それは山南敬助の選んだ道

昨日の記事で、

そこには山南敬助の切腹·自刃に対しての考え方などの違いがあるからだろうと思いました。

と、書きました。
しかし読み返し、言葉足らずだな~と反省(苦笑)。

山南の死は謎。
切腹に至るまでの経過は様々な説がありますが、切腹は間違いないだろうと言われています。
しかし100パーセント史実だとも言えない。

伊東甲子太郎が山南敬助の割腹を弔って四首、詠っていること。
永倉新八が明治の初期に書いた『浪士文久報国記事』では、山南の死に全く触れていないこと。
明治22年に書き上げた西村兼文の『新撰組始末記』では、一書を残して三月下旬に自刃したと書かれていること。
小島鹿之助の『両雄士伝』には、近藤から自刃を下命されたと書かれてあること。
永倉新八が大正2年(亡くなる2年前)に『新選組永倉新八』(新選組顛末記)で、山南敬助の脱走・切腹を語ったこと。
子母澤寛が昭和3年に『新選組始末記』にて山南敬助の脱走・切腹を書いたこと。

これらを読んでいると、色々なことが考えられるんですよね。
近藤や土方たちとの意見の食い違いから切腹する結果になってしまったのか?
負傷により、表舞台に立てなくなったことが、自害(自殺)する結果になってしまったのか?

どちらにしろ、それは山南が選んだうえでの結果であり、土方や近藤に責任はない。
意見が食い違い、一緒にやっていけなくなったのなら、伊東甲子太郎みたいに分離という方法もあった。また永倉新八らのように建白書を出す方法もあった。尊皇攘夷の思想が強かったのなら、長州のメンバーらに合流することができただろう。
しかし山南にはできなかった。山南が選んだのは死である。
武士としての義を通したのである。
脱走が史実で、局中法度が実際にあったのなら、山南は切腹も覚悟の上で脱走したはず。

また負傷して、表舞台に立てなくなり、そんな自分が受け入れられず、死を選んだのなら、それも山南が選んだ道。負傷しても命に別状なければ、新選組の中でなくても、多摩や江戸で生きる道はあったはず。でもそれは彼には受け入れられなかった。できなかったのだろう。

土方や近藤も辛かっただろう。もし意見が食い違ったとしても、長い付き合いだったのだから。
山南の死を語る上で一番古いものが、伊東甲子太郎の弔歌です。この弔歌からは、山南が非難を浴びた死ではないことが分かるそうです。
それが何よりもの救いです。
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by eri-seiran | 2006-12-03 22:07 |  山南敬助

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