずか2年です。そのことを考えると、難しいと思います。もう一つ考えられるのは、大久保道場の門を叩く前に、千葉道場を叩いて門人になったということです。しかし年齢的なものから、これも考えにくいのでは?

(北辰一刀流と小野派一刀流については、新人物往来社出版の新選組銘々伝第四巻 清水隆氏が書かれている山南敬助を参考にさせて頂きました)

天然理心流
多摩の人たちが残している記録の中で山南の名前が初めて出てくるのは、つい最近になって発見された佐藤彦五郎日記です。
文久元年(1861年)1月14日、「十四日近藤勇、門人沖田惣次郎(沖田総司)ほか一名、および山南啓助(敬助)の総勢四名が来たり泊まる」(佐藤彦五郎日記一より抜粋)と書かれてあります。そして翌日から二日間、多摩の古谷道場で新年の稽古が行なわれました。古谷優之助の「剣術覚帳」に、その結果が記録してあり、山南の名前はもちろん、近藤、そして土方や井上源三郎の名前も出てきます。
山南が大久保が亡くなるまで大久保道場にいたと考えたら、亡くなった1856年~1860年までの間に試衛館を訪れたということになります。
この1861年の8月には、近藤勇四代目襲名披露の野試合にも出て活躍しています。また文久2年~文久3年(1862~1863年)には、沖田と共に師範代として多摩へ出稽古に行って、謝礼金をもらっております。と言うことは、天然理心流の剣術も身につけているということです。そしてそのような状況を考えると、山南が試衛館の食客になったのは、1856年~1860年の間でも、比較的早い時期だったのではないかと思われます。

とにかく、このような経過で、山南の剣術は北辰一刀流、小野派一刀流、天然理心流と言われているわけです。
すごいでしょう!!どちらかと言うと、博学というイメージが強いと思われるのですが、剣術においても優れていたのです。
by eri-seiran | 2005-11-06 09:19 |  山南敬助

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