禁門の政変(八月十八日の政変)における山南敬助

9月に入り、文久3年(1863年)9月の山南敬助らの経過と状況を書く頃になってきました。新選組として、キーポイントなる大きな出来事があった月です。
しかしそれについて書く前に、8月の記事『文久3年(1863年)8月の山南敬助の経過と状況』において、生糸商大和屋の焼き討ち事件と禁門の政変(八月十八日の政変)については、後日に改めて書きますと書いておきながら、まだ書けていません(汗)。
生糸商大和屋の焼き討ち事件についてはスルーします。今月は、芹沢鴨について記事にしたいと思っていますので、その時にこの事件についても触れることになるだろうと思います。

と言うわけで、本日は禁門の変(八月十八日の政変)について。
これは、どのような出来事であるか?簡単にまとめると、尊攘倒幕派の長州藩と公武合体派の会津藩・薩摩藩が一触即発な状態になったが、長州藩が退去したために戦闘には至らず、反幕派の公家たちと長州藩は京から去ったというものです。

この時、最初、壬生浪士組は待機していましたが、会津藩より出動命令の達しがあり、御所の警備にあたったというわけです。
そして有名な逸話があります。御所に到着して、蛤御門を通ろうとした壬生浪士組ですが、この時、その場を警備していた合津兵が壬生浪士組のことを知らず、通行を妨げた。それに対して、芹沢が大声で罵った。ここでも会津兵と壬生浪士組の間で険悪なムードになったわけですが、壬生浪士組を知っている会津藩のお偉いさん方が来て、芹沢に詫びたというものです。

そしてなんと、山南敬助に関する逸話もあるのです。山南は温厚篤実、親切者、子ども好きと云われる一方で、ものを申す人、短気、気性の激しい人でもあったと云われます。これらの長所・短所は逸話などから云われているのでしょう。
短気という面においては、村上俊五郎との件、脱走の件、そして今回の禁門の政変に行く前の出来事があります。

出陣となった時、山南は先鋒でありながら鎧がなく、鎧がないことに激怒したとのこと。
その時、間に入って山南をなだめたのが、『親切者は山南、松原』と云われているもう一人の親切者の松原忠司だったそうです。
この逸話がどこまでが史実か?分かりません。とにかく、この頃は元気で、禁門の政変に参加したということですよ。

この禁門の政変での働きが認められ、『新選組』という名を賜ったと云われています。そして9月の末には、この時の働きに対して、朝廷から隊士たちに各金一両が下されたのです。
この時には、山南ももらったんですよ。もらったはずです。参加しているのは間違いないだろうし。池田屋事件の時の褒賞金はもらえませんでしたが(苦笑)、ここではもらえたのです。

壬生浪士組にとっては、初めての公的な大きな仕事をしたわけですよ。そして『新選組』という名前も頂き、また褒賞金をもらって、山南初め、試衛館のメンバーも嬉しかったと思う。きっとこの頃は、芹沢派の問題があっただろうけれど、山南は近藤・土方らと同じ気持ちで喜び合えただろう。そして新選組の結束を固めるために、近藤・土方らと同じ道を歩いていたんだな~と、思う次第です。
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by eri-seiran | 2006-09-06 23:50 |  出来事

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