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今日は宵々山、と言うことは池田屋事変が起きた日

今日は、祇園祭の宵々山です。
そして、元治元年(1864年)6月5日、宵々山の日に池田屋事変は起こりました。元治元年6月5日を新暦で考えた場合は、7月8日になります。しかし現代の祇園祭の宵々山で考えると、今日というわけです。

新選組が潜伏浪士を丹念に探索した結果、5日早朝、桝屋喜右衛門という人物を捕縛。彼の本名は古高俊太郎、倒幕派でした。
古高が連行された後、残った隊士が桝屋の屋内を調べたところ、木砲や火薬など、そして密書が見つかりました。

その密書には、過日承り合わせ候とおり、烈しき風を機会とす・・・と書かれていたそうです。
彼らは、風の強い日に京の焼き討ち計画を立てていたわけです。

そして屯所では古高への拷問が始まりました。また一方では、封印した桝屋の屋内から武器などが奪還され、新選組は決断を迫られます。
会津藩に出動の許可を願い出た新選組。会津藩もこの事態を重く見て、容保公より幕府諸隊に出動要請の以来が出されまた新選組には出動要請受諾を伝えました。
夕刻、新選組の隊士たち34人が祇園会所へ集結。

ここからが、私にとっては問題なんです。この時期に新選組に所属していたと思われる方で、祇園会所へ集結しなかった、つまり池田屋事変に参加しなかった方々は、山崎、尾形俊太郎、尾関雅次郎、山野八十八、柳田三次郎、そして試衛館のメンバーで唯一参加しなかった山南敬助。
彼らが参加しなかった理由には、幾つか上げられます。病気や怪我のため、屯所の警備、大阪出張など。
山南の場合、これまでは、土方との不仲説、尊王思想が強かったために同じ考えの志士たちと戦うのを拒んだという説、ナンバー2の立場から屯所警備説、そして病気説。
ただ近年では、病気のために静養、屯所の警備という見解が多いように思います。
私的にも、土方との不仲や尊王思想が強かったから参加しなかったという説は、考えにくいだろうと思います。
病気でなくても、岩木桝屋事件による負傷で剣を使えなかったら、戦闘には参加できないので、ナンバー2という立場を考え、屯所の警備の責任者ということも考えられる。しかし完全に身体的にも精神的にも静養しなければならない状態だったなら、屯所ではなく、静養に適した違う場所にいたかもしれません。
この日、山南敬助はどこにいたんだろう?

そしてこの時、新選組が動かなかったら、京の町は火の海となったかもしれない、祇園祭はとんでもない状況になっていたかもしれない。
そういう状況にならないように防いだのが新選組です。
新選組が屯所に帰り着いたのは、次の日のお昼頃だったと云われています。山南敬助は屯所にいて出迎えたのだろうか?もし出迎える状態であれば、なんと声を掛けたのだろうか?その辺りがとても気になるところです。
by eri-seiran | 2006-07-15 17:35 |  出来事

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