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『行くか、残るか』

さて、文久3年(1863年)、2月23日に壬生村に着いた山南敬助たちですが、清河八郎によって、せっかく幕府のために働こうと思っていた彼らの思いは砕け散ったわけです。

3月3日、浪士組に江戸帰還命令が下ったそうです。
ここで彼らは、『行くか、残るか』を迫られるわけですよ。
結局、山南敬助ら試衛館派の8人、芹沢鴨ら5人は残ることを決めたわけです。他にも9名いたと言われています。
永倉新八の『新撰組顛末記』には、清河八郎は試衛館派の8人と芹沢鴨らの5人、計13人の同志に江戸帰還を反対されて、勝手にしなさいという怒りを持ち、畳をけって席を立ったとのこと。13名は鵜殿へ相談し、鵜殿が会津候へ伝え、松平容保公によって預かってもらえるることになったそうです。
明治に書かれた永倉新八の『浪士文久報国記事』では、松平容保公のお陰で14人が残留することになったと書いています。『新撰組顛末記』より1名多いのです。この1名は斎藤一のことです。斎藤一も本当に謎なんですよね~すみません!この件については、今回はスルーします(汗)

とにかく彼らに光が見えたのです。
嬉しかったでしょう。本当に嬉しかっただろうな。

大河ドラマ『新選組!』では、この辺りの経過が第14回から16回にかけてとても丁寧に描かれていたな~と思いました。山南ラヴとしては、第14回、15回の堺@山南を観ていると辛くもあるのですが、好きな回でもあります。
史実は、どのような経過で二つの派が残るようになったのでしょうか?
試衛館派は試衛館派で話し合ったのだろうか?話し合いならば、どんな意見が出たのだろうか?みんなの意見はすぐに一致したのだろうか?どんな思いだったのだろうか?
またどのようにして斎藤一がすぐに合流したのだろうか?
とてもとても気になるところです。
by eri-seiran | 2006-03-08 00:04 |  出来事

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