山南敬助ラリー@大阪編 其の二

山南敬助ラリー@大阪編 其の二です。巡ったゆかりの地を簡単に紹介しますね。
そこで巡った順番ではなく、出来事や逸話ごとにゆかりの地を書いていきたいと思います。

力士との乱闘事件
これは、文久3年(1863年)6月3日の出来事です。
山南、芹沢、総司、永倉、斎藤、島田、平山、野口の8名が船宿京屋から船で大川に繰り出したが、途中で斎藤が腹痛を起こしために鍋島河岸(なべしまかわし)にて下船。そして北新地住吉楼へ向かう途中にある難波小橋と蜆橋で力士と遭遇して、無礼があったとして殴打。そのまま北新地住吉楼に入ったところ、激怒した大勢の力士たちが住吉楼に集まってくる。そこで力士との乱闘事件が起きたというわけです。

京屋は新選組の常宿になっておりました。今は石碑などはありませんが、この辺りだろういう確認はして参りました。この階段を上がった所に公園があり、その辺りのようです。この階段を降りた辺りで舟に乗ったんだよね~と、色々と想像してみる。その石段は古いな~という感じがしました。
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船宿京屋は、大川の左岸で大阪天満橋の下手になる八軒家という土地にあったと云われています。八軒家という由来は、八軒の船宿や飛脚があったからだそうであり、幕末には10件の船宿があったそうです。ということで、八軒家船着場の跡という石碑はありました。
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私たちは、大川を周遊するというアクアライナー大阪城・中之島めぐりへ。まず船に乗って山南らの気分に浸ろうというわけです。乗る前からワクワク。ドキドキ。淀屋橋港から乗って一周すれば、約1時間。私たちは次の巡る場所の関係で手前の天満橋港で降りました。この周遊はかなり良かったので、また改めて書きます。

本当は鍋島河岸で降りたかったのですが、港も無く、現代では降りられるような場所でもありませんので、あの辺りが鍋島河岸だということを確認。そしてそこから彼らは歩いて蜆橋、住吉楼に向かったわけですが、かなり近いです。今は埋められて川や蜆橋の面影は全くありません。
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北新地住吉楼跡あたりには行かなかったのですが、この筋を行ったところという確認だけしました。現在もこの辺りは歓楽街となっております。

西町奉行所と内山彦次郎の暗殺
近藤が相撲力士との乱闘についての届出『口上覚』を西町奉行所に提出したところ、その時に与力の内山彦次郎が近藤らに対して、新選組の暴挙を咎めたために、その後の暗殺に繋がったと云われています。また一方で東町奉行所に提出したという記録も残っていて、ちょっと情報が混乱しております。
とにかく一緒に大阪入りしており、力士との乱闘事件の時にはいなかった近藤と、そして芹沢の二人の名前で書いている『口上覚』を実際はだれが書いたのだろう?提出しに行ったのは誰だろう?ということが気になるわけですよ。『新選組!』では、山南敬助@堺雅人が書き、近藤に付いて一緒に行ったわけですが、史実でも有り得るよな~と思うわけです。
さて内山彦次郎の暗殺にいたメンバーとしては、近藤・土方・総司・左之助・永倉・井上・島田などの名前が挙がっております。「この時に山南はどうしていたんだろう?」という話しにレッドさんとなりました。この事件は元治元年(1864年)5月20日に起きています。起きた年月日がわかった時点で、山南についてもわかりました。この時、山南は病にて臥せていたということで、二人共納得した次第です。また内山暗殺の理由には、倒幕派の意を受けて米相場を引き上げ、町民たちを苦しめたからとも云われています。そして暗殺されたのは天神橋であり、仕事を終えて西町奉行所への帰り道、また西町奉行所から自宅への帰宅途中だったとも云われています。きっと誰かが内山を尾行して、待ち伏せしている近藤や土方らに伝えたんだろうな~

その西町奉行所と天神橋ですが、同じ通りの北と南にあります。松屋町筋という通りであり、距離にしてこの間は1km弱位でしょうか?私たちは、京屋宿跡→天神橋→西町奉行所という順番に行きました。本当は近藤が京屋宿から届出を出すために向かったと思われる西町奉行所にそのまま直接行ってみたかったのですが・・・史蹟を効率よく回るために天神橋を間に入れました。
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不逞浪士と戦って負傷した山南敬助
これも情報が色々とあります。岩城升屋説と鴻池説。
岩城升屋は呉服店であり、繁栄を極めていた富商でした。鴻池は大名貸しなどを営む大阪随一の豪商。この二つは、当時の観光コースにもなっていたとレッドさんが教えてくれました。そんな観光コースになるほどの富商に不逞浪士が現われ、どちらも山南が戦ったのは間違いないわけです。岩城升屋は山南と近藤、鴻池は山南と土方です。ただどちらも起きた年月日が伝わっていません。山南が病に伏せていたという記録、また表舞台に立たなくなった時期を考えて、元治元年(1864年)の1月までに起きた事件と考えられると思います。そしてこれらが同じ日に起きたという説もあります。

今回、歩いてみて分かったことが、岩城升屋と鴻池がとても近い距離にあるということです。
岩城升屋跡は残念ながら石碑などは残っておりません。鴻池跡の石碑はこれです。
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私たちは信号で止まったりしていましたが、普通に歩けば5分ほどで行けるのではないでしょうか?そして彼らが常宿にしていた京屋にも近い。京阪電車の駅で考えると、北浜駅と天満橋駅の一駅です。鴻池は北浜駅より少し西へ。岩城桝屋は北浜駅より少し東。そして鴻池より少し南に下がります。京屋は天満橋駅近くです。
私が簡単に歩けた距離なので、江戸から京まで歩いてきた人たちにとっては京屋から走って鴻池まで簡単にたどり着けると思います。
鴻池にしても、岩城升屋にしても不逞浪士に襲われ、店の者が走って京屋にいる新選組に助けを求め、山南と土方、または山南と近藤が走って駆けつけるには無理の無い距離なのです。また同じ日にあった出来事と考えれば、まず鴻池に行き闘い、また岩城升屋にも不逞浪士に襲われているという情報が流れてきて、そのまま岩城升屋に駆けつけることも可能です。そう考えた場合、鴻池で闘った山南の佩刀である赤心沖光の状態はどうだったのか?山南の体力はどうだったのか?とか、また色々と考えてしまうわけです。
とにかく、このどちらかの事件で山南は負傷し、その後の人生に多少なりとも影響を与えたわけです。

ちょっと史蹟とは関係ないのですが、私たちは昼食に鴻池跡近くの柴藤(しばとう)というお店でおひつまむしを頂きました。とても美味しかったです。
そして入ってから気付いたのですが、なんと創業は1713年という老舗のお店でした。ここのお店で彼らも食べたのかな~という話しになり、当初はお金が無かったから無理だったとか、いや~岩城升屋や鴻池というところがご馳走したかもしれないとか・・・
とにもかくにも事件をこのお店も見ていたのです。当時の場所と同じであれば・・・

新選組が借金をした平野屋
平野屋は大阪の代表的な両替商で、代々、五兵衛を名乗り、平五と略称されていたそうです。
山南が平野屋に行った記録はありませんが、文久3年(1863年)4月、芹澤・近藤・土方・総司・永倉らが訪れ、無理やり100両の借金をして、そのお金でダンダラ羽織をあつらえたとも云われています。また元治元年(1864年)の12月には、大阪の豪商22家より6600貫の銀を借用しており、そのうち平野屋は3700両を負担したそうです。

ここは岩城升屋跡からかなり近い距離です。平野屋から無理矢理に借金した頃はまだ壬生浪士組でしたし、活躍もありません。しかし次第に京での知名度があがり、また鴻池や岩城升屋を不逞浪士から守ったということで、大阪のこの辺りの豪商である鴻池やにしても岩城升屋にしても平野屋にしても、用心棒として頼られるようになってきたのではないでしょうか?その代わりに新選組も金銭面で助けてもらったと思われます。

天王寺屋五兵衛と平野屋五兵衛の2軒が店を構えていたことから、ここを『天五に平五 十平衛横町』と呼ばれており、このような石碑が残っているというわけです。
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山南には直接関係のないゆかりの地もありましたが、とにかく調べてみて、自分たちで歩いてみて、色々なことが分かり、また感じられたという次第です。

最後に、写真がとても大きくてごめんなさい。
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by eri-seiran | 2006-09-12 12:41 |  ゆかりの地

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