文久4年(1864年)1月の山南敬助らの経過と状況

現代に生きる私たちは、平成19年(2007年)という新しい年を迎えましたが、143年前、山南敬助は文久4年(1864年)という新しい年を迎えました。文久は、2月20日に元治という年号に変わります。そのために1864年は実際には元治元年ということになるのですが、取りあえず、2月20日までは 文久4年でいきます。

1月2日 江戸より船にて大坂入りする将軍家茂公の警護のために、新選組のメンバーは下坂する。

どれだけのメンバーが大坂に向かったかは、定かではありませんが、30人から40人とも。屯所に残ったメンバーもいたでしょう。山南が下坂したかは不明。この大坂滞在中に、岩木升屋、あるいは鴻池にて、不逞浪士と戦って負傷したのではという説もあります。それまでに不逞浪士と戦って負傷していたら、大坂には行ってないのではないかと考えられます。

1月8日 将軍家茂公、大坂に到着。新選組は将軍を出迎え、大坂入城の警備をする。

新選組のメンバーにとって、嬉しい任務だったことでしょう。もし山南が負傷のために任務に就けなかったのなら、辛かっただろう。

1月10日 土方歳三、大坂での将軍出迎えの時の布陣を記す図解入りの年賀状を日野の祖母の生家に送る。

これにて、いかに土方が嬉しく思ったかということが、わかりますよね。

1月14日 将軍家茂公、大阪を出立。船にて淀川より伏見城に入城。新選組のメンバーは伏見に先着し、将軍の入城に際し、城裏を警備する。

私たちが9月に船にて周遊しましたが、あの川を家茂公は伏見まで上がったのです。新選組のメンバーも舟にて先に伏見に着いたんだろう。

1月15日 将軍家茂公、二条城に入城。新選組のメンバーも同道し、屯所に帰陣する。

山南は帰陣した一人だったのか、それとも屯所にて出迎えたのか?もしかしたら、静養していて、出迎えさえできなかったかもしれない。この大坂滞在中に、不逞浪士と戦って負傷したのならば、大阪に残って静養していたということも考えられます。

1月21日 将軍家茂公、御所を参内。新選組も警備にあたったと考えられる。

1月27日 山南敬助が27日付けで、小島鹿之助宛に年賀状を記す。

これを最後にして、山南敬助が表舞台に出てくる記録は残っていません。
その後、表舞台に出てくる記録は、元治2年(1865年)2月の脱走・切腹です。
この年賀状については、後日に改めて記事にします。

文久4年(1864年)の1月は、新選組にとっては忙しい日々でした。しかし将軍家茂公を出迎え、警護に就くというとても誇らしいことであったのは言うまでもありません。だからこそ、そこに山南敬助がいたか、いなかったかということはキーポイントになるわけです。
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by eri-seiran | 2007-01-02 21:10 |  出来事

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