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元治2年2月21日 何を思い、何を考えていたのだろうか?

元治2年(1865年)2月21日 
山南敬助はどこにいたのだろうか?
健康状態はどうだったのだろうか?
何を思い、何を考えていたのだろうか?

そんなことを数日前から考えていました。

脱走説が史実であれば、やはり壬生にいたことになるだろう。
本気で脱走する気があれば、健康状態は良かったのだろう。
健康状態がまだ良くなっていなかったとしたら、初めから捕まるつもりで脱走したのだろうか。
また山南自身にとって思慮に欠けての行動であったなら、自分の健康状態のことなんか考えていなかったのではないだろうか。その結果、体力的にやはり無理で、大津で総司に追いつかれたのかもしれない。

もし本気で脱走する気であれば、何を思い、何を考えていたのだろうか。
新選組の進む道と自分の進む道が違ってきたから、もう自分は新選組にはいられないというギリギリの状態だったのだろうか。
近藤や土方らとは、これ以上一緒にやっていけないと思ったのだろうか。
試衛館で同じ釜の飯を食べてきた仲間たちのことは考えたのだろうか。
自分が脱走することで、何かを変えられると思ったのだろうか。
本気で逃げられる、或いは江戸に帰れると思ったのだろうか。

もし脱走説が史実でなければ・・・
静養のために大津にいたのではないだろうか。そこに沖田が迎えに来たのではないだろうか。
壬生にいたとしても、健康状態はよくなかったのではないだろうか。剣を使えない体になっていたかもしれない。
静養中のため、新選組の幹部として何もできない自分を責めたのではないだろうか。
近藤や土方らを羨ましく思っていたのだろうか。
静養中の自分は近藤や土方らの厄介者になっていると思っていたのではないだろうか。
伊東甲子太郎の参加によって、自分の居場所がなくなったと感じたのだろうか。

もし脱走説が史実であっても、土方も承知のものだったとしたら・・・
例えば『黒龍の柩』の山南敬助の脱走理由。
山南、土方はそれぞれに何を思っていたのだろうか。

すみません。すべて私の勝手な想像です。ご了承ください。

明日、22日は山南敬助らが江戸を出立して15日目。最後の宿場となる大津宿まで歩いた日です。そしてその2年後、脱走して大津で総司に追いつかれたと言われている日でもあります。

元治2年2月21日 何を思い、何を考えていたのだろうか?_a0044916_21561452.jpg先日、天気の良い日にドライヴをして、大津で撮った琵琶湖と比叡山と比良山です。私には、とてもきれいな景色に見えました。
文久3年(1863年)の2月22日、元治2年(1865年)の2月22日、彼は大津にいて、琵琶湖を見たかもしれません。もし文久3年の2月22日に、琵琶湖を見ていたなら、とてもきれいに見えたことでしょう。もし元治2年の2月、同じように琵琶湖を見ていたなら、どんな風に見えたのだろう。2年前とは随分違う景色に見えたのでしょうか。
by eri-seiran | 2006-02-21 22:00 |  出来事

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