文久3年(1863年)11月の山南敬助らの経過と状況

毎月に1回、恒例にしている記事です。
今月は、山南敬助が不逞浪士と戦って負傷した時期を語るのに、キーポイントとなる出来事がありますし、大河ドラマで滝本捨助のモデルとなった松本捨助が登場します。

11月9日 西篠幸次郎という人物が、壬生浪士岩崎三郎と名乗り、金策をし、捕らえられる。

岩崎三郎という名前の隊士は新選組にはいなかったようで、西篠幸次郎が名乗った架空の人物らしい。これまでにも同じような事件は起きており、新選組の隊士の中でもそのようなことをしていた者がいたから、そのような事件が起きたのだろうという見方もされています。烏合の衆ですから。局中法度が実際にあったのか?とも疑問視されていますが、このようなことがあったら、あってもおかしくないな~と思ったりします。

11月16日 新選組は一橋慶喜にお供して、大阪に下る。

大阪には3日間、滞在。山南敬助が大阪に下ったかは不明です。すでに不逞浪士と戦った事件がこれまでに起きていなかったら、山南は下坂した、そしてそれならば、この大阪滞在の時に、不逞浪士と戦った事件が起きたのではないだろうかと私的には見ています。

11月18日 近藤勇の書状が小島家に届く。

この書簡は、内容や書簡が京から江戸に届く日数などから考えて、9月20日付けのものであり、刀が折れたこと、芹沢や平山の死について述べられた内容とのこと。ちなみに、9月20日は、芹沢たちの葬儀が行われた日です。

11月19日 近藤勇、京都町奉行の永井尚志と懇談する。

そうですよ。永井様ですよ。永井様(笑)。
永井尚志は、後に若年寄となり、そして鳥羽伏見の戦いから箱館まで一緒に戦ったお方です。
まさかこの時に、永井様も新選組と共に戦いながら、蝦夷地まで行くとは思ってもいなかったでしょうね。
永井様のことを書いていたら、『新選組!!』で、土方歳三@山本耕史が「俺はあの人になんと言って詫びたらいいんですか。」に対して、「ごめんなさいでいいじゃないか・・・」と言う永井尚志@佐藤B作のあのシーンを思い出し、思わず目頭が熱くなっちゃいました。

11月21日 松本捨助が多摩より新選組に入れてほしいと壬生を訪れましたが、入隊を許されず、京を出立する。

松本捨助は、佐藤彦五郎の道場に通っていた一人であり、壬生浪士組として試衛館のメンバーと一緒に参加したかったのですが、一人息子ということから、周りから反対されました。今回も諦めきれず、上京したわけですが、そのような事情から土方や近藤に新選組に入ることを許してもらえなかったそうです。
そしてこの時に託されて、破損した刀三振りを試衛館、日野に持ち帰ったと云われています。そしてその三振りの中の一振りが山南敬助の佩刀である赤心沖光であり、折れたまま、血糊が付いたままであったと云われています。
刀三振りが破損した事件はいつに起きたのか?11月16日から3日間、大阪に滞在していた時に事件は起きたのではないだろうか?と、思ったりもしているのですが・・・
さてこの時、土方から小島鹿之助宛の書簡もあり、そこには松本捨助が京に来たが、帰らせるのでよろしくお願いしたいといった内容のことと、追伸には有名な土方の女自慢が書かれています(笑)。

11月29日 近藤勇、佐藤彦五郎、小島鹿之助など多摩の支援者たちに書簡を記す。

内容は、京の状況、永井様と会って話しをしたことなど、また道場が気になっていること、稽古に励むようになどの内容が書かれているようです。 
そして、
且相損シ候刀御覧入候間、御一覧上拙家御遣置成被下候。
                    
           (新選組日誌 コンパクト版 上より抜粋)

と、書かれています。相損じ候刀とは、松本捨助が託された三振りの刀と考えられるのでは?
そして一ヶ月前の10月20日付けで、近藤は同じような内容の文を書簡に記しているのです。ということは、山南が負傷した事件は10月20日以前のことなのか?

これ以上書くと深みにはまりそうなので、以上が、文久3年(1863年)11月の山南敬助らの経過と状況でした。
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by eri-seiran | 2006-11-09 16:10 |  出来事

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