左之助の死亡説・馬賊説

もうすぐ、総司の旧暦での命日だな~と考えていたら、原田左之助の旧暦での命日をスルーしていました。左之助、ごめん!
慶応4年(1868年)5月17日です。総司が亡くなる13日前です。

上野彰義隊の戦いにおいて、重傷を負って、現在の東京都江東区森下にあった神保山城邸にて死亡。

何故、永倉新八と共に、靖共隊の副長となりながら、靖共隊を離れてしまったのだろうか?
妻子への愛着が今の千葉から江戸へ引き返した理由なのでしょうか?それなら何故、その後、彰義隊に加わったのだろうか?
官軍に囲まれて京に帰れなかったからとも言われていますが・・・

さてこの方の場合、ご存知の通り、生存説があります。
支那に渡って、馬賊になっていたと・・・

大河ドラマ『新選組!』では、左之助の最期は描かれませんでした。妻のまさにも、馬賊になると言うなど、伏線はありましたが、その後については、視聴者のみなさんの想像にお任せしますといった感じでしょうか?
私的には、『新選組!』の左之助は支那に渡って、馬賊になったと思っています。そして史実の原田左之助も支那に渡って馬賊になったと思いたい。そんな夢があってもいいじゃないのかな~
しかし左之助の直系にあたる子孫の方々にとっては、そういうわけにはいかないようです。
左之助が支那に渡って馬賊になったと云われているのは、日露戦争が治まってきた明治40年に故郷である松山市に本人・左之助が現れ、実弟、甥が会ったという話しから、この生存説が出てきたらしい。だが、もし左之助が生存していたら、なにが何でも妻子を訪ねるだろうと言う理由から、死亡説の方を取っているらしい。

そして、私は左之助の死亡説・馬賊説が子孫たちの中で分かれていたことを知り、山南敬助の身内、子孫は居なかったのか?山南の死を知ることができた子孫の方はいなかったのか?という壁に、またもやぶつかってしまいました。
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by eri-seiran | 2006-05-24 19:39 | 新選組

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