元治元年(1864年)3月の山南敬助らの経過と状況

書きたい記事が溜まっています。『新選組!』の再観賞についても第16回を2月の末に書いたまま。江戸・多摩に行く前に第17回と18回は観たのだけれど、大分日が経ってしまった(汗)。多摩にて山南敬助も歩いたかもしれない布田道を歩いたことも記事にしたいしな~というわけで、これについて書くつもりで、どの写真を使おうと考えていたら、大事な記事を忘れていました。
毎月、恒例にしている山南敬助らの経過と状況です。
江戸・多摩行き、山南忌へ参加し、舞い上がったり、それが終わったらちょっとへこみ、そんなこんなですっかり忘れていました。危ない、危ない。
と言うことで、今日は元治元年(1864)の3月の山南敬助らの経過と状況です。

山南を語る上で忘れてはならない方と出来事のひとつに、日野蓮光寺村名主の富沢政恕が1月に京に来て、2月2日に壬生を訪ねたが、山南ハ病に臥し逢ハす。と、富沢の日記に書いていることです。
詳しいことはこちらの2月の記事より
その富沢政恕は3月にはまだ京にいました。

3月3日 土方と井上源三郎が、富沢政恕を訪ね、一緒に清水寺に参拝して、祗園にて満開の桃の花、咲き始めた桜を観ながら酒宴。

3月3日は、新暦で4月8日です。この年には、この時期に桜の花が咲き始めたということがわかります。

3月5日 島原木津屋において、桃花の宴を持つ。

2月に新選組は会津藩のお預かりではなくなりそうな事態が起き、今まで通りに松平容保公の指揮下に入れるように嘆願したところ、幕府重役よりこれまで通りと言う許可が3月3日におりました。その喜びの宴だったというわけです。
参加者は、新選組からは、近藤、土方、沖田、井上、藤堂等。そして富沢政恕、富沢の知人ら。また芸鼓舞子など多数。
山南敬助は参加していません。私は言い切ります(苦笑)。藤堂等の等に永倉や斎藤、原田が入っていても、山南が入っていることはない。山南が参加しているなら、山南の名前を挙げているはずです。

3月11日 島原の千紅萬紫楼にて花見会の酒宴を持つ。

参加者は、近藤、土方、井上、沖田、藤堂、武田等、そして富沢政恕です。
新選組の参加者は、5日の桃花の宴のメンバーにプラス武田観柳斎ですよ。永倉、原田、斎藤が等に入るのか、参加していないのか、気になるところです。

3月26日 富沢政恕、佐藤彦五郎宛に、『勇、歳三、山南、沖田、一同無異之由。喜悦々々。』ということが書いた書簡を送る。

富沢政恕から佐藤彦五郎宛に新選組の事情などを書いた書簡が4月に届いています。
富沢に同行して京に来ていた相澤初五郎という人物が、25日に京にて亡くなり、翌日の26日に遺骨と書簡を故郷に送っています。その時に一緒に送ったものと考えられるようです。
山南の名前は、近藤、土方の次にあります。同じ多摩の出身であり、京にて何度も会っている井上源三郎の名前はありません。いかに山南が、佐藤彦五郎らと懇意にしていたのかがわかります。しかし富沢政恕が京にて山南に会った記録は残っておりません。なのに、一同無異之由。喜悦々々。と、書かれていることが謎なのです。

と言うわけで、近藤、土方、井上、沖田、藤堂らは花見をして楽しそうにしているのに、山南は?と思うと、ここで彼らと山南の間に距離ができてしまっているように感じます。
そして書きながら、『新選組!』の第30回『永倉新八、反乱』にて、近藤・土方・井上・沖田という元々の天然理心流のメンバーが宴を持っているところに、山南敬助@堺雅人が登場するシーンを思い出してしまいました(涙)。史実では、病に臥していて参加できなかったのでしょうが、似た状況ではないか!

とにもかくにも山南の病について語る上で、重要な元治元年の3月の出来事と状況でした。
[PR]
by eri-seiran | 2007-03-16 23:10 |  出来事

山南敬助をメインにしたブログです。ホームページ『山南敬助 赤心記』共々よろしくお願い申し上げます。


by eri-seiran
プロフィールを見る
画像一覧