元治元年(1864年)5月の山南敬助らの経過と状況

毎月、恒例にしている『山南敬助らの経過と状況』の記事です。今月は元治元年(1864)の5月です。仕事や長崎の旅などで忙しく、記事にする余裕がなかったわけですが、山南が表舞台に立っていないこと、書簡などにも名前が出てこないことなどから、書くモチベーションが低かったのも事実です。しかしそろそろ書かないとな~と思いながら、昨夜、どのような出来事があったか確認していたら、山南に視点をおいて考えた時に興味深い出来事もあり、書きたいという気持ちになってきた次第です。

5月3日 近藤勇が新選組の進退を伺う内容の書状を会津藩を通して、幕府老中宛に提出する。

この時期、将軍が上洛しています。しかし何にも進展はない。攘夷の実行ができず、新選組は市中の見廻り、不逞浪士の捕縛など。近藤はこのような状態が続けば、新選組の解散も覚悟していたそうです。結局、その後、大坂で幕閣に慰留され、その約1ヶ月後に池田屋事変が起き、新選組の名を轟かせたわけです。
この時の近藤の不安な気持ちには、病にあった松平容保が京都守護職に復職しないこともあったのではないかという見方があります。
それもあっただろう。
そしてここからは私的な考察です。山南敬助が少なくとも2月より表舞台に立てなくなりました。その原因は不逞浪士と戦った怪我によるものだと考えられています。近藤と山南は近藤と土方歳三ほど強い絆はなかっただろうけれど、元々の天然理心流のメンバー以外では一番絆は強かったはずだし、近藤は山南を頼りにしていたはず。近藤の不安の中に山南が表舞台に立てなくなったことも影響しているのではないかと思ったりしています。

5月7日 将軍の家茂公が江戸に帰るために下坂することになり、新選組もお供する。

山南は静養していたと考えられ、この時は行っていないでしょう。

5月14日 見廻り組より隊員が不足していることから、新選組の隊士から補充したいという申し入れが会津藩にある。

これについては会津藩より却下。ただ新選組の評価が高かったことがわかる出来事です。

5月15日 富沢政恕が土方から託された土方の鉢金や日記帳などを小野路村の小島政則が見る。

これは2月に京の壬生村を訪ねて4月13日に京を出立した富沢政恕が佐藤彦五郎宛に土方から託されたものを小島政則(小島鹿之助の父親)が見たというわけです。鉢金には傷もあったそうな。
この時、富沢政恕は山南敬助の状況についてどのように伝えたのだろうか?

5月16日 新選組は大坂の天保山にて、船にて江戸に帰る将軍家茂公を見送る。

そこに山南はいなかった。

5月18日 将軍警護の功労に対して、新選組は銀100枚頂く。

これは新選組の公費となったのだろうか?警護したメンバーで分けたのか?そうなると山南はもらえず。

5月20日 近藤勇、多摩の中島次郎兵衛に書簡を送る。

中島次郎兵衛は武州柴崎村に住む近藤の友人。新選組の進むべき道、解散も考えているという近藤の悩みが書かれています。
中島次郎兵衛は翌月の23日に24歳で亡くなったそうです。この書簡が本人の所に届いたかは不明。

5月20日 大坂西町奉行所与力である内山彦次郎が天神橋の上にて暗殺される。

暗殺者については土佐藩の志士らによるものという資料もあるようですが、西村兼文の『新撰組始末記』、島田魁や永倉新八の記録から新選組の可能性が大。永倉新八は自分の記録で自分は暗殺に加わったと認めています。

これ以外の5月の状況や出来事して、男色が流行したとかあります。後、近藤勇が谷周平を養子にしたのもこの頃と云われています。
映画『壬生義士伝』でも大河ドラマ『新選組!』でも谷周平の養子については取り上げられました。
映画『壬生義士伝』では、カットになったシーンとして、谷周平が養子になったこと、また兄の谷三十郎の態度が面白くない沖田総司@堺雅人と斎藤一@佐藤浩市が、周平をいじめるところがあります。ちなみに原作でもあります。映画の方は山南が亡くなった後に養子縁組をした設定になっているのね。
『新選組!』では、あまり乗り気でない近藤勇@香取に養子縁組を勧める山南敬助@堺雅人でした。
史実はどうだったのだろう。静養している山南敬助の知らない所で話は進んだのだろうか?それとも相談があったのだろうか?どちらにしてもこれを聞いた山南の意見はどうだったのだろう?

それからもうひとつ気になる出来事として、この頃、阿部十郎ら多数の隊士が脱走しております。そこで脱走を禁止する厳しい隊規を作ったとも云われています。
隊規、つまり局中法度についても色々な説があるわけですが、この阿部十郎は慶応元年(1865)の5月頃に再入隊しているのです。
その約3ヶ月前に、山南敬助が脱走して、見つかって切腹を命じられたと云われています。と言うことで、この脱走・切腹に疑問を感じる一つに脱走した阿部の再入隊があるわけです。脱走したにもかかわらず、再入隊できた阿部。一方、昔からの仲間、大幹部、1年以上に亘って表舞台に立っていない方の突然の脱走によると云われる切腹。やっぱり疑問が残ります。

さていよいよ来月は池田屋事変です。歴史が動いたその時、山南敬助はどこで何を思っていたのだろうか。
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by eri-seiran | 2007-05-13 15:02 |  出来事

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