芹沢派暗殺

試衛館派と芹澤鴨派との関係は、実際はどんな感じだったのだろう。
清川八郎の考えに反対して残った2派。

試衛館派:近藤、土方、沖田、井上、永倉、原田、藤堂、(斎藤)、山南敬助
芹沢派:芹澤鴨、新見錦、平山五郎、平間重助、野口健司

芹澤の悪行が芹沢派の壊滅に繋がっていったわけですが、どこまでが史実なのか?ただ直接の原因は生糸問屋の大和屋焼き討ち事件だったとのこと。これは壬生において相撲興行が行なわれた文久(1863年)8月12日に起きました。
何故?芹澤は相撲興行をぶち壊すようなことをしたのだろうか?
それは芹沢にとって、壬生での相撲興行というイベントが面白くなかったから。芹澤が相撲興行を楽しんでいたなら、そのようなことをわざわざその日にしないだろう。『新選組!』でもそうでしたが、芹沢派はこの相撲興行に関わっていないらしい。武士がそのようなことをして金を稼ぐということ自体に反対だった。
これについて、「新選組日誌 コンパクト版 上」における解説が面白い。

武士の労働とは戦であり、その功によって禄を食み、日常的に営利行為を行なうものではなく、それは民百のすることだった。おそらく、芹澤はそのように考えていたに違いない。しかし、近藤勇はちがった。浪人である以上、働かなければならなかった。それが武州各地を回る出稽古であり、道場の経営だった。生活費は、自分らの手で稼ぐものなのだ。土方歳三、山南敬助、沖田総司、井上源三郎、彼の身内は誰でもそうだった。

元々武士であった芹沢らと、農民の出身であった近藤らの考えの違いはあっただろう。山南だって元々は武士の出身と云われていますが、脱藩しておりますし、10代後半で江戸に出てきて、苦労したに違いない。生活費を稼ぐ方法を身につけていただろう。

とにかくこの相撲興行と同じ日に起きた大和屋焼き討ち事件が、芹沢派の粛清に繋がっていったというわけです。

新見を殺害し、それから数日後の18日(或いは16日)に、芹沢派の暗殺が実行されました。
芹沢と平山、そしてお梅が殺害され、平間、平山と一緒に居たと云われる島原桔梗屋の吉栄、平間と一緒に居たと云われている輪違屋の糸里は助かっています。野口はその場には居ませんでした。
さて刺客ですが、
近世野史(西村兼文談)によりますと、近藤・土方・山南・沖田・原田ら
浪士文久報国記事(永倉新八談)によりますと、土方・沖田・藤堂・御倉伊勢武
新選組遺聞(八木為三郎談を子母澤寛による記録)によりますと、土方・沖田・原田・山南

これを見る限りでは、土方と沖田は間違いないだろうと思うのです。問題は山南と原田です。
新選組の幹部であった永倉、それも明治の早い時期に書かれた浪士文久報国記事。永倉は、この暗殺については知らされていなかったと云われています。芹澤と同じ神道無念流だったからとか。事件の時は角屋にて酒を飲んでいたらしい。身内による暗殺だということをいつ知ったのだろうか?また暗殺の様子も書かれていますが、誰に聞いたのだろうか?
一方、西村兼文氏は、刺客の一人である山南のことを三南三治郎という名前で挙げています。三南というのは分かるのですが、「三治郎ってだれよ」ってなりますよね。
このように変名を使ったのは、西村が山南に迷惑をかけないようにという配慮だったのでは?とも考えられるようです。そうなると、西村は山南が刺客だったと分かっているからこそ、変名を使って山南を挙げているということになりますし・・・
西村の『近世野史』、永倉の『浪士文久報国記事』、どちらも明治の初期と云われていますが、どちらが先だったかしら?(追記:『近世野史』は、明治3年刊行とのこと。)
昭和の初めに出された『新選組遺聞』による八木為三郎談では、「どうも山南敬助もいたんじゃないかと母はいっていました。」という感じですし・・・
難しいところです。

ただ永倉と違って、刺客に山南が入っていなくても、山南はもちろん知っていただろう。実行犯でなくても、計画したメンバーの一人だろう。また指令などを出していただろう。
もしそうでなかったら、たまりませんよ。また仲間外れ?となっちゃいますから。

しかしこの芹澤鴨暗殺後、山南が表舞台に出た記録は残っていません。もちろん、岩城升屋事件(或いは鴻池宅での事件)がその後に起きたと思われますが・・・

清川の殺害を計画した時、芹澤と一緒に行動したと云われている山南。
舟遊びを興じ、その後、力士との乱闘にて一緒に闘った山南。
山南は芹澤派粛清をどのように考えていたのだろうか?近藤や土方と全く同じ考えだったのだろうか?
この事件後、山南が表舞台から姿を消すだけに、なんか気になるんですよね。

『新選組!』の芹澤鴨@佐藤浩市はとても良かった。人間味があって、彼の弱い部分が上手く描かれていた。史実の芹澤もきっと色々な面があったんだろうな~
清川八郎@白井晃を待ち伏せしている時の芹澤鴨@佐藤浩市と山南敬助@堺雅人のやり取りは好きなシーン。力士との乱闘後、近藤と奉行所に行って近藤によって解決し、帰ってきた山南が、芹澤に「すべてわれらの手で治めました・・・・」と言い、そして山南らが出ていた後、芹澤が怒りをあらわにするシーンも好き。

山南と芹澤が一緒に歩いた八軒屋船着場や蜆橋辺り、一緒に船遊びを興じた大川、一緒に寝泊りした京屋跡などに、芹澤の旧暦での命日である9月に行けたのは良かったな~と、改めて思っている次第です。
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by eri-seiran | 2006-09-25 18:07 |  出来事

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