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山南敬助と総司、小島家を訪れる

○十七日 天気
近藤門人山南啓助、澳田惣次来ル
○十八日 七時より小雨
門生稽古始む。上溝金子鉄五郎、乙次郎来ル。恩田江清川八郎一件申し送る。千代田回答四枚写ス。惣次、啓助等帰る。

        
「新選組日誌 上 コンパクト版」(菊地明・伊東成郎・山村竜也編)より抜粋

『小島家日記』に書かれてある記録です。浪士組参加が決まった文久3年(1863年)1月17日に山南敬助と沖田総司が小島家を訪れ、18日に帰ったという内容です。澳田惣次とは、沖田総司のことです。また清川八郎一件とは、浪士募集に伴なう清河八郎の大赦令のことらしい。清河の捕縛中止の達しが庄内藩にあったらしく、同じような文書が回覧されてきたのではないかとのことです。

「新選組日誌 上 コンパクト版」では、十五日には土方歳三、十六日には近藤勇が同じように訪れている記録が残っていることから、この山南と沖田も浪士組参加の挨拶のために訪れたという見方がされています。

ここで幾つかのポイントが挙げられ、それについての私の勝手な考察です。

其の一 なぜ山南敬助と総司のペアで、土方、近藤は一緒じゃなかったのか?
 近藤は実家の宮川家など、土方は実家や為次郎兄さん、そして佐藤家などそれぞれの身内への挨拶にも行ったはずです。そこで数日過ごしたことも考えられるでしょう(土方の場合、生活基盤は試衛館でなく、石田村にあったという見方もされています)。多摩方面には直接の身内がいない山南敬助と総司がペアになったのは自然なことではないでしょうか。
土方が、「俺はあんた(山南)とは一緒には行きたくないぜ」と思った、言ったとは考えにくいでしょう(苦笑)

其の二 二人が訪れたのは小島家だけだったのか?
 小島家を訪れる前、或は小島家を発った後、佐藤彦五郎家などこれまでお世話になった多摩の方々にも挨拶に行ったことも考えられるのではないでしょうか。律儀な人ですから・・・そこで土方、或は近藤らと会ったかもしれません。
この時期の佐藤彦五郎の日記が見つかっていませんので、分からないのが残念です。

其の三 浪士組参加への挨拶だけだったのか?
 浪士組参加の挨拶が目的だったわけですが、「門生稽古始む」と書かれていることから、門生の稽古風景を見た、或は稽古の相手などをした可能性も無きにしも非ず。

其の四 清河八郎の件について小島家で話題になっただろうか?その時、山南敬助は?
 山南敬助や総司が小島家を発つ前に、清河八郎の件について申し送りがあったならば、もちろん話題になったでしょう。『新選組!』では、山南敬助は清河と知り合いという設定でしたが、史実はわかりません。知り合いであろうとなかろうと、浪士組への参加、上洛に夢、希望を持っていた山南敬助。清河のことは高く評価していたのではないだろうかと思います。

其の五 山南敬助は食客だったのか?門人だったのか?
 当時の記録に近藤門人山南啓助と書かれていることから、食客ではなく門人であったことを証明していると思います。

山南敬助は、近藤や土方らと同じように小島鹿之助を慕っていたでしょう。また反対に小島鹿之助も山南敬助のことを大切に思っていてくれたのだろうと、この記録を見て思うわけです。

そして山南敬助と総司についてです。
二人は色々な思いを馳せながら、多摩に向かったのでしょう。
歩きながら、どんな会話をしたのだろう?
このような記録が残っていることから、山南は総司を弟のように、総司は山南を兄のように慕っていたと言われるひとつの理由になっているわけですが、私的にはそれだけでは???と、思うところがありました。
しかし二人だけで行ったことを考えると、仲は悪くなかっただろう。そして9歳の年齢の違い、また試衛館での生活、稽古などを一緒にしてきたら、弟のように兄のように親しくなるのはごく自然なことだな~と思えてきました。

私から見ると、夢と希望に満ち、二人にとっては一番幸せな時期に思えます。
山南と総司が上洛後、もし昔のことを思い出す時があれば、上洛前に二人で小島家を訪れたことを懐かしく思い出したのではないでしょうか。
by eri-seiran | 2006-01-19 17:25 |  出来事

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