斎藤一忌

大正4年(1915年)9月28日 試衛館派の最後の一人となった斎藤一が亡くなりました。享年72歳。同じ試衛館派で、幕末・明治・大正を生きた永倉が同じ大正4年の1月5日に亡くなっていて、これもなんか不思議な縁を感じてしまう。
新選組での斎藤を考えると、試衛館派のみんなを見送り、最後となったのも天命だったのか。
ところで、命日について、旧暦とか、新暦とか、考えなくてすむのはちょっと羨ましい。

試衛館にも出入りしていたと云われる斎藤。
池田屋事件にも参加し、そして山南敬助の最期を見送ったはず。
間者として御陵衛士に加わり、試衛館派のメンバーでは唯一、御陵衛士としての藤堂平助と共に過ごした人。
鳥羽・伏見の戦いに敗れ、井上が亡くなり、江戸に帰ってきてからは永倉や原田が去り、沖田は戦える状態でなく、そして近藤は敵軍に出頭。試衛館派で残ったのは土方と斎藤の二人だけ。
近藤救出のために江戸に潜入した土方に代わり、先に北上し、また宇都宮の戦で負傷した土方に代わり、会津では隊長代行となり、戦っている。この時、斎藤は25歳。若いよな~土方の信頼も厚かったのだろう。
慶応4年(1868年)9月、激戦となった如来堂で闘い、斎藤はそこで亡くなったと思われていた。しかし激戦から脱出していたのである。
その後、高田(現在の新潟県上越市)にて謹慎。そして会津の人たちと斗南(現在の青森県の下北半島)に移住。過酷な生活だったらしい。明治7年に上京。
明治10年には西南戦争に警視局の警部補として参加。この時、薩摩を中心とした人たちを相手にどんな思いで戦ったのだろうか。

新選組に加わるまでの山口一
新選組幹部であった斎藤一
北上し戦い続けた山口次郎
会津人として生きた一瀬伝八
西南戦争に参加し、明治・大正を生きた藤田五郎
4回も名前を変えなければ、生きていけなかったのである。

新選組について語った永倉新八。語らなかった斎藤一。
語るも語らないもそれぞれの思いがあり、それぞれの生き方である。
しかし斎藤一も山南の最期を知っており、また試衛館派の中で唯一、会津までの土方を知っているのは確かなこと。

激戦であったと云われる如来堂の戦い。昨年の9月下旬、如来堂へ行って参りました。ここを訪れるのは2回目だったのですが、やはりこの場所は何かを感じずにはいられない。色々なことを考えてしまう。ここに歴史を感じさせる銀杏の木があります。その銀杏の木は如来堂での激戦を見ていたであろう。そしてここに立つだけで、また如来堂の手前の道にて、こんな秋の風景を見ているだけで涙が出そうになります。そんな所です。

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by eri-seiran | 2006-09-28 23:26 |  同志たち

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